「小さな物語」が要請する「大きな物語」
生まれてきたからには大きな仕事がしたい。そう思った。できれば多くの人から称賛され感謝されるような偉業を成し遂げてNHKの『プロジェクトX』で紹介されたい。しかし、私にはそんな才能はない。偉業とは無縁の人生だ。私は凡庸にしか生きられない自分に絶望したが、そんな私にも生きる意味はきっとあるに違いない。ただし、それは絶望の正当化ではない。そもそも偉業とは何か。凡庸な人たちの苦しい日常生活を劇的に改善することではないか。勿論、国家の威信を高めるような「大きな物語」としての偉業もあるが、日々平凡に生きている小さき人々の声に応える偉業もある。『プロジェクトX』で紹介されるような偉業は、むしろ後者ではないか。小さき人々の「小さな物語」を支援する偉業だ。主婦にとって重労働であった家事の負担を劇的に軽減する家電の数々。難病を治す薬や医療。その開発の苦闘は決して「大きな物語」ではないが、個々の「小さな物語」の充実を目指す仕事は「大きな物語」に優る感動を呼ぶ。僭越ながら、そうした仕事を私も自分の能力の範囲でしたいと思う。すなわち、全世界の人がそれぞれの「小さな物語」の充実に集中できるようにする仕事だ。しかし、それは「私的な生の充実」を第一に考えることではない。敢えて言えば、「小さな物語」は「大きな物語」を要請する。「小さな物語」に終始することは悪しきエゴイズムに閉塞することに等しい。とは言え、「小さな物語」が要請する「大きな物語」は従来の古き「大きな物語」とは質的に全く異なる。一体、何が違うのか。
未開の幸福
先日のEsperanta Retradioの記事(“Tsimanoj”ne suferas korinfarkton)によれば、ボリビアの先住民チマネ族はこれまで心筋梗塞などの心臓病とは無縁だったが、最近はその罹患率が高くなっているそうだ。何故か。白人との接触が増えて、その伝統的な生活習慣が大きく変化したからだと言われている。狩猟採集を中心とした「非合理的な」生活から白人のもたらした文明の利器による「合理的な」生活へ。言うまでもなく、この変化はチマネ族に限られた運命ではない。日本人も明治期の開国=文明開化によって生活習慣が西洋化し始め、先の大戦に敗れた後はアメリカ並みの生活が目標となった。結果、チマネ族のように、かつては無縁だった所謂「贅沢病」に苦しむ日本人も増加している。それ故、和食中心の質素な食生活(粗食)が再評価されているものの、アメリカ式のボリュームのある食生活が日本人の体格を大きく向上させたことも事実だ。また、伝統的な生活では祈祷や修祓などに頼るしかなかった不治の病が西洋の近代医学では治癒可能になった、ということもある。もとよりそれが運命である以上、「非合理的な」生活から「合理的な」生活への近代化の流れは不可避だ。チマネ族も日本人も、便利になった生活を今更捨てることなどできないだろう。しかし、それにもかかわらず、近代化以前の生活の方が幸福であったという思いも捨て切れない。スマホを駆使して最先端の遊びに興じている今の子供たちよりも何もない原っぱを駆け回っている昔の子供たちの方が楽しそうに見える。これは私の偏見にすぎないのか。私は前近代の生活に戻るつもりはないが、さりとて近代化された今の生活が無条件に正しいとも思えない。いや、「近代化」それ自体は不可避の運命だが、これまでの西洋主導の近代化とは別の近代化があるのではないか。私は先に「伝統的な生活では不治の病であったものが西洋の近代医学では治癒可能になった」と述べたが、最近では西洋医学では不治とされた病が東洋医学では治癒可能になっている場合もあるそうだ。私はここで「東洋の方が西洋より優れている」と言いたいのではない。東洋医学と西洋医学とでは治療の考え方が根本的に異なっている。同様に、私はこれまでとは質的に異なる近代化を摸索しているだけだ。「近代の超克」は依然として私の喫緊の課題であり続けている。
日日是好日
国家とか大義とか、そんなものとは全く関係なく、日々誠実に生きる。額に汗して真面目に働く。ホメラレモセズクニモサレズ生活する。自分を生んで育ててくれた恩を忘れず親孝行する。縁があれば結婚する。子ができれば新たな家族のために一層励む。そうして老いて、やがて死んでいく。不満はない。むしろ、充実した人生だと思う。日日是好日。
これ以上の幸福があろうか。少なくとも私はこれを「私的な生の充実」を第一に考える人生だとは思わない。私的とか公的とか、そんな区別をする必要のない人生だ。問題は、その必要を余儀なくされる現実から生まれてくる。「俺たちはただ、美味しい米や野菜などをつくって平穏に暮らして生きたいだけなんだ。天と地の恵みに感謝して、春と秋にはお祭りをして、神人共食、楽しく祝祭の時を過ごす。」しかし、現代社会はこれを許さない。前近代的な遅れた生活として切り捨てる。だから、野暮を承知で垂直の次元を問題にする。「公的な生の充実」の物語を摸索する。ただし、それは決して「農本主義の復活」というような物語ではない。「巨きな人生 劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす」(宮澤賢治)新しき物語は時間の新しさを超越する。
Make Japan Great Again
トランプ圧勝の流れに便乗して、日本でも同じようなことを言い始める輩が出てくるのではないか。杞憂かもしれないが、そんな気がしている。と言うのも、今回トランプ氏が圧勝した理由の一つにZ世代の支持があるという分析があるからだ。伝統的な古い保守主義に凝り固まった人たちの支持も相変わらず厄介な問題だが、若い人たちの新しい保守的傾向はそれ以上に無視できない。或る白人の若者は「今のアメリカは移民などのマイノリティが優遇されて、昔から住んでいる白人が冷遇されている」と嘆いていたが、その閉塞感は切実だとしても、その捌け口が「本来、アメリカは白人の国だった」という意識に見出されるのはどうか。言うまでもなく、そこには先住民がいたのであり、アメリカは様々な移民によってつくられる「新世界」として偉大になったのではないか。ところが、トランプ氏によって唱導されている「アメリカの偉大さ」はそのようなものではない。むしろ、逆だ。移民はもとより、LGBTQなどの多様性もアメリカの伝統に反するものとして排除し、自国優先主義を貫こうとしている。これはかつて万国の労働者のアソシエーションであるべきソヴィエトが一国社会主義に堕していった愚に等しい。結局、自国優先主義も一国社会主義も「私的な生の充実」を第一に考える大衆の支持によって成立している。先述したように、これは今や世界的潮流になろうとしている。当然、日本も例外ではない。日本にもマイノリティの特権を苦々しく思っている人は少なくないだろう。そうした人たちは往々にして「偉大な日本」の復活を夢見る。しかし、「偉大な日本」とは何か。もはや日本は経済大国ですらないが、再び昔日の夢を追いかけるのか。以前に『Japan as Number One』という本が話題になった頃は「軍事戦争ではアメリカには負けたが、経済戦争では勝った」と妄想した人もいたかもしれないが、そんなところに日本の偉大さはない。そもそも経済大国の偉大さは所詮「私的な生の充実」に支持されたものでしかない。我々はもっと別の次元に生きることを目指すべきではないか。
補足:憂国
戦艦大和と運命を共にできなかった吉田満氏は戦後、日本銀行の重役として日本の復興に尽力された。結果、焦土と化した日本は経済大国として見事に復活を遂げた。しかし、これが散華の世代を礎とした「日本の新生」なのか。吉田氏は深く絶望したと言われている。もとより物質的に豊かになったことは決して悪いことではない。経済格差の問題はあるものの、総じて庶民のQOLが飛躍的に向上したことは多くの人を幸福にした。家電の「三種の神器」を揃え、自家用車を持ち、やがてはマイホームでの一家団欒を実現する。しかし、その幸福は所詮個人の「私的な生の充実」にすぎない。おそらく、「すぎない」という私の言い方に反撥する人も少なくないだろう。人生の幸福は「私的な生の充実」に尽きるのであって、それ以上のものを求めることはむしろ人生を狂わせる、と考える人だ。ここで人生観が二つに分かれる。人生の本当の幸福は「私的な生の充実」以上のもの、すなわち「公的な生の充実」を要請する、という人生観。これに対して、「公的な生の充実」は国家の理想にすぎず、それは個々の「私的な生の充実」を蹂躙するものでしかない、という人生観がある。どちらの人生観を選択するかはそれぞれの自由だが、後者を選択する人にとって国家は個人の「私的な生の充実」にとって二次的なもの、場合によっては「なくてもいいもの」だろう。自分たちの「私的な生の充実」を可能にしてくれる経済的に豊かな環境さえあればいいのだ。私はそうした人生観に生きる自由を認める。しかし、本音としては、三島由紀夫と共に次のように言いたい。「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思う人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。」余談ながら、アメリカ大統領選はトランプ氏の圧勝に終わったが、この結果をもたらした「アメリカ国民の愚かさ」を嘆いてばかりいられない。すでにハンガリーではオルバーン・ヴィクトルが再選されるなど、自分たちの「私的な生の充実」を第一に考える大衆の意向が国の方向を決めている。こうした同化の傾向は今後も続くに違いない。決して対岸の火事ではない。
さて、経済大国としての日本が吉田氏たちの望んだ「新生日本」でないことは間違いないが、さりとて個人の「私的な生の充実」以上の大義が復活した日本も「新生日本」とは言えないだろう。では、「新生日本」とは何か。それは「公的な生の充実」と密接に関係しているものの、公的な生が私的な生を抑圧する危険性を無視することはできない。少なくとも、大義が国家の理想として私的な生に犠牲を余儀なくさせるようなものであるならば、それは戦前・戦中と何も変わらず、そこに「新生日本」はあり得ない。「新生日本」の物語は依然として憂国の遥か彼方にある。
補足:戦艦大和ノ最期
戦後日本の歴史教育は総じて近代日本の悪行を暴いてきた。それが所謂「自虐史観」を生み出していく。戦時中は「鬼畜米英」と言われていたのに、戦後は「実は鬼畜は日本兵だった」ということになり、アメリカを中心とした連合軍は日本の人民にとって解放軍と化した。かつて美しいとされたものがことごとく醜いものとなった。本当だろうか。戦後の「自虐史観」は戦前の「皇国史観」の裏返しにすぎず、どちらも俄かに信じがたい。一体、何が真実なのか。因みに西尾幹二氏が先日逝去されたが、『新しい歴史教科書』は真実を語っているか。ボンクラの私には全て「藪の中」だが、実際に戦った当時の若者たち、殊に特攻の運命を余儀なくされた若者たちがそんなにも愚かだったとはどうしても思えない。平和な戦後の日本から振り返れば、どうして勝てる道理のない戦争を始めたのか、疑問に思うのは当然だ。今の若者たちの中にはかつて日本がアメリカと戦争したことすら知らない者がいるそうだが、日米戦争などは正に愚の骨頂であろう。確かに、真実は愚の骨頂であったかもしれない。しかし、愚の骨頂での死を余儀なくされた若者たちは真理を求めた。自分たちがこの愚かな戦争で死んでいくことの意味を必死に求めた。吉田満氏の『戦艦大和ノ最期』によれば、臼淵大尉は次のように述べている。「死と敗北の彼方に、その死と敗北を越えて、祖国日本が新生するであろうことを信ずる他はない。その新生日本の礎としてしか、我々の死の意味はあり得ない。特攻出撃の意味を求めて、必死に考えても、それ以上のことは考えられない。」果たして、散華した若者たちが必至に求めた真理は実を結んだか。日本は新生できたのか。ここに物語の摸索の原点がある。
補足:坂の上の雲
現在、『坂の上の雲』(原作:司馬遼太郎)のテレビドラマが再放送中だが、これは極東のまことに小さな島国が国民国家への坂を懸命に駆け上がっていく物語だ。確かに、日清・日露の大戦を曲りなりにも勝ち抜いて、日本は坂を上り切った。しかし、坂の上で日本が掴んだのは雲でしかなかった。然り!国民国家は雲でしかない。そもそも「極東」という言葉(位置付け)が近代日本にとって何が中心であったかを如実に示しているが、国民国家への坂は欧米への同化の道でもあった。唐突ながら、幕末期の日本はやはり攘夷すべきだったのかもしれない。神風連は正しい。言うまでもなく、いくら攘夷が正しくとも、欧米の圧倒的な力に直面して「攘夷は不可能」との現実を受け容れざるを得なかった。そして、日本は同化の道を選んだ。結果、大国ロシアに勝利するまでに成長した。それは感動的なドラマでもある。実際、その過程が描かれたテレビドラマを観ると、日本人であることを、立派な国民となった日本人であることを誇りにさえ思えてくる。しかし、その誇りもまた雲でしかない。「脱亜入欧」に成功した日本は、今度は近隣 のアジア諸国を日本に同化しようと試みた。帝国主義への仲間入りだ。しかし、帝国主義もまた欧米への同化の産物にすぎない。周知のように、日本の帝国主義は実に悲惨な結果を以て破綻したが、同化の物語は性懲りもなく依然として続いている。その愚にそろそろ目覚めてもいいのではないか。今や異化の物語への転換が求められている。
物語の摸索(10)
私は如何なる意味においても他者に物語を強要するつもりはない。どんな物語を生きようと、その人の自由だ。しかし同時に、私は自分だけの個人的な物語を摸索しているつもりもない。私は「我々の物語」、更に言えば「我である我々・我々である我」が活動する祝祭共働の物語を摸索している。勿論、厳密に言えば、「我々の物語」の摸索は他者に物語を強要しないという思いと矛盾するかもしれない。しかし、祝祭共働の物語はディオニュソスの陶酔と密接に関係しているものの、水平の次元におけるファシズムとは質的に全く異なるものだ。その質的差異については別の機会にじっくり思耕することにして、ここでは「我々の物語」に全く関心のない人たちの望む物語を問題にしたい。それは「私的な生の充実」だけを求める物語だが、私は決して「私的な生の充実」そのものを非難する者ではない。むしろ、「私的な生の充実」は「公的な生の充実」と共に「我々の物語」にとって不可欠だと思っている。と言うより、両者は「我々の物語」において相即しなければならぬ。おそらく、「私的な生の充実」だけを求めるエゴイストにとって、「公的な生の充実」は自らの「私的な生の充実」を疎外するもの、よし公的な生が必要とされるにしても、それは「私的な生の充実」を補完する二次的なものでしかないだろう。それはエゴイストの大きな誤解だ。「公的な生の充実」は断じてそのようなものではない。ただし、水平の次元において「私的な生の充実」と「公的な生の充実」との関係に軋轢が生じるのは事実だ。それは同化と異化の軋轢でもある。余談ながら、私はアイヌや琉球の人たちの物語に学んでいるが、それは正に同化と異化の闘いの物語に他ならない。周知のように、明治政府はアイヌや琉球の人たちを日本人に同化させた。その言葉と伝統を奪った。そうした理不尽な同化政策は徹底的に批判されねばならないが、私は敢えて同化と「私的な生の充実」の関係に注目したい。誤解を恐れずに言えば、それは日本人に同化した方が「私的な生の充実」が得られるという問題だ。実際、アイヌや琉球の伝統に固執するよりも、一日も早く日本人になった方が社会的にも経済的にも幸福になれるという思いが支配的になっていく。つまり、異化よりも同化の優先。もとより同化に対する根強い抵抗運動は今でも続いている。しかし、「私的な生の充実」が優先される時、異化よりも同化が選択される流れが大勢を占めるのは理の当然だ。これは何もアイヌや琉球の人たちだけに限られた物語の展開ではない。日本人だって文明開化の名の下に欧米に同化することを選択したではないか。同化なくして文明化なし、文明化なくして同化なし。言い換えれば、異化に固執し続けることは文明化を拒否して所謂「未開生活」に閉塞することに等しい。「私的な生の充実」を求める人が異化よりも同化を望むのは当然だろう。ここに「私的な生の充実」だけを求める物語の限界がある。その限界にも拘わらず、それでもこの物語を望むのならそれでも良い。しかし、その限界の突破を望むのなら、その可能性は「我々の物語」にしかない。少なくとも私はそう思わざるを得ない。
物語の摸索(9)
かつて『わたしの青春ノート』という各界の著名人が若き日の苦労話を高校生に語る番組があった。かなり以前に(昭和の後半か)制作されたものだが、先日、私は『ゲゲゲの鬼太郎』でお馴染みの水木しげる氏の回の再放送を観た。水木氏は高校生に大略次のように語った。
「ボクの青春時代は戦争で自分の好きなことが思うようにできなかった。今は平和になって何でもできる。どうして若い君たちが自分の好きなこと、やりたいことに思い切り没頭しないのか、ボクにはちょっと理解できない。ボクなら冒険してみたいことをいっぱいするのになぁ…」
どこまでも情熱的な水木氏に対して、高校生は「でも受験勉強があるし…」と覇気がない。この場面を目にして、私は「この温度差は何か」と思った。おそらく、このギャップは令和の今も続いているだろう。そもそも水木氏の「今は平和で何でもできる」という現状認識は正しいのか。確かに、今の日本の若者は徴兵されることもなく、一応「職業選択の自由」もある。才能にもよるが、少なくともなりたい者になろうとすることはできる。水木氏の青春時代と比べて、今の若者たちが格段に自由であるのは厳然たる事実だ。しかし、それにもかかわらず、今の若者たちには水木氏の思いも寄らぬ閉塞感がある。それは戦時中の閉塞感とは質的に全く異なる閉塞感だ。先の高校生は受験に束縛されていたようだが、どうして受験が好きなことに没頭できない理由になるのか。むしろ、受験は本来、自分がなりたい者になる可能性を切り拓くものではないか。例えば、医者になりたい者は医学を学べる医学部への受験がその第一歩となる。勿論、何度受験しても失敗し、結局医者になれないこともある。しかし、その場合でも、「医者になる」という物語は絶対的なものではなく、人の命を救いたいという思いは新たな物語を摸索するに違いない。水木氏にしても、画家になりたくて美術大学に入ったものの、画家では食えなくて、紙芝居、貸本マンガと思いを繋いで人気マンガ家になった。様々な物語がある。そして、物語は変容する。昔は本当に学問がしたい一部の人だけが末は博士か大臣になるべく大学に進学した。それ以外の学問に興味のない者はそれぞれの関心に応じた物語を織り出していった。今は猫も杓子も「大学卒」が物語の当然の一場面であるかのように進学する。そこには「大学卒」になれなかった親の思いも込められているかもしれないが、子も親もそのバカバカしさにそろそろ気づき始めているのではないか。水木氏が言われたように、「今は平和で何でもできる」。しかし、今の若者はその「何でもできる」自由に溺れている。「何でもできる」が故に「何もできない」。戦時中の閉塞感が「自由の欠乏」であったとすれば、今の閉塞感は「自由の過剰」に他ならない。こうした情況において、如何なる物語が可能なのか。大谷翔平選手や藤井聡太棋士のように才能のある者はその才能を活かす物語を引き続き創っていけば良い。また、「何でもできる」自由を満喫しているのなら、それでも良い。しかし、私のように特別な才能もなく「自由の過剰」に苦しんでいる者はどうすればいいのか。もとより才能などなくても物語は織り出せる。私とて分不相応な立派な物語を夢見ているわけではない。ただ、水平の次元に展開する物語にどうしても満足できず、それを超越する物語、すなわち垂直の次元を要請する物語を摸索しているにすぎない。
物語の摸索(8)
引き続き内村鑑三の墓碑銘に拘れば、Japanという国民国家を死滅させて、次のように記すことは可能だろうか。
I for the World;
The World for Us All;
And All for God.
三行目は不必要だと思う人は多いかもしれない。「私は世界のために、世界は私たち全てのために」――それで完結。物語は全て水平の次元だけで展開するのであって、垂直の次元は全く必要ない。それは、人生にはそれぞれの「私的な生の充実」だけが問題であって「公的な生の充実」など不要だ、ということでもある。その場合、世界は絶対的なものではない。そもそも水平の次元に絶対的なものなどあり得ない。全ては相対的なものだ。強いて言えば、個人の「私的な生の充実」が擬似的に絶対的なものとして機能する。そして、世界の機能は人々の「私的な生の充実」の追求が安全に心置きなく遂行される環境の維持に限られる。もはや互いに争う国家は死滅しているので、人は国家に束縛されることなく自分の好きなこと、楽しいことだけに没頭できる。正に娯楽天国!世界は言わば巨大な遊び場もしくはゲームセンターと化す。果たして、それが理想社会と言えるだろうか。そのような世界に生きたいと本当に心から思えるだろうか。戦争をもたらす国家を死滅させて、全ての人が「世界人」として生きるのは良い。しかし、「世界人」とは何か。「人が世界人となるためには、先ず、日本人であり、英国人であり、ロシア人であることを要する」とは江藤淳の言葉だが、これは未だ国民国家という「想像の共同体」に囚われている虚妄であろうか。