生きるための「虚」(2) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

生きるための「虚」(2)

映画『空母いぶき』を観た。原作は『沈黙の艦隊』で著名なかわぐちかいじ氏の漫画だが、映画はかなり脚色されているようだ。その違いの是非は別として、「戦争放棄を謳った現行憲法下の国土が侵略された時、日本はどう戦闘するか」という深刻な問題は強く私の胸に刻み込まれた。ここで留意すべきは「戦闘」と「戦争」の厳密な区別だ。日本は専守防衛を国是とする。日本を守るための「戦闘」はするが、それを「戦争」に発展させてはならない。周知のように、これはかつての日本が他国を侵略した歴史の反省から生み出された理念だが、その本質はどんな他国に対しても「決して加害者にはならない」という覚悟であろう。実に立派な理念だ。しかし、不幸にも他国からの侵略を受けた時、この理念は現実にどのように機能するか。「決して加害者にはならない」ということは実質的には被害者になることを意味する。つまり、日本は侵略の被害者になって初めて「戦闘」を開始できる、ということだ。しかも、その「戦闘」はあくまでも正当防衛にとどまらねばならず、侵略国に対してであっても断じて加害になってはならない。しかし、そんなことが可能だろうか。明らかに矛盾している。殴られることなくして殴り返すことはあり得ないとしても、殴り返すことはすでに相手への加害ではないのか。映画における「戦闘」は専ら相手から発射されたミサイルや魚雷の迎撃に終始し、有人の戦闘機を撃墜しても、極力パイロットが脱出して救助されるような配慮をしていた。つまり、敵国に戦死者が出なければ、その「戦闘」は加害を意味せず、未だ「戦争」には至っていない、ということか。結局、映画は「国連軍の介入によって侵略の危機は回避された」という結末を迎えるが、この外交という名の他力本願は根源的な解決にはならない。鄙見によれば、「決して加害者にはならない」という理念における「戦闘」は原理的に不可能だ。「決して加害者にはならない」という理念に徹するならば「戦闘」を放棄しなければならない。逆に「戦闘」をするなら否応なく加害者にならざるを得ない。従って、「戦闘」と「戦争」との区別は詭弁でしかない。「戦争放棄」するなら一切の「戦闘」も放棄しなければならない。尤も、こんなことは今更私がグダグダ述べるまでもなく、すでに憲法九条に明記されていることだ。そこでは「戦争」はもとより、「武力による威嚇又は武力の行使」、すなわち「戦闘」の放棄も謳われている。当然、戦力の保持も許されてはいない。これは実質的に自衛の放棄、自分たちで自分たちの国を守ることの放棄に他ならない。殴られたら殴られっぱなし。侵略されたら被害者に徹し、ひたすら国連を中心とした他国が助けてくれるのを待つ。言うまでもなく、これでは現実に生きていくことができない。だから、生きていくために「虚」が必要になる。自衛隊という「虚」、「戦争」はしないが自衛のための「戦闘」はするという「虚」だ。しかし、我々が必要とする「虚」はそれだけではない、と私は考えている。