新・ユートピア数歩手前からの便り -32ページ目

Vorbildとしての人間(5)

ゾーエーが実だとすれば、ビオスは虚だ。ゾーエーに根差したヒトの生活は正に地に足のついた堅実なものだが、そこから遠ざかれば遠ざかるほど人の生活は虚しくなる。それが苦しかった。理想社会の実現を求めることは虚妄なのか。食うための生活、すなわちゾーエーの持続を可能にする肉体の糧を得るために労働し、それを円滑に循環させるための娯楽で定期的にリフレッシュする生活のみが「本当の生活」なのか。それ以外は全て「虚妄の生活」なのか。ヒトは人に「進化」したが、それは所詮労働の合理化(生産性の向上:わずかな労働で大きな生産を上げて余暇を増やす)と娯楽の洗練(より刺激的な快楽の追求)にすぎないのか。私はそうは思わない。思いたくない。私は労働を超える仕事がしたいと思った。それは人を人間に高める活動になり、ビオスの次元を切り拓いていく。確かに、ゾーエーを核とする「本当の生活」に比べれば、ビオスの生は「虚」だ。「虚」は「実」の反対であり、通常は余り良い意味では使用されない。本当ではないこと、偽りとか。しかし、「虚」は否定的な意味(例えば、虚妄)に尽きるものではない。私は「虚」にもリアリティがあると思っている。「実」にはない、「実」とは質的に全く異なるリアリティだ。それは有に対する無のリアリティと言ってもいい。ちなみに、ユートピアは「どこにもない場」だが、これも「虚」のリアリティに関係している。では、「虚」のリアリティとは何か。

Vorbildとしての人間(4)

防寒具等と区別された衣服は全く無駄なモノだ。ファッションモデルが美しく着こなしている衣服などは無駄の塊にすぎない。およそ防寒の役に立ちそうにないし、機能的にもどうかと思われる。端的に言えば、虚飾でしかない。しかし、無意味ではない。むしろ、虚飾にこそ意味がある。衣服の本質がある。そう考えると、ビオスの次元そのものが虚飾だと思われてくる。実際、戦地や被災地など、ゾーエーの危機に晒されているギリギリの限界状況ではビオスで必要とされるモノ全てが虚飾と化す。ファッションモデルの煌びやかな衣服や洗練されたフランス料理よりも、防寒具やおにぎりの方が重宝される。当然のことだ。しかし、この当然はヒトの真実ではあっても、人の真理ではない。人の真理はあくまでもビオスの虚飾の方にある。ヒトのゾーエーにおける剝き出しの真実と人のビオスにおける虚飾の真理。私は二つに引き裂かれる。ヒトの真実は私の「古層」もしくは「基層」として否定できないが、それはやはり土台なのであって、その上に建つべき家こそが問題だ。さりとてその家が虚飾に満ちているのも本意ではない。そもそも虚飾の真理とは何か。明らかに矛盾している。一般的に言えば、虚飾に真理がある道理がない。しかし、確か映画監督の伊丹十三が語っていたが、事実をそのまま撮影してもリアルには見えない。真実と真理は質的に異なる。リアリティの質が違う、とでも言おうか。素顔の真実と化粧の真理。素顔のまま生きるもよし。化粧して生きるもよし。ただし、素顔のリアリティに及ばなければ化粧は虚飾と化す。やはりビオスの真理を表現する言葉として虚飾は適切ではないようだ。訂正したいが、虚飾に替わる言葉が思いつかない。たといゾーエーの真実に比べれば虚飾にしか見えなくとも、虚飾は虚偽ではない。そこには確かなリアリティがある。その真理を如何に表現するか。シュルレアリスムかマジックリアリズムか。夢の場所は虚飾に満ちていても、理想の場は虚実皮膜だ。

Vorbildとしての人間(3)

裸体と衣服。ペットの犬猫風情に綺麗なおべべを着せて悦に入っているバカな飼い主がいるが、着せ替え人形でもあるまいし、愚の骨頂だ。いや、ペットはすでに着せ替え人形なのだろう。もはやイキモノではない。少なくともイキモノとしての犬猫におべべは似合わない。不自然極まる。察するに、犬猫におべべを着せるのは人並に遇することによる愛情表現なのだろうが、本末転倒も甚だしい。犬猫は裸でいることが「本当の姿」ではないか。しかし、これはイキモノとしてのヒトについても言えることだ。神話が語っているように、本来裸であったヒトは裸でいることに羞恥心を懐くことで人になった。衣服の必要がヒトを人にしたと言ってもいい。ここで些細なことながら、防寒具やペニスケースなどの身体保護具と衣服を厳密に区別しておきたい。そもそもサルは衣服はおろか何も身に着ける必要がない。そのようなものを不必要とするだけの夥しい体毛があるからだ。ヒトもサルであった時代には同様であっただろうが、人への「進化」と引き換えに体毛が退化してからはケダモノの毛皮などを必要とするようになった。ただし、この主に防寒のために必要とされる毛皮は言わば身体の延長であり、人が人として純粋に必要とする衣服ではない。衣服はあくまでも裸体に対する羞恥心から要請されるモノだと理解したい。つまり、防寒具等はゾーエーの維持のために已む無く必要とされるものであり、ゾーエーとは質的に異なる次元、すなわちビオスの次元で必要とされる衣服とは根源的に違う。従って、身体の延長としての防寒具等と区別された衣服などなくても人は何ら支障なく生きていける。衣服は言わば化粧であり、生存(ゾーエー)には直接関係がないからだ。かくして次のようなテーゼが成立する。「裸体がヒトの本質だとすれば、衣服こそ人の本質に他ならない。」とは言うものの、ヌーディズムのように、衣服を否定して裸体に人の本質を見出そうとする運動は常にある。「自然に還れ!」というわけだ。衣服より裸体、化粧より素顔(スッピン)。そこには一抹の真実があるように思われるが、果たしてどうか。

Vorbildとしての人間(2)

ヒトから人へ、荒々しい剥き出しの生から美しい洗練された生活へ、それは不可避の流れだと思われる。しかし、人として美しく生活しようとすればするほど、「本当に生きている!」という実感から遠ざかるような気がするのは何故だろう。私自身の拙い人生を振り返ってみても、幼い頃は不潔で不便な長屋暮らしだったが、今は亡き両親が懸命に働いてくれた御蔭で、やがて小さいながらも清潔で便利な一戸建て住宅で生活できるようになった。勿論、私は嬉しかった。貧乏長屋の頃には思いも寄らなかった自分の部屋というものができ、子供心にやっと人並になれたような安心感があった。しかし、実に奇妙なことに、同時に一抹の寂しさも感じていた。あの寂しさは一体何だったのか。極端な話、アジアやアマゾンの奥地に住む未開人の暮らしと欧米の高級住宅街で繰り広げられるセレブ生活とを比べた場合、後者を羨望するのは当然ながら、前者にも不思議な憧れを禁じ得ないのではないか。更に言えば、不謹慎と思われるかもしれないが、今この瞬間を生き抜くのに精一杯の被災生活が街の復興によって遠い過去になった時、安定した生活の回復を喜ぶと同時に、かつてのギリギリの生活に戻りたいような戻りたくないような複雑な思いに駆られることはないか。言うまでもなく、実際に過酷な被災生活に戻りたいなどと願う人は皆無だろう。しかし、それにもかかわらず、被災生活には安定した生活にはない大切な何か、所謂「災害ユートピア」を可能にするような何かがあったのではないか。その何かを明確に特定することは私の手に余るが、ヒトから人への「進化」に話を戻せば、人が科学を駆使して実現した夢の場所(パラダイス)には致命的な問題があるように思えてならない。それ故、人は絶えずヒトの「野生」に誘惑され続ける。さりとて「野生」は「野蛮な生」でもあり、ヒトに回帰すればもう一つの夢の場所、すなわち失われた楽園としてのアルカディアが復活するというわけではない。それでも週末に山でキャンプしたりなどして、束の間の「野生」を満喫することはできるだろう。その程度のことで人生の寂寥が解消するなら結構だが、私にはパラダイスの問題が娯楽などで解決するとは到底思えない。アルカディアとパラダイスに引き裂かれる人の苦悩は実に複雑だ。人生不可解。

Vorbildとしての人間

サルがヒトになり、ヒトが人になり、人は最終的に人間になる。サルがヒトになる過程は生物学や人類学などの自然科学が解明してくれるだろう。それはヒトのUrbildの解明であり、残念ながら学者ではない私には手が出せない。私が問題にしたいのは、そのUrbildから出発して、ヒトが人になり、更に人間になっていくドラマだ。すなわち、「ヒトが人になる過程」と「人が人間になる過程」の二部構成のドラマに他ならない。前者はパラダイスへの道、後者はユートピアへの道にそれぞれ重なっていく。余談ながら、一九八五年に放送されたNHK特集「人間は何を食べてきたか:食のルーツ・5万キロの旅」を先日観たが、世界各地の風土に応じた食の原点にヒトのUrbildを垣間見る思いがした。ヒトは生きんがために必死に食べ、また食べんがために必死に生きてきた。その生々しい姿は他のイキ「モノ」と殆ど変わらない。ただし、ヒトの場合、食べることの喜びは正に剝き出しの生の快楽ではあるものの、そこにはすでに単なる「肉体の糧の充足」以上の何かが感じられる。その何かが収穫祭などの祝祭的活動を生み出し、それがゾーエーを超えるビオスの次元を切り拓いていく。そして、その超越はヒトに「単に食うだけではつまらない」と思わせ、様々な工夫を凝らして美味しく食べる美食文化となる。かくしてヒトは人への道に踏み出し、やがて「人はパンのみにて生くるにあらず」という意識に結晶する。パン以上の何か、すなわち魂の糧の誕生だ。私のドラマでは、ヒトはゾーエーにおいて肉体の糧を求め、人はビオスにおいて魂の糧を求める。しかし、このような単純化では、人生(ビオス)は余りにも浅薄だ。剝き出しの生(ゾーエー)に生きるヒトの切実さに比べれば、人生は虚妄でしかない。何が足りないのか。

補足:人間になる

論理だけを辿れば、人が次になるべきは神だ。サルがヒトになり、ヒトが人になり、人は最終的に神になる。人神もしくは超人としての神。人は科学とやらの力によって空を飛べるようになったし、海中深く潜行することもできるようになった。月へも行ったし、火星や他の星々へも早晩行けるようになるだろう。やがて人為的に自由に生命を創り出し、邪悪なウイルスも完全に制御できるようになるかもしれない。そうなれば万物の霊長たる人は神と自称してもいいのではないか。全く大したものだ。恐れ入る。しかしながら、そんな神になることにどんな意味があるのか。空高く飛ぶことならすでに鳥が行っているし、海中深く潜行することも魚たちが行っている。遥か遠くへ行くことだってそうだ。別に威張るほどのことではない。そもそも神とは何か。全知全能の在りて在るものか。確かに、それは素晴らしい存在だが、少なくとも私はそこに人のVorbildを見出さない。全知全能は神に任せておけばいい。人の求めるべきVorbildは別にある。それは人間だ。人は人として生きる一線を越えて人間になるべきだ。神ではない。

補足:人になる

人はすでにヒトの一線を越えている。もはや野の花や空の鳥のようには生きられない。その悔恨が原罪意識を生み出すとしても、一線を越える流れは止められない。ヒトもまたすでにサルの一線を越えているからだ。サルがヒトになり、ヒトが人になる。原罪意識を払拭できれば、次に生じてくるのは進化の意識だ。万物の霊長!その万物の霊長たる人はこれまで何をしてきたか。そして、これから何をするのか。人はこの世界を夢の場所にしようとしてきた。自然を改作し、多くの人が幸福に暮らせる「人の楽園」を実現しようとしてきた。しかし結果的に、それは地球環境の破壊をもたらし、夢の場所はディストピアと化そうとしている。或る人たちの夢の場所は他の人たちの地獄となり、夢の場所の覇権をめぐる戦争が後を絶たない。「人の楽園」としての夢の場所をパラダイスと称するならば、今やパラダイスという人工楽園は大きな危機に直面している。とは言え、それでもパラダイスにしがみつこうとする旧態依然の人たちはいるだろう。さもなければ、人工楽園の限界を悟って、かつてヒトが享受していたであろう自然楽園(アルカディア)に後向きに回帰しようとする人たち。人はアルカディアとパラダイスに引き裂かれているようにさえ見える。人の生きるべき夢の場所はアルカディアか、それともパラダイスか。鄙見によれば、どちらでもない。先述したように、人はすでにヒトの一線を越えているのだから、もうアルカディアに後戻りすることなどできない。さりとてパラダイスの破綻も明白であり、もうそこに留まることもできない。サルがヒトになり、ヒトが人になった。では次に、人は何になるのか。

補足:一線を越える

先日、私の敬愛する女流作家が新作のテレビドラマ化に関してインタヴューされていたが、その中で「自分はこれまで一線を越える人を描いてきた」と語っていた。この一言に私が彼女の作品を敬愛する理由が集約されている。心に深い闇を抱えた人が一線を越える。それは強盗、殺人、誘拐などの犯罪であるわけだが、そのドラマの展開には無関心ではいられない。しかし、問題は一線を越えた後のドラマだ。鄙見によれば、日本でも世界でも、「その後のドラマ」は未だ本当の意味では書かれていない。おそらく、それに最も肉薄しているのはドストエフスキイの『罪と罰』だろう。かつて日本の或る評論家は「日本の小説はかなり深い作品でもラスコオリニコフが老婆を殺害するところまでしか書いていない」と述べていたが、これは如何なる意味か。言うまでもなく、「一線を越える」までということだ。通常(性的な意味は除く)、「一線を越える」とは犯罪者になることであり、凡百の所謂「刑事ドラマ」は犯罪者の逮捕(密室殺人などの犯罪の謎解きも含む)に重点が置かれている。そして、犯罪者を特定し、その逮捕に至るまでの過程は「犯罪後のドラマ」ではあるが、それは私が求めている「一線を越えた後のドラマ」ではない。そもそも私の関心は人が「一線を越える」ことの意味に集中している。それは単なる犯罪に尽きるものではない。ちなみに『罪と罰』の原題を(私はロシア語を解さないので)英訳すると『Crime and Punishment』だそうだが、周知のように罪に相当するもう一つの英単語にsinがある。その差異を大雑把に言えば、crimeは人が制定した刑法に関する犯罪、sinは神が定めた律法に反する罪、と理解することができる。これを踏まえてラスコオリニコフの主張をまとめれば、「自分が本当に非凡人であるなら、たといcrimeを犯しても、それはpunishmentの対象にはならない」という信念になる。事実、かなり偶然に恵まれたとは言え、ラスコオリニコフのcrimeはほぼ完全であり、彼自身さえ非凡人らしく平然としていれば逮捕されることはなかったであろう。しかし、一線を越えたラスコオリニコフは平然どころか、逆に激しい動揺を隠し切れなかった。何故か。crimeを否定しても、sinによる神のpunishmentからは逃れられなかったからだ。その苦悩の深さこそ「一線を越えた人のドラマ」の真骨頂でなければならない。余談ながら、日本の小説でラスコオリニコフの苦悩に匹敵するのは漱石の『心』における先生の苦悩だと思われるが、残念ながら先生は苦悩から逃げてしまった。つまり、『心』は間違いなく「一線を越えた人のドラマ」ではあるけれども、「その後のドラマ」にはなり得ていない。それに対して、少なくともラスコオリニコフは逃げなかった。ただし、ソオニヤの愛によって苦悩から一歩踏み出したものの、ラスコオリニコフは「非凡人になる夢」を棄て切れず、その一歩は未だ確かなものではない。つまり、ドストエフスキイもまた「その後のドラマ」を書けていないのだ。『罪と罰』は次のように終わっている。

 

「しかし、そこにはもう新しい物語が始まっている――一人の人間が徐々に更新してゆく物語、徐々に更生して、一つの世界から他の世界へ移ってゆき、今まで全く知らなかった新しい現実を知る物語が、始まりかかっていたのである。これはゆうに新しき物語の主題となり得るものであるが、しかし本篇のこの物語はこれでひとまず終わった。」

 

実に僭越なことながら、ここでドストエフスキイの言う「新しき物語」、すなわち一線を越えた「一人の人間が徐々に更新してゆく物語、徐々に更生して、一つの世界から他の世界へ移ってゆき、今まで全く知らなかった新しい現実を知る物語」こそ私が残りの人生を懸けて書きたいドラマに他ならない。ドストエフスキイにさえ書けなかったものをボンクラの私に書ける道理もないが、とにかく行けるところまで行ってみようと思う。

夢の場所・理想の場(10)

ヒトの子はイキ「モノ」としてのヒトのUrbildに則してヒトになるが、ゾーエーの次元に留まることができない。夢の場所を求めるビオスの次元を切り拓く人となる。ヒトから人へ、その移行が原罪なのかどうか、私にはよくわからない。ビオスに生きる人にはヒトを超える喜びがあるが、それに匹敵する苦しみもある。それ故、鎖に繋がれた犬は嫌だが、猫のように生きたいと思う人は少なくないだろう。確かに、ビオスに生きることは重荷になる。人の社会が高度に複雑化すればするほど重荷になる。猫のようにノンビリ生きることは許されない。良い学校を卒業して、良い職に就いて、人として少しでも幸福になることが当然の義務とされる。能力のある人はその義務を見事に果たして「立派な人生」を送るかもしれないが、大半の人はそうではない。人として幸福に生きることに汲々とせざるを得ない。その苦しさ故に、猫のように生きたいと願うのも無理はない。しかし、一口に猫と言っても、岩合光昭氏が撮影するような気楽に生きるネコちゃんたちばかりではない。殆どの野良猫はサザエさんに追いまくられるような過酷な生存競争の日々を生きているだろう。百歩譲って、人々の近くでノンビリと暮らすことが猫に可能だとしても、それはイキ「モノ」としてのヒトの至福にはなり得ても人の幸福には程遠い。それでもヒトとして猫のように生きる至福は依然として人を魅するに違いない。そうした猫に魅せられた人たちを私は非難するつもりはないし、非難する資格もない。先述したように、犬と違って鎖に繋がれることなく、いやたとい鎖に繋がれたとしても、自由にノンビリと食うに困らぬ生活が可能なら、犬にでも猫にでもなりたいという人の願いは無下にはできない。ゾーエーが持続的に充足されて日々食うに困らず、平穏無事にノンビリと暮らすことができ、しかも時々遊園地その他で娯楽を享受することによってre-creationできる生活は、ビオスの次元における基本的な一つの夢の場所であることは間違いないからだ。そうした夢の場所を私はパラダイスと称しているが、それは人として生きる幸福の極致だと理解することもできる。勿論、パラダイスの実現は容易なことではない。夢の場所は競争原理を胚胎しているので、パラダイスにも格差が生じてくる。しかし、人それぞれ自分の身の丈に合ったパラダイスを享受することは可能だろう。猫のように生きるヒトの至福は最初から競争を放棄しているが、パラダイスに生きる人の幸福もそれに準ずることができる。実際、競争の果てのパラダイスもあれば、競争を棄権したパラダイスもある。どちらにせよ、ヒトへの回帰が実質的に不可能である以上、人として生きる幸福はパラダイスに極まる。それはそれでよい。しかしながら、私がここで問題としたいのは、それぞれのパラダイスという一線を越える人の運命だ。一線を越えた先には何があるか。人が人間になる理想の場だ。私はそこに集中したい。

夢の場所・理想の場(9)

この世界に少しでも抑圧状況が残存している限り、「解放の神学」は決して死なない。常に生き続けている。しかし、「解放の神学」とは何か。それは必ず「主人と奴隷の弁証法」と共に理解しなければならない。例えば、かつての「黒人解放の神学」について考えてみたい。黒人は白人優位の世界で抑圧されてきた。従って、白人優位の世界をぶっ壊すことが喫緊の課題となる。しかし、ぶっ壊した後、どうするか。黒人優位の世界を実現するのか。それでは抑圧する主人と抑圧される奴隷の立場が入れ替わったにすぎない。黒人優位の世界、すなわち黒人が新たな主人になれば、今度は「白人解放の神学」が要請されるだろう。抑圧状況は主人と奴隷が交代しても残存し続ける。白人の夢の場所は黒人の地獄であり、黒人の夢の場所は白人の地獄となる。夢の場所は他の誰かを抑圧することによってしか実現しないのであろうか。事実、男性の夢の場所は女性を抑圧することによって実現する。同様に、ロシアの夢の場所はウクライナを抑圧することによって、イスラエルの夢の場所はパレスチナを抑圧することによって実現することになる。そんな理不尽なことが現実であっていい道理がない。では、この現実を超克するためにはどうすればいいか。ヒトは人になることで夢の場所を求め始める。とすれば、ヒトの次元に戻ることで唯一のUrbildでの共存を回復できるかもしれない。それが一つの可能性だ。つまり、白い人も黒い人も、男の人も女の人も、イスラエルの人もパレスチナの人も、皆ヒトとして生きる、ということだ。それは「第一義の独立と連帯に生きる」ことに等しい。確かに、論理的には、その可能性も解放を意味する。しかし、それは後向きの解放にすぎない。「ヒトとして生きる」とは剥き出しのゾーエーに徹することであり、そこに見出されるUrbildは決してVorbildにはなり得ず、むしろ根源に束縛される結果となる。それに「唯一のUrbild」などもはや幻想でしかないだろう。たといヒトのUrbildが唯一だったとしても(肌の色、性別、人種などが違っていても、皆同じヒト)、ヒトは人になって、様々な夢の場所を求めるビオスの次元に生きざるを得ない。ヒトから人へ、ゾーエーからビオスへ、それは夢の場所を巡る葛藤の始まりでもあるが、そこからどう生きるか。前向きの解放とは何か。残された可能性は、理想の場を求める人間のVorbildに他ならない。