包括的芸術(5)
真「実」の追求は重要だ。如何なる困難に直面しても断念するわけにはいかない。しかし、ウクライナで、ガザで、真「実」の追求は果たして有効に機能しているか。対立する双方の「実」が鬩ぎ合って膠着状態に陥っているだけではないか。確かに、国連を中心とした「実」の懸命の努力はある。難民を救おうとする人道支援の「実」もある。しかし、残念ながら、政治は総じて無力だと言わざるを得ない。それが現「実」だ。さりとて、こうした「実」のアポリアにおいて芸術に何ができるのか。政治に輪を掛けて無力ではないか。然り!「実」の政治と「虚」の芸術。前者があくまでも力勝負を挑むとすれば、後者は端から力を超越している。敢えて言えば、芸術は無力で現「実」に立ち向かう。ただし、この無力は一般的にはガンディー流の非暴力として理解されるだろう。つまり、戦車の力に対する言葉の力だ。尤も、言葉の力はあらゆる芸術表現の象徴であって、そこには映像や絵画・彫刻などの無言(沈黙)の力も含まれる。とすれば、芸術の実践は「歌で世界を変革する」というボブ・ディランの情熱以上のものではあり得ない。ボブ・ディランに限らず、様々なアーティストがそれぞれの芸術表現で世界を変革しようとしてきた。それは一応、政治等の水平革命に対する垂直革命を目指すものだと理解することはできる。しかし、決定的な何かが欠けている。そもそも芸術の実践とは何か。芸術家が国会議員や東京都知事になって社会を変革しようとすることか。冗談じゃない。それは単に芸術家が政治の世界にしゃしゃり出たにすぎず、もはや芸術とは無縁だろう。厳密に言えば、「虚」の芸術の「実」践は根源的な背理を孕んでいる。せいぜいボブ・ディラン程度の実践が限界なのかもしれない。しかし、私はその限界を超える芸術を求めたい。真「実」の追求を包括する「虚」のリアリティによる「一切価値の価値転倒」(Umwertung aller Werte)だ。「どこにもない場」としてのユートピアは善悪の彼岸にある。