人間になる(5) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

人間になる(5)

茨木のり子は「一人でいるのは賑やかだ」と表現した。もう朝から晩までペチャクチャペチャクチャ、人は「私という他者」とお喋りしている。野暮を承知で言えば、その賑やかなお喋りもやがて真摯な対話に収斂していき、一つの問いに直面する。キルケゴールを援用すれば、それは次のような問いだ。「それ自身に関係するそのような関係、すなわち自己は、自分で自己自身を措定したのであるか、それとも或る他者によって措定されたのであるか。」これは「自同律の不快」にも通じる問いであり、「賑やかな森」としての私的領域もその限界を露呈し始める。と言うのも、人は「無限性と有限性との、時間的なものと永遠なものとの、自由と必然との綜合」なのだが、現実にはその綜合は私的領域では実現しないからだ。むしろ、ほぼ必然的に「絶望の不均衡」に陥っていく。言わば自己は二つに引き裂かれて生きていくことを余儀なくされるわけで、その絶望こそが新たな次元を切り拓くことになる。「私は私である」と言い切れぬことの不快。主辞の私と賓辞の私との質的断絶。こうした「絶望の不均衡」は如何にして超克されるのか。キルケゴールは「絶望が全く根こそぎにされた場合の自己の状態を表す定式」として、次のように述べている。「自己自身に関係し、自己自身であろうと欲することにおいて、自己は自己を措定した力のうちに透明に根拠をおいている。」ここに見出される理路は、人が「それ自身に関係する関係」としての自己に目覚め、それに伴う絶望を深めることで「自己を措定した力」と出会う過程を表している。この理路こそが「人間になる」道なのだが、これを回避させる誘惑として問題になるのがパラダイスの力に他ならない。実際、人は「関係としての自己」と対峙することを避け、表層的な自己の直接的な欲望(自然に生じてくる快楽)に身を委ねることで幸福を追求することができる。それは人生行路の美的段階に留まることに等しいが、「家庭の幸福」も含めて、欲望の充足が人生にパラダイスをもたらすことは間違いない。実に大きな誘惑だ。この誘惑に如何にして対抗し得るか。