包括的芸術(3) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

包括的芸術(3)

「水平的運動はパラダイスを目指し、垂直的運動はユートピアを求める。そして、パラダイスは社会革命によって、ユートピアは精神革命によって、それぞれ実現する。」取り敢えず、これを基本テーゼとしたい。問題は二つの運動の関係だが、私は排他的ではないと考えている。しかし一般的には、水平的運動が「実」、垂直的運動は「虚」、と見做されている。先ず、この一般的見解について考えてみたい。ちなみに私は先日、ビリー・ホリデイが歌った『奇妙な果実』(Strange Fruit:作詞作曲はエイベル・ミーアポル)に関するドキュメンタリイを観た。周知のように、これはアメリカ南部でかつて頻発した黒人リンチ虐殺に対するプロテストソングだ。「プロテストソング」などという無粋な言葉では身も蓋もないが、この歌を耳にして心を動かされない人は皆無だろう。それにしても木に吊るされた「奇妙な果実」を見上げる白人たちの底抜けの無邪気さはどうだ。一片の罪悪感もない。恰も幼い子供たちが面白半分にカエルやバッタなどの小動物を殺して遊んでいるかのようだ。完全なる無垢。黒焦げになった「奇妙な果実」の写真を絵葉書にして、故郷の母に「昨夜、バーベキューしたよ」と近況報告している青年もいる。こうした醜悪極まりない無垢に対して我々はどう立ち向かうことができるのか。勿論、黒人はもとより、あらゆる人種・民族の人権を求める法的な闘争はある。実際、キング牧師を中心とした公民権運動は「正義の果実」を結んだと言える。少なくとも法的には「奇妙な果実」が生る木は全て伐採された。しかし、「黒人の少年少女が白人の少年少女と兄弟姉妹として手をつなげるようになる」というキング牧師の夢は本当に実現したのか。黒人がアメリカ大統領になる時代を経ても、依然としてBlack Lives Matterのような運動が生じている。鄙見によれば、公民権運動を水平的運動としてのみ理解している限り、キング牧師の夢見た「自由と正義のオアシス」はついに夢の閾を越えることはない。そこにはどうしても垂直性が必要になる。では、垂直性とは何か。端的に言えば、それはビリー・ホリデイの“Strange Fruit”(1939)に胚胎し、更にボブ・ディランの“The Death of Emmett Till”(1962)やサム・クックの“A Change Is Gonna Come”(1964)に継承されているものだ。とは言え、垂直性だけでも夢の閾を越えて理想を実現することはできない。ボブ・ディランは「歌の力で世界を変革する」と言ったそうだが、歌が多くの人の心を動かすことは事実だとしても、歌の力そのものは「虚」に他ならない。公民権運動のような社会運動の「実」がなければ、歌(プロテストソング)の力の「虚」も生きない。さりとて「虚」がなければ「実」も本当に機能しない。垂直的運動は水平的運動を包括する。「どこにもない場」としてのユートピアを求める芸術は「自由と正義の場所」としてのパラダイスを実現する社会運動を包括する。両者の関係は不可分・不可同・不可逆だと私は考えている。