間奏曲:今後の思耕に向けてのノート | 新・ユートピア数歩手前からの便り

間奏曲:今後の思耕に向けてのノート

「おもろの世界では、天上にあるオボツ・カグラの神々が聞得大君という神女を媒体にして国王にセヂ(霊力)を付与し、支配権力を強化するという形が繰り返し強調されているが、天上の神、地上の神、その媒体者としての神女、そして太陽神崇拝という信仰を包み込んだ垂直構造のそういう形が、果たして沖縄のどの島々村々にも伝わる普遍的な神観念であり、世界観と言えるのであろうか。学生時代に、折口信夫先生から学んだ「まれびと」思想とも絡みながら、おもろを学ぶほどに私の想念は、そこの部分で立ち止まってしまう数年を繰り返してきたものである。

「まれびと」としてニライ・カナイから水平に来訪する神々と、オボツ・カグラから垂直に降臨する神々とが別なものとして振り分けて考えることができるようになってからもしばらくは、そのいずれを南島固有の神観念と考え、座標軸にすべきか、ということで迷いの連続であった。

そのうちに、私にも、水平神信仰と垂直神信仰の神観念に地域的偏差のあることが、南島の全体的展望の中で把握できるようになってきた。すなわち、垂直神信仰は首里王府を中心とする沖縄本島南部地域に密度の濃い信仰であり、沖縄北部や、奄美、宮古、八重山など、中央を離れる僻遠の地では、水平神信仰が分布し、未だに伝承されているという事実である。南島に対する民俗学や民族学の学問的開発が進むにつれて、沖縄の祭りの内容が明るみに出るようになってきたし、それらの報告によると、祭りの形式も、首里王府を中心とする沖縄南部地域とその他の地域とでは、いくつかの違いが指摘されている。」

「『古事記』で、底・中・上の語をかぶせられた海神たちがかかわったコスモスを垂直軸に立てないで、祖神たちが往来した水平軸を乗せたらどうなるだろう。「底」の語源が、「遥かなる海の果て」であったという解釈も成り立ちそうである。

古くは、神々の行動は水平軸に動いていたのに、それが天上と地上を結ぶ垂直軸を中心にするように変わっていったため、海の果ての遠い所をあらわした「スク」「そこ」の原意が、ものの高低をあらわす「底」という新しい意味を生み出し、それが言葉として広がり深まっていったのであろうと考えるからである。」

(外間守善『沖縄学への道』)

 

世界の腐敗は水平化に起因するものだと私は考えてきた。水平化とは、裏を返せば垂直の次元の喪失に他ならない。だから私は世界の垂直化を求めた。それが究極的な理想社会には不可欠な運動だと確信したからだ。しかし、問題はそんなに単純ではなかった。そもそも水平化=世俗化も我々の理想にとっては必要な運動なのだ。たとい世界の腐敗をもたらす結果になったとしても、一概に否定することはできない。加えて世界の垂直化という運動もファシズムという危険性を孕んでいる。おそらく垂直化と水平化は相即すべき運動なのだろう。問題はその相即のリアリティだが、そのヒントは「垂直神信仰と水平神信仰」もしくは「縦超と横超」の関係にあるように思われる。民俗学的にはやはり民衆の水平神信仰が根源的(古層)なのであって、垂直神信仰には文化的洗練(政治性)が感じられる。水平神信仰を宗教、垂直神信仰を神学、と理解してもいいかもしれない。鄙見によれば、「神の死の神学」は垂直神信仰のラディカル化だが、それが世界を根源的に変革する運動になるためには水平神との祝祭共働が要請される。それについて更に思耕していきたい。