人生劇場(5) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

人生劇場(5)

私の究極的関心は垂直的ドラマにあるが、さりとて水平的ドラマを軽視するわけではない。むしろ、人生劇場の主流は水平的ドラマだと思っている。とりわけ重要なのは学校という舞台だ。そもそも私の思耕の原点には不登校の生徒との出会いがあり、「理想の学校をつくりたい」という希望が常に念頭にある。それが「新しき村の実現」という未完のプロジェクトにも繋がっていくのだが、そのUrbildとも言うべき「理想の学校」とは何か。林竹二先生は次のように語っている。

 

「本来教育の場である学校が、まさしく人間性破壊の工場になっている。そう言わざるを得ないところまで行き着いてしまっているのです。学校というのは、本来、人間の子を人間らしい人間に育てるための場でしょう。そうではありませんか。ところが現実はそうではなくて、「人間を育てる」などと言えば、何を戯言を言うかと嘲笑されるのが落ちで、どんな犠牲を払ってでも、いわゆる名門校に、一人でも多くの卒業生を入れるということに血道を上げている。こうして、不可避的により多くの子が切り捨てられたり、陽の当たらないところにおかれることになる。だから、私はいま学校に教育はないと思うのです。」(『問いつづけて――教育とは何だろうか』)

 

図らずも本日、『「普通」なんて言葉じゃくくれない:不登校経験者が7割の高校』というドキュメンタリイを観たが、私は基本的に今の学校を拒絶する生徒の方が正しいと思う。尤も、厳密に言えば、主体的に学校を拒絶している生徒は稀であり、大半の不登校生は学校に切り捨てられているのだろう。林先生も次のような指摘をされている。

 

「パンを求めている子どもに石を与えているのが今の教育です。そこで優等生なんかは石でも、うまい、うまい、という顔をして食べてみせるわけですね。ところが、「石なんか食えるか」と言ってそれをはねつける者、拒む者は切り捨てられるのです。」(同上)

 

優等生には石だとわかっていながら、恰もパンであるかのように食べてみせることのできる能力がある。大した能力だと感心する。そうやって優等生は受験戦争に勝ち、就職戦線にも勝ち抜き、社会の勝ち組になっていくに違いない。従って、こうした力のある優等生に既存社会を変革する可能性を期待しても無駄だ。可能性は力のない落ちこぼれにしかない。しかし、力のない落ちこぼれが如何にして力のある優等生に勝てるのか。ここに水平的ドラマとしての人生劇場におけるクライマックスがある。例えば、先述のドキュメンタリイで紹介された広島みらい創生高校では、パンを求めている生徒にパンを与える教育が試みられている。素晴らしい試みだと思う。実際、これまで切り捨てられてきた生徒たちの多くはここで学ぶことによって生きていく自信を取り戻し、それぞれの未来に向かって卒業していく。こうした学びの場が日本中、そして世界中に広がっていくことを願わずにはいられない。しかし、何かが足りない。優等生たちがつくったこの社会を落ちこぼれたちが根源的に変革するためには何かが欠けている。力ではない。力による変革では優等生に勝てる筈がない。これを水平的ドラマの限界と解するならば、人生劇場は次のステージに向かうしかないだろう。すなわち、垂直的ドラマだ。