Vorbildとしての人間 | 新・ユートピア数歩手前からの便り

Vorbildとしての人間

サルがヒトになり、ヒトが人になり、人は最終的に人間になる。サルがヒトになる過程は生物学や人類学などの自然科学が解明してくれるだろう。それはヒトのUrbildの解明であり、残念ながら学者ではない私には手が出せない。私が問題にしたいのは、そのUrbildから出発して、ヒトが人になり、更に人間になっていくドラマだ。すなわち、「ヒトが人になる過程」と「人が人間になる過程」の二部構成のドラマに他ならない。前者はパラダイスへの道、後者はユートピアへの道にそれぞれ重なっていく。余談ながら、一九八五年に放送されたNHK特集「人間は何を食べてきたか:食のルーツ・5万キロの旅」を先日観たが、世界各地の風土に応じた食の原点にヒトのUrbildを垣間見る思いがした。ヒトは生きんがために必死に食べ、また食べんがために必死に生きてきた。その生々しい姿は他のイキ「モノ」と殆ど変わらない。ただし、ヒトの場合、食べることの喜びは正に剝き出しの生の快楽ではあるものの、そこにはすでに単なる「肉体の糧の充足」以上の何かが感じられる。その何かが収穫祭などの祝祭的活動を生み出し、それがゾーエーを超えるビオスの次元を切り拓いていく。そして、その超越はヒトに「単に食うだけではつまらない」と思わせ、様々な工夫を凝らして美味しく食べる美食文化となる。かくしてヒトは人への道に踏み出し、やがて「人はパンのみにて生くるにあらず」という意識に結晶する。パン以上の何か、すなわち魂の糧の誕生だ。私のドラマでは、ヒトはゾーエーにおいて肉体の糧を求め、人はビオスにおいて魂の糧を求める。しかし、このような単純化では、人生(ビオス)は余りにも浅薄だ。剝き出しの生(ゾーエー)に生きるヒトの切実さに比べれば、人生は虚妄でしかない。何が足りないのか。