補足:「虚」のリアリティ | 新・ユートピア数歩手前からの便り

補足:「虚」のリアリティ

「より高い次元は包括的である。(The higher dimension is the more inclusive.)それ故に個々の次元の間に排他関係は存在せず、逆に包括関係が存在する。言い換えれば、一つの真理は決して他の真理に矛盾しない。それどころか、より高い次元においてはじめて、より低い次元の真理の本来性が輝く」――これはヴィクトール・フランクルの言葉だが、私は自らの問題意識に即して次のように理解する。垂直の次元は水平の次元を包括する。肉体の糧(パンの問題)と魂の糧(パン以上の問題)との関係は断じて排他的ではない。むしろ包括的であり、食うための日常生活の問題も「本当に生きる」という魂の問題において初めてその本来性が輝く。しかしながら、現実には生活の問題と魂の問題は分離され、前者が「実」で後者が「虚」だと見做されることが多い。すなわち、魂の糧は一般的に不要不急の問題でしかない。確かに、災害やコロナ禍などの限界状況においては、「今を生き延びる」という生活の問題以外は全て不要不急のように見える。しかし、本当にそうだろうか。私は先日、鬱病に苦しみ、何とかその絶望的状況から這い上がろうとしている或る有名なミュージシャンのドキュメンタリイを観た。彼はどうも生来物事を深く考え込むタイプのようで、音楽に対しても人一倍情熱的に取り組んできたと思われる。音楽が彼のライフワークだと言ってもいい。そのことの意味を彼なりに真摯に考え、私の文脈で言えば、「食うための音楽」(売れる音楽)と「自己を真に生かす音楽」(魂の音楽)の相剋に苦しんできたに違いない。幸い、彼の創る楽曲は人気を博し、彼の率いるバンドは商業的にも成功を収めた。つまり、彼は「売れっ子」になり、「食うための音楽」と「自己を真に生かす音楽」が一致する幸福を獲得した。しかし、コロナ禍において彼の音楽活動が不要不急と見做されたことが幸福なミュージシャンを不幸のどん底に突き落とした。結果、鬱病が発症した。彼は考え過ぎなのだろうか。そんな筈はない。考えるべきことを考えたまでのことだ。鄙見によれば、日常生活において「実」とされることだけにリアリティがあるのではない。そして、「実」のリアリティだけが支配的になれば世界は歪む。例えば、今や南の島が軍事基地化されようとしているが、これは緊迫する世界情勢の「実」がもたらした当然の結果だと言える。実際、国の安全保障や島民生活の経済的発展の「実」からすれば、島の軍事基地化は歓迎すべき現実であろう。逆に、それに反対することはキレイゴトの「虚」にすぎない。しかし、このように「実」と「虚」を分離するのは根源的に間違っていると私は思う。敢えて両者の排他的関係を前提にするならば、我々は今こそ「虚」のリアリティについて真剣に思耕すべきではないか。鬱病に陥ったかの有名ミュージシャンのように。魂の糧を問題にする芸術は水平的には不要不急に見えても垂直的にはそうではない。戦争、貧困、環境破壊といった水平的問題も芸術が垂直的に包括する。とは言え、「世界の至る所で進行する軍事基地化も芸術の問題だ」などと主張する者は狂人扱いされるに違いない。ならば、世界を根源的に変革する可能性は狂人にしか見出せない――私は本気でそう考えている。