包括的芸術(9) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

包括的芸術(9)

先日、テレビを観ていたら経済思想家の斎藤幸平氏が或る学者の研究に基づいて「3.5パーセントの人が立ち上がれば世界を変えることができる」と主張されていた。これは「3.5パーセントの少数派が96.5パーセントの多数派に勝利できる」という背理の主張ではないだろう。3.5パーセントの人が「今の世界の流れは間違っている」と行動を起こせば、それは周囲の他者に波及し、やがて多数派になっていく――結局、現「実」に世界を変えるのは常に多数派なのだ。3.5パーセントの弱者の決起が多数派の強者になる道を切り拓き、それが世界を変える、と言ってもいい。そこには何ら背理はなく、弱者が連帯して強者になることで勝敗を決するという「実」がある。私はこうした斎藤氏の「実」を批判するつもりなど全くない。むしろ、その「脱成長コミュニズム」に基づく共生の運動が多数派になることを心から願い、私自身もその末席に連なりたいと思っている。ただ、「実」の運動が本当に機能するためには「虚」のリアリティが不可欠ではないか。斎藤氏は「資本主義のその先へ」と言われる。しかし、現「実」社会の政治経済は未だ資本主義に立脚し、大多数の人も依然として資本主義がもたらしてくれる「生活の豊かさ」を求めている。この強大な流れに抗する3.5パーセントの人になるためにはどうすればいいのか。「生活の豊かさ」という資本主義の光の反面、すなわち環境破壊や経済格差という影に対する根源的批判は当然だが、そうした「実」の次元における水平的運動だけでは世界は変わらない。何故か。一時的には共生原理の「実」が競争原理の「実」を抑制できても、水平化された世界に生き続けることに人は耐えられないからだ。この点、未だ上手く表現できないが、敢えて誤解を恐れずに言えば、「平和な世界に生き続けることに人は耐えられない」という現「実」に通底している。ただし、これは単に「人は競争や成長をやめられない」ということではない。確かに人は、他者との競争もさることながら、常に自分自身と格闘し、「あるべき自己」に成長することに生きる意味を見出している。「競争による成長」が生き甲斐を生む、と言ってもいいだろう。しかし人の生き甲斐はそれだけではない。当然、「共生による脱成長」の生き甲斐もあるに違いない。殊に、「競争による成長」の追求が現代社会の閉塞状況をもたらしていることからすれば、斎藤氏の言われるように、我々は「共生による脱成長」にこそ生き甲斐を見出すべきだと考えられる。実際、この世界から理不尽なことが一掃されるドラマを人々は待望しているのであり、それは正に全てを水平化する「脱成長コミュニズム」のドラマであろう。そこには悪しき平等主義への危険性もあるが、多様性が尊重される共生への期待の方が大きい。とは言え、「共生による脱成長」の水平的運動のドラマには何かが欠けている。私はそう思わざるを得ない。言うまでもなく、欠けている何かとは垂直的運動のドラマだ。私は先に「垂直的運動は水平的運動を包括する」と述べたが、その包括的芸術は「競争による成長」と「共生による脱成長」のcoincidentia oppositorumを要請する。明らかに背理だが、私はそこに「虚」のリアリティを求めたい。どうも振り出しに戻っただけのようだが、背理とは質的に異なる「虚」のリアリティは3.5パーセントの少数派の可能性を必ずや切り拓くものと私は考えている。