人生劇場(3) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

人生劇場(3)

人のドラマは水平の次元で展開するが、人が人間になるドラマは垂直の次元を要請する。さりとて「人間のドラマは垂直の次元で展開する」とは言えない。微妙な違いだが、これがドラマの質に大きく影響する。人にせよ人間にせよ、「人生劇場」の舞台(場所)は水平の次元しかない。水平と垂直とドラマの場所が二つあるかのような二世界論は根源的に間違っている。垂直の次元はあくまでも「どこにもない場」であり、如何なる意味においてもドラマが展開する場所にはなり得ない。それは人と人間が客観的には何も変わらないのと同断だ。人が人間になると背中に羽根が生えるわけではないし、俗世間を超越して聖なる場所に到達するわけでもない。では、何が変わるのか。残念ながら、私は上手く説明できない。そもそも人が人間になるドラマが要請する垂直の次元とは何か。それは一応、宗教的次元に等しいと言えるが、単に宗教や信仰を扱えば垂直の次元に至るというわけではない。むしろ、ボンヘッファーが問題にした「非宗教化」に垂直の次元は垣間見えるのであり、凡百の宗教ドラマは水平の次元を超えてはいない。例えば、三浦綾子氏に『氷点』という作品がある。何度も映像化されている名作だが、私は最近、石原さとみ主演のテレビドラマを観た。贖罪もしくは免罪といった実に重いテーマが問題にされているが、私はそこに垂直の次元を見出すことができなかった。私は決して三浦氏の良き読者ではないが、氏の『塩狩峠』にも同じことを思う。別に三浦氏を批判するつもりはないが、垂直的ドラマが単なる宗教文学でないことだけは確かだ。