Vorbildとしての人間(7) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

Vorbildとしての人間(7)

言葉のない世界は楽園か。私が例えば「りんご」という言葉を知ったのは、おそらく母からだと思うが、実際に赤い果物を見せられて「これはりんごだよ」と教えられたに違いない。すなわち、モノと言葉を同時に知ったわけで、そのことによって私は「りんご」というモノと直接に関係する機会を永久に失ったことになる。以後、私はその赤い(とは限らないが)クダ「モノ」に「りんご」という言葉を介さずに接することが不可能になった。更に、ひらがなでは「りんご」、カタカナでは「リンゴ」、漢字では「林檎」、英語では「apple」、エスペラント語では「pomo」と書くことを知り、それぞれの書き言葉に応じて意味のズレが微妙に生じてくることを体感する。とは言え、当然のことながら、その意味のズレを論理的に説明することなどできない。そのズレは人それぞれ違うからだ。幼い頃、風邪をひいた私に母がすりおろして食べさせてくれたモノは「りんご」であって「林檎」ではない、などと言ったところで誰が理解できるだろう。しかし、他者に理解されなくても、ズレは確かにある。それは書き言葉(エクリチュール)を全て廃して音声言語(パロール)に遡っても同じだと思われる。言葉を知った以上、人と人とが完全に理解し合うことは不可能だ。それ故、言葉のない世界が絶えず楽園として求められるわけだが、果たしてそれは可能だろうか。たとい可能だとしても、或る詩人が言うように、「言葉のない世界は言葉によってつくるしかない」と私も思わざるを得ない。