Vorbildとしての人間(10) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

Vorbildとしての人間(10)

私の致命的な過誤。「江戸城をつくったのは誰か」と問われて、司馬遼太郎なら「太田道灌」、藤沢周平なら「名もなき大工たち」と答える。できすぎた対比だが、藤沢周平の世界に愛着を懐きながら、私は司馬遼太郎になりたいと思った。太田道灌の実際の業績はさておき、建築なら設計図、すなわちどういう「かたち」にするかという理念の構築にこそ本質がある。勿論、名もなき大工たちがいなければ、その「かたち」は永久に画餅にすぎない。「かたち」を実現する労働を無視するつもりはないが、私は自分の仕事は理念の構築の方にあると確信していた。音楽なら楽譜、すなわち作曲の理念を明確に示すことに私の究極的関心がある。極端な話、完璧な設計図や楽譜さえあれば、後は二次的な問題しかないと思っていた。しかし、どうもそうではないようだ。余談ながら、かつて一世を風靡した『プロジェクトX』の新シリーズが始まったが、その第一回は東京スカイツリーだった。旧シリーズの東京タワーも感動的な大工事だったが、その二倍の高さを誇るスカイツリーの建設には正に想像を絶する困難さがあったようだ。その設計(デザイン・構造計算も含む)も並大抵の苦労ではないが、やはりその理念を現実化する大工事にこそ本当のドラマがあった。同様に音楽に関しても、最近逝去された小澤征爾氏の偉大さが私には今一つよく理解できなかった。指揮者に限らず、楽器の演奏者の偉大さもわからない。ピアノやヴァイオリンのコンクールで日本人が世界一になったりすると「凄い!」とは思うが、その凄さは作曲家の偉大さには及ばない。次元が違う。ついでに演劇(映画も含む)に関しても同様であり、私にとって最も重要なものは脚本であり、それを現実化する演出や俳優の演技はどんなに素晴らしくても二次的な問題でしかない。私はずっとそう考えてきたが、こうした二段階的思耕は明らかに本末転倒であった。ビオスにおける理念の構築に人の究極的な仕事があるとしても、それはゾーエーにおける労働と切り離すことなどできない。ただし、私は昨日の便りで「虚」に徹するべきだと明言したが、それは決して「実」からの逃避を意味するものではない。問題は理念の構築という「虚」の仕事そのものを「実」にすることにある。そうした「虚」と「実」の祝祭的一致を求めて活動する生き方こそ人間のVorbildに他ならない。