包括的芸術(4) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

包括的芸術(4)

「真理とは、それなくしては特定種の生物が生きることができない類の誤謬である。生にとっての価値が最後に決定を下す」とはニーチェの言葉だが、芸術こそ、そして芸術のみが「誤謬としての真理」を問題にできる。それにしても「誤謬としての真理」とは何か。私は「虚」のリアリティだと理解している。そこには真「実」とは質的に全く異なるリアリティがある。さりとて真「実」は無意味だというつもりはない。むしろ、通常は「実」こそが一般的なリアリティであり、我々はどこまでも真「実」を追求すべきだ。この世界に蔓延る理不尽なことを徹底的に糾弾し、主に法律に基づいて悪を排除していく。そうした「実」のリアリティによって世界は確実に「善人の場所」になりつつある。ならば真「実」の追求だけで十分ではないか。どうして「誤謬としての真理」などという訳の分からぬものが必要になるのか。「それなくしては特定種の生物が生きることができない類」とニーチェは言っているが、「特定種の生物」とは何か。一種の貴族主義のようにも聞こえるが、決して単なるエリート主義ではない。確かに、誰もが「誤謬としての真理」を必要とするわけではない。大衆は芸術よりも娯楽を好み、食うに困ることさえなければ幸福に生きられる。言い換えれば、食うに困らず、適度に刺激的な娯楽さえあれば、世の中に少々理不尽なことがあっても大衆は日々の生活に安住できる。つまり、そこには「実」の世界を超越しなければならぬ契機がない。しかし、「特定種の生物」はそうした大衆の幸福な生活に安住できない。「家庭の幸福は諸悪の本」とばかりに「誤謬としての真理」を求める次元へと超越する。何故か。正にそれを問題にするのが芸術だと私は考えている。やや挑発的に言えば、家庭の幸福に安住する大衆の「実」、もしくはキング牧師の言う「善人の沈黙」に対するプロテストだ。勿論、「沈黙しない善人」は勇敢に真「実」を追求する。しかし、「実」のリアリティは究極的には「虚」のリアリティを要請する。両者は質的に異なるものの、そのcoincidentia oppositorumに包括的芸術の真骨頂がある。「虚」のリアリティだけの芸術は真の芸術に非ず。むしろ、現実逃避の娯楽と言うべきだ。「誤謬としての真理」を問題にする芸術は大衆を戦慄させる。尤も、現「実」には戦慄どころか、黙殺されてばかりいるけれども。いつか必ず。