生きるための「虚」(9)
私は最近、米本浩二氏の『評伝 石牟礼道子』を拝読した。副題は『渚に立つひと』。「石牟礼道子は渚に立つひとである。前近代と近代、この世とあの世、自然と反自然、といった具合に、あらゆる相反するもののはざまに佇んでいる」と米本氏は序章で述べている。僭越ながら、私はそこに「実」と「虚」のはざまを付け加えたい。人は「実」と「虚」のはざまを生きる。そのはざまを生きることで生類のヒトは人を経て人間になっていく。「人類というより生類という言葉で表現したいのです。海から上がってきた生類が最初の姿をまだ保っている海。それが渚です。海の者たちが上がるとき、“ここが陸地だ”と思うでしょう。陸地から海へ行くときは“ここから先が海だ”と思ったでしょう。海と陸を行き来する。文明と非文明、生と死までも行き来する。人間が最初に境界というものを意識した、その原点が渚です」とは石牟礼道子自身の言葉だが、渚は正に人生の原点だ。では、「渚に立つひと」は如何に生きるべきか。「実」と「虚」のはざまでどう生きるか。石牟礼道子は『苦海浄土』を書いた。余談ながら、『苦海浄土』は第一回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれたが、石牟礼道子は受賞を辞退している。「水俣病という悲劇を問題にした作品で晴れがましい賞を受けるのは忍びない」というのが辞退の理由のようだが、その奥底には「『苦海浄土』はノンフィクションに非ず!」という強い思いがあったのではないか。渡辺京二氏が喝破されているように、『苦海浄土』は石牟礼道子の私小説に他ならない。それは「実」と「虚」のはざま、ノンフィクションとフィクションのはざまから生み出された作品だ。私はその「はざま」を凝視したい。私が求めているユートピアもその「はざま」から生まれてくる。ちなみに、石牟礼道子は次のように述べている。「私のゆきたいところはどこか。この世ではなく、あの世でもなく、ましてや前世でもなく、もうひとつの、この世である。」蓋し至言、「どこにもない場」としてのユートピアもまた「もうひとつのこの世」だと言えるだろう。
生きるための「虚」(8)
『ヒロシマ・ノート』に関するドキュメンタリイを観ていたら、「作家の使命は本当のことを書くことです」と語る大江健三郎氏の映像が流れた。私には作家を自称する資格さえないが、私も本当のことを書きたいと思っている。しかし、「本当のことを書く」とはどういうことか。そもそも「本当のこと」を書くことができるのか。また「本当のことを書く」と「本当に生きる」との関係は何か。幼い頃、日記を書くことに私は悩んだ。日記を書けば書くほど「本当に生きる」ことから遠ざかっていくような気がしたからだ。本当に生きている人に日記を書いている余裕などはない。そう思った。生きることと書くこととの断絶。ブッダもソクラテスもイエスも何も書かなかった。書いたのは「本当に生きる」ことを彼等から学んだ弟子たちだ。「本当に生きる」と「本当のことを書く」との間には質的差異がある。しかし、それにもかかわらず、人は「本当のこと」を書かずにはいられない。そして、事実を積み重ねただけでは「本当のこと」に辿り着けない。そこにはどうしても「虚」が必要になる。ちなみに、『ヒロシマ ・ノート』は『沖縄ノート』と共に名作ではあるが、大江氏の作家としての使命は小説というフィクション(「虚」)の創作においてこそ果たされているだろう。もとより事実を無視することはできないが、「本当のこと」はやはり虚実皮膜にあると私は考えている。
生きるための「虚」(7)
食うか食われるか。シマウマはライオンに食われる。その逆はない。これが自然界の「実」だ。シマウマが連帯してライオンに復讐するとか、シマウマとライオンが和解して抱擁するに至るドラマを人は望むかもしれないが、それは人の勝手な「虚」にすぎない。もとよりそんなドラマは現実にはあり得ないし、もし実現したら食物連鎖の生態系が崩れてしまうだろう。弱肉強食の自然界はそのままでいい。ライオンに食われるシマウマだって何かを食って生きているわけだし、食物連鎖の頂点に君臨する人も最終的にはバクテリアに食われて土に還ることになる。しかし、人はそうした自然界の「実」に反抗することができる。無益な反抗かもしれない。そもそも人もイキモノである以上、自然界の「実」に生かされている現実がある。だから、大自然の大いなる力に由来する生への意志そのものを否定するわけではない。誰しも生きたいと思う。戦場のような極限状況において、相手を殺さなければ自分が殺されるという場合、殆どの兵士は当然のことのように相手を殺して自分が生き延びようとする。それが自然界の「実」であり、「人殺しの兵士はもはや人に非ず」と思う人道主義は「虚」だ。ただし、「虚」は決して生への意志を否定するものではない。確かに、戦場において「人殺しはしない」という人道の「虚」を貫くことは実質的には自殺に等しい。しかし、たとい相手に殺されることを容認しても、それは断じて自殺ではない。あくまでも人として本当に生き抜こうとした結果、不幸にも殺されたにすぎない。ただ生きていればいいというものではない。恥辱の生より尊厳ある死。武士道の切腹がその典型だが、それは明らかに「虚」だ。恥辱に塗れてもいい、卑怯者と罵られてもいい、人としてどんなに軽蔑されても生きていたい――そうしたなりふり構わぬ生への執著こそ「実」であり、それ以外は全てキレイゴトだ。然り!「虚」に生きるとは、キレイゴトを懸命に死に物狂いで貫き通すことに他ならない。
生きるための「虚」(6)
『社内処刑人:彼女は敵を消していく』『奪われた僕たち』『肝臓を奪われた妻』、そして極め付きは『Re:REVENGE:欲望の果てに』――これらは現在放送中のテレビドラマのタイトルだが、現代人は復讐劇がお好きらしい。セクハラ、パワハラ、モラハラ、そして最近はカスハラ(カスタマーハラスメント)なるものが問題になっているが、正に現代社会は犬も歩けばハラスメントに当たる状態だ。もとより理不尽に虐げられている人たちの存在が問題なのは当然だが、その人たちが更に弱い立場にある人たちを虐めることで鬱憤を晴らしている現実もある。虐めの連鎖。強い者が弱い者を虐め、弱い者は更に弱い者を虐めていく。カスハラはその連鎖の反転のようにも見えるが、もはやお客様は神様ではないようだ。実に醜悪な現実であり、心ある人たちは心底ウンザリしていると思われる。なのに、この復讐劇のオンパレードは何か。やられたらやり返す。倍返しだ!被害者が加害者に復讐する。ここには他のイキモノにはない人の「実」がある。しかし、この「実」は殆どの場合発動しない。被害者は加害者に復讐したくてもその力がない。例えば、屈強な不良がひ弱な生徒を虐めて金を巻き上げる。ひ弱な生徒は復讐したいが、その力はない。虐めは限りなく続く。ひ弱な生徒に可能な復讐は、せいぜい自殺して不良どもの悪を告発するくらいだろう。しかし、テレビドラマでは屈強な不良に勝る力を持った同級生や先生が現れて、ひ弱な生徒の復讐を成し遂げてくれる。これは「虚」の基本的なパターンではあるが、力で力を制圧するという意味では依然として「実」に根差しているとも言える。政治や企業を舞台にした、巨大な権力悪に対する復讐劇も基本的には同じだ。確かに、復讐劇には或る種のカタルシスがある。多くの人たちはそれを観て留飲を下げる。しかし、たとい善の力で悪の力を制圧する「虚」を「実」にすることが感動を生み出すとしても、私には違和感がある。それはやはり私が究極的に求めているドラマではない。
生きるための「虚」(5)
生きることに本当も嘘もない。「本当に生きたい」と思うこと自体、すでに「虚」に他ならない。そして、イキモノの「実」である剥き出しのゾーエーにおいても、親は子のイノチのために自分のイノチを犠牲にすることができる。自分は食べなくても子に食べさせる。こうしたことは人以外のイキモノの親子にも見られるだろう。ゾーエーはただエゴイズムだけの世界ではない。しかし、他のイキモノの場合、自分のイノチの犠牲は血縁関係、もしくはせいぜい同じ種に限られるのではないか。無論、人も基本的には変わらない。誰しも身内は可愛く、身内のために犠牲になることは厭わないが、他人の犠牲にはなりたくないと思う。それが「実」だ。しかし、例えば人は「天皇陛下万歳!」と叫んで散華することができる。悠久の大義に殉ずることができる。これなどは他のイキモノには到底真似のできない「虚」であろう。尤も、厳密に言えば、これも未だ身内最優先の「実」にとどまるものであり、ナショナリズムはゾーエーの次元を超えていないのかもしれない。ただ、滅私奉公が真の公的領域に達していないとしても、すでに単なる私的領域を踏み越えているのは確かだ。自らを天皇の赤子と信じるようなナショナリズムはゾーエーの「実」とビオスの「虚」の境界線上を彷徨っている。では、踏絵を拒絶して磔刑に処せられる場合はどうか。踏めば自らのイノチは助かる。踏まなければ死に至る。それでも決然と磔刑を選ぶとすれば、そこにも自らのイノチ以上の何かがある。踏絵に屈服すれば、自らのイノチを保持できても、それを超える永遠のイノチを失うことになる。実篤の言う「殺されても死なないもの」だ。明らかに「虚」だが、その実在(リアリティ)を信じることができるかどうか。単なる集団のボスのための犠牲なら、あるいは他のイキモノにも見出されるかもしれない。しかし、自らがそのために生きかつ死ぬことができるような主体的真理(理想)は人間に特有の「虚」だと私は考える。人には未だ無理だ。では、人間のみに可能な「虚」とは何か。
生きるための「虚」(4)
私は特性のない男だが、この世に生まれてきたからには本当に生きたいと思った。しかし、「本当に生きる」とは何か。その問いと共に、私はゾーエーとビオスに引き裂かれる。ゾーエーの「実」とビオスの「虚」。人のみがビオスの次元を生きる、と言えるのかどうか。私はよくわからなくなってきた。戦地や被災地の如き極限状況では生が剥き出しになる。誰もが平時の虚飾を剝ぎ取られ、生きることだけに必死になる。そこで一つのオニギリを奪い合うのが「実」なのか、それとも自分は餓死しても他に譲るのが「実」なのか。『野火』や『ひかりごけ』に描かれているように、人は生き延びるためには人肉だって喰らう。そこにイキモノの「実」があるとしても、人はその「実」に苦しむ。苦しむ余り、「人肉を喰うことは人道に反する」という「虚」に救いを求める場合もある。イキモノの「実」に反抗して、人の「虚」に徹することが人の「実」なのか。イキモノの「実」は自分のイノチより大切なものはないと教える。しかし、駅のプラットフォームで線路に転落した酔っぱらいを救助しようとして電車に轢かれて死ぬ人もいる。自分のイノチより見知らぬ他者のイノチの方が大切だったのか。そうではないだろう。比較の問題ではない。そこでは自分のイノチも他者のイノチも超越した、もっと大きなイノチが問題になっている。勿論、誰もが線路に転落した人を助ける行動が咄嗟にできるわけではない。おそらく、臆病な私は自分のイノチ惜しさに一歩も踏み出せないだろう。しかし、その一歩を踏み出せなかった非常な悔恨において、私は自分のイノチ以上の何か、「生命尊重の価値」以上の何かの存在を感じ取ることができる。その何かは「虚」に他ならない。ただし、そこにはゾーエーの「実」以上のリアリティがある。
生きるための「虚」(3)
『プラネットアース』や『ワイルドライフ』に代表される大自然のドキュメンタリイ番組を観ていると、海も陸も食うか食われるか、弱肉強食の世界が「実」だと改めて思い知らされる。イキモノとしてのヒトとて例外ではない。食わなければ生きていけない。そして、食うとは他のイキモノのイノチを奪うこと、すなわち加害に他ならない。加害者になることなくしてヒトも生きられない。イキモノの運命だ。ただし、人はその運命に原罪を意識し、自らの生の欲望を必要最小限に抑制しようとすることができる。そして、食したイキモノのイノチに感謝し、それを祭り上げ、「戴いたイノチは加害にあらず」という「虚」を生み出す。人はそうした「虚」に生き、弱肉強食の「実」に反抗する。しかし、「実」の圧倒的な力に対して「虚」は余りにも無力だ。「虚」はキレイゴトだと一笑に付される。結果、人はやがて「虚」の一線を踏み越え、より美味しいものをより多く食べたいという欲望に駆られていく。より豊かに、より便利に、より快適に生きようとする。これは悪いことだろうか。人の限りない欲望は世界を飛躍 的に発展させてきた。と同時に、人の欲望は今、地球の資源を喰い尽くそうとしている。このままで良い道理がない。かくして人は欲望を解放し続ける「実」と欲望を抑制する「虚」の二つに引き裂かれる。どうすべきか。自然の「実」と人の「虚」の対立を超克する人間の新しき「虚」が求められる。
生きるための「虚」(2)
映画『空母いぶき』を観た。原作は『沈黙の艦隊』で著名なかわぐちかいじ氏の漫画だが、映画はかなり脚色されているようだ。その違いの是非は別として、「戦争放棄を謳った現行憲法下の国土が侵略された時、日本はどう戦闘するか」という深刻な問題は強く私の胸に刻み込まれた。ここで留意すべきは「戦闘」と「戦争」の厳密な区別だ。日本は専守防衛を国是とする。日本を守るための「戦闘」はするが、それを「戦争」に発展させてはならない。周知のように、これはかつての日本が他国を侵略した歴史の反省から生み出された理念だが、その本質はどんな他国に対しても「決して加害者にはならない」という覚悟であろう。実に立派な理念だ。しかし、不幸にも他国からの侵略を受けた時、この理念は現実にどのように機能するか。「決して加害者にはならない」ということは実質的には被害者になることを意味する。つまり、日本は侵略の被害者になって初めて「戦闘」を開始できる、ということだ。しかも、その「戦闘」はあくまでも正当防衛にとどまらねばならず、侵略国に対してであっても断じて加害になってはならない。しかし、そんなことが可能だろうか。明らかに矛盾している。殴られることなくして殴り返すことはあり得ないとしても、殴り返すことはすでに相手への加害ではないのか。映画における「戦闘」は専ら相手から発射されたミサイルや魚雷の迎撃に終始し、有人の戦闘機を撃墜しても、極力パイロットが脱出して救助されるような配慮をしていた。つまり、敵国に戦死者が出なければ、その「戦闘」は加害を意味せず、未だ「戦争」には至っていない、ということか。結局、映画は「国連軍の介入によって侵略の危機は回避された」という結末を迎えるが、この外交という名の他力本願は根源的な解決にはならない。鄙見によれば、「決して加害者にはならない」という理念における「戦闘」は原理的に不可能だ。「決して加害者にはならない」という理念に徹するならば「戦闘」を放棄しなければならない。逆に「戦闘」をするなら否応なく加害者にならざるを得ない。従って、「戦闘」と「戦争」との区別は詭弁でしかない。「戦争放棄」するなら一切の「戦闘」も放棄しなければならない。尤も、こんなことは今更私がグダグダ述べるまでもなく、すでに憲法九条に明記されていることだ。そこでは「戦争」はもとより、「武力による威嚇又は武力の行使」、すなわち「戦闘」の放棄も謳われている。当然、戦力の保持も許されてはいない。これは実質的に自衛の放棄、自分たちで自分たちの国を守ることの放棄に他ならない。殴られたら殴られっぱなし。侵略されたら被害者に徹し、ひたすら国連を中心とした他国が助けてくれるのを待つ。言うまでもなく、これでは現実に生きていくことができない。だから、生きていくために「虚」が必要になる。自衛隊という「虚」、「戦争」はしないが自衛のための「戦闘」はするという「虚」だ。しかし、我々が必要とする「虚」はそれだけではない、と私は考えている。
生きるための「虚」
『生き延びるための物語』と題する哲学研究者・小松原織香氏のインタヴュー番組を観た。人生には他者からの暴力によって絶望を余儀なくされる時がある。そして、人生劇場には加害者と被害者が登場する。一般的には、加害者が法で裁かれるドラマが生まれる。法で裁かれない場合には被害者の個人的な復讐劇となる。しかし、どちらにしても被害者の絶望は完全には癒されないのではないか。法で裁かれても、刑期を終えて社会復帰した加害者が再び平然と生きていくのは被害者にとって耐えられないことだろうし、たとい死刑に処したところで、被害者の無念が消えることはない。それは法で裁かれぬ加害者を必殺仕事人に依頼して殺害しても同じことだ。そもそも加害者がその罪を償うとは如何なることか。そして被害者がその罪を赦すとは如何なることか。この問題を小松原氏は深く思耕された。率直に言って、小松原氏が研究されている「修復的司法」について私は未だ勉強不足であるが、氏が「当事者は噓をつく」と言われる時、被害者の「生き延びるための物語」には「虚」が生まれると思わずにはいられない。それは被害 者の「仮面の告白」であり、ニーチェの言う「生きるに必要な誤謬としての真理」に他ならない。言うまでもなく、その「虚」は垂直の次元からやって来る。ひどい誤解かもしれないが、加害者の悪をも無化するであろう「修復的司法」の物語(加害者と被害者との和解のドラマ)は垂直的ドラマになるに違いないと番組を観て私は思った。
補足:垂直的ドラマ
垂直的ドラマに究極的関心があると言いながら、私はその何たるかをよく知らない。以前は単純に水平的ドラマの対極にあるものと考えていたが、水平と垂直では次元が異なるので対極はどうも適切ではないと思うようになった。もとより垂直の次元は「どこにもない場」なので、水平の次元の対極になりようがない。少なくとも「水平的ドラマでは世俗的などうでもいい問題が展開し、垂直的ドラマでは聖なる高尚な問題が展開する」という対比は成り立たない。そもそも世俗的な問題はどうでもいい下らないものばかりではなく、世俗的なものを離れて聖なるものは問題にならない。更に言えば、聖と俗の葛藤は水平の次元で生じるのであり、水平の次元のみが人生劇場の現実世界だと考えるべきだろう。どうも上手く補足できないが、水平的ドラマなくして垂直的ドラマはあり得ない。下らない水平的ドラマも少なくないが、それでも一瞬にして垂直的ドラマに豹変することがある。それは宮澤賢治が次のように述べる「第四次元の芸術」と通底する。
おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようでないか……
われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である……
われらの前途は輝きながら嶮峻である
嶮峻のその度ごとに四次芸術は巨大と深さとを加へる
詩人は苦痛をも享楽する
永久の未完成これ完成である
(『農民芸術概論綱要』)
我々が実現すべきユートピアもまた「永久の未完成これ完成」であるような垂直的ドラマに他ならない。