生きるための「虚」(10) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

生きるための「虚」(10)

この世には理不尽なことがある。正直者が損をして、ズルい奴が得をする。正直者に力がなくて、ズルい奴に力があるからだ。強い者が弱い者を虐げる。しかし、人はそれを理不尽だと言うけれど、弱肉強食は自然の「実」だ。強い力を有する者、知的にも経済的にも優れている者がこの世界を支配するのは当然ではないか。少なくとも、この「当然」が世界を発展させてきたことは厳然たる事実だ。そして、弱い者もその事実の恩恵に浴している。格差は理の当然。むしろ、格差がないことの方が不自然だ。しかし、その不自然を要請する力がある。物理的な力ではない。かつて『ヒロシマ・ノート』にも登場する老哲学者は、自らが取り組む核廃絶運動に関して「所詮、大国の強大な権力に基づく核兵器の必要には勝てないのではないか」と問われた時、暫く考えて次のように語ったと言われる。「精神的原子の連鎖反応が物理的原子の連鎖を超えねばならぬ。」言うまでもなく、「物理的原子の連鎖」とは核兵器そのものを意味するが、私はそれを必要とする権力も含めたい。核兵器を必要とする権力と核廃絶を求める力。老哲学者は後者が前者を超えねばならぬと主張するが、それは如何にして可能になるのか。論理的に考えれば、大国の権力に勝る民衆の力が要請されるが、物理的力としては無理がある。ペンが物理的に剣に勝つことなど不可能であり、戦車に対する言葉も同様だ。それにもかかわらず、「ペンは剣よりも強し」という信念が現実となり、言葉が戦車に勝つとすれば、そこには物理的力とは質的に全く異なる力が働くことになる。老哲学者は「精神的原子の連鎖」と表現しているが、私は端的に「魂の力」と言いたい。ただし、「魂の力」は現実には「虚」でしかない。「実」はあくまでも物理的な力だ。私は先に「正直者が損をして、ズルい奴が得をする。正直者に力がなくて、ズルい奴に力があるからだ」と述べたが、「正直者が得をして、ズルい奴が損をする」社会を理想とするならば、その理想社会の実現は正直者の権力獲得を前提とする。具体的には、正直者がズルい奴を厳しく取り締まる法律をつくり、それを徹底的に実行する警察を始めとする体制を確立することだ。それは正直者が支配する世界であり、それを実現するのはあくまでも物理的力に他ならない。つまり、正直者が強い者となって支配する理想社会だ。果たして、これが究極的な理想社会だろうか。確かに、正直者の善人が支配すれば、弱い者は虐げられず、逆に弱い者を虐げる者が激しく糾弾されることになる。悪人は一掃され、善人だけの社会になる。しかし、一体誰が善人と悪人を識別するのか。強い力を持った権力者だとすれば、たといそれが正直者の善人であったとしても、世界は歪む。鄙見によれば、強い権力によって実現される理想社会は究極的なものではない。それはパラダイスではあってもユートピアではない。とは言え、パラダイスは現実的な理想社会ではある。無下に否定はできない。これに対して、ユートピアは「魂の力」によってのみ実現する。パラダイスを可能にする現「実」的な権力に比べれば、ユートピアを実現する「魂の力」は「虚」でしかない。無力と言ってもいい。正直者が権力者になることなく、無力のまま実現する理想社会、それがユートピアだ。「実」のパラダイスか、それとも「虚」のユートピアか。究極的な決断が求められる。