「大きな物語」をめぐる罪と罰(8)
華麗な「小さな物語」もあれば、悲惨な「小さな物語」もある。前者には拍手喝采を惜しまないが、後者は他人事ではない。その悲惨さの程度は様々なれど、全世界の人が天命を全うし、それぞれの「小さな物語」が完結することを願いたい。しかし、世の中には未だ過酷な境遇を余儀なくされている人が溢れている。自然による大災害や病気もさることながら、人為による戦争や貧困の問題。その克服は容易なことではないが、せめて自ら「小さな物語」を中断することがないようにしたい。幸いなことに、過酷な境遇と闘っている人を支援する連帯は広がっている。その広がりは水平革命、すなわち水平の次元に生じる理不尽なことの是正に収斂していく。具体的には、醜悪なる虐めや差別を根絶して、誰もが平等に適正な教育と医療が受けられる社会の実現だ。そこで人は自由にそれぞれの分相応の「小さな物語」を織り出していくことが可能になる。それは各個人の内にすむ自我を完全に生長させる事でもあるが、その理想を実現する場所をアルカディアとパラダイスの相即(矛盾的自己同一)と理解できるだろう。ちなみに実篤が百年ほど前に始めた新しき村は一般的にはアルカディアを実現する農本主義的運動だと思われているが、決してパラダイスを拒絶しているわけではない。確かに、パラダイスを可能にする経済発展は競争原理によるものであり、アルカディアの根幹を成す共生原理と相容れない。従って、極論すれば、アルカディアを求める「小さな物語」とパラダイスを求める「小さな物語」は対立することになる。こうした二律背反は水平革命の限界を示しており、その限界点から垂直革命としてのユートピアが要請されるに至る。正にその要請が「大きな物語」に繋がっていくのだが、そこには致命的な問題がある。「小さな物語」は人の言葉で書かれているが、「大きな物語」は神の言で書かれている、という問題だ。ところが、人は往々にして「大きな物語」を人の言葉で書きたがる。それは水平の次元に「大きな物語」を織り出す罪に等しく、その罰としてユートピアはディストピアに堕していく。この罪と罰は如何にして克服されるのか。
「大きな物語」をめぐる罪と罰(7)
大きな夢、身の程知らずの大それた夢を懐くことは良いことだ。野心なくして何の青春ぞや。幼い頃、今ではさっぱりその名を耳にすることはなくなったが、花登筐のテレビドラマをよく観ていた。中でも西郷輝彦主演の『どてらい男』は印象が深い。子供心に大きな影響を受けた気がする。貧しい境遇から這い上がって一廉の商人として大成する――そうした立身出世物語に私は熱狂し、そこに「大きな物語」を見出した。尤も、少年の私は商売ではなく野球に関心があったので、プロ野球選手としての「大きな物語」を夢見た。もし私に大谷翔平選手の百分の一の才能でもあったなら、夢としての「大きな物語」に亀裂が生じることはなかっただろう。当然のことながら、私自身の夢は儚く破れた。その挫折の自己正当化ではないと信じるが、私は「大きな物語」の深層を問い直すことを余儀なくされた。ただし、それは大谷選手のようなスーパースターの偉業にケチをつけるものではない。その偉業の大きな輝きに変わりはないが、「大きな物語」は次元を異にするのではないか。人はそれぞれの分野で夢を懐く。アイドルになりたい。オリンピック選手になりたい。立派な医師になりたい。金持になりたい。幸福な家庭人になりたい。大きな夢もあれば、小さな夢もある。非凡な才能の持ち主は輝かしい夢を叶え、平凡な人はささやかな夢に満足する。どちらも「小さな物語」に他ならない。人生は、個々の器量に拘らず、全て水平の次元に展開される「小さな物語」以上のものではない。「大きな物語」は水平の次元の何処にもない。何処にもないが、何処にでもあり得る。注意すべきは、水平の次元に「大きな物語」を織り出そうとする罪だ。水平の次元に実定化された「大きな物語」ほど危険なものはない。それは「小さな物語」を悉く台無しにする。
「大きな物語」をめぐる罪と罰(6)
非国民!「贅沢は敵だ」と言われた時代、オシャレなど個人の私的な生の充実を望む者はそう罵倒された。御国の「大きな物語」のために皆が戦っている非常時に個人の「小さな物語」に執著することは罪であり、非国民として罰せられても仕方がない。ところが敗戦後、今度は「贅沢は素敵だ」という時代になった。かつての非国民は主権を有する者となり、「大きな物語」と「小さな物語」の価値が逆転した。日本国憲法第三章第十三条に曰く、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」戦前には臣民の権利、すなわち天皇の赤子としての制限された権利しかなかったが、今や国民は個人として自由に幸福追求できる権利を得た。マッカーサー万歳!占領下の日本に進駐した連合軍は解放軍と化した。これによって事実上「大きな物語」は死んだと言っていい。主権者たる個人としての国民の「小さな物語」以上のものは何もない。しかし、天皇制は未だ生きている。勿論、天皇はもはや国を統治する元首ではなく、「日本国および日本国民統合の象徴」とされている。この「象徴」が何を意味するにせよ、日本国憲法第一章第一条が「大きな物語」の亡霊となることは必定だろう。実際、現人神としての天皇は死んでも、「天皇陛下万歳!」という唱和は生き続けている。果たして、国民は「大きな物語」の復活を望むだろうか。一部の政治家はそれを望んでいるようだが、国民の総意はどうか。もし「大きな物語」の息の根を止めるのが総意なら、国民は日本国憲法第一章第一条をギロチンにかけねばならない。その覚悟があるか。それは「大きな物語」なしに「小さな物語」だけに徹して生活する覚悟だ。それが国民の追求する幸福なのか。私自身は、国民の総意がどうであれ、「大きな物語」を求める。ただし、それは元首としての天皇の復活でもなければ戦前の価値観への復帰でもない。そもそもそんなところに「大きな物語」はない。従って、私が求めているのは「大きな物語」の復活ではない。新生だ。それはユートピアの実現と密接に関係している。
「大きな物語」をめぐる罪と罰(5)
どうして私はかくも執拗に「大きな物語」に拘るのか。端的に言えば、「大きな物語」がもたらす罪と罰に究極的な関心があるからだ。私的な生の充実だけを求める「小さな物語」に閉じ籠る罪と罰も無視できないが、それは二次的なものにすぎない。「大きな物語」の危険性の方が遥かに重要だ。しかし一般的には、現状認識は正反対かもしれない。実際、「大きな物語」など意識することなく自らの「小さな物語」に没頭している人が大半だろう。そうした人たちのエゴイズム、すなわち気候変動や経済格差といった公的問題を他人事として無視する方がよほど罪深い。従って、私的領域における個人の幸福だけを求めるのではなく、公的領域における世界全体の幸福を求める生き方が要請されることになる。この流れは基本的に正しい。この流れに逆らって私的領域に閉じ籠り続けるエゴイズムの罪にはやがて然るべき罰が下されるに違いない。しかし、誰がどのようにして罰を下すのか。もしエゴイズムの糾弾者が「大きな物語」の名の下に「小さな物語」に固執する人たちを罰するのなら、それは 極めて危険なことではないか。勿論、そのような処罰は「大きな物語」本来の機能ではない。しかし、「大きな物語」に魅せられる人は悪霊に憑かれる運命にある。その不可避の運命を私は問題にしたい。
「大きな物語」をめぐる罪と罰(4)
「大きな物語」は天下国家を論じる大言壮語とは本質的な関係がない。従って、厳密に言えば、革命の物語も「大きな物語」ではない。この点、私は大きな誤解をしてきた。これまで私は単純に、「小さな物語」は私的領域に、「大きな物語」は公的領域に、それぞれ織り出されるものと考えてきた。しかし、人生における私的領域と公的領域は共に水平の次元に属するものであり密接に関連している。それ故、二つの領域が絡み合って「小さな物語」を構成すると理解すべきだろう。「大きな物語」は二つの領域を超越しており、その関係を是正する機能を果たす。ただし、「是正」という言葉が適切かどうかは不明であり、「大きな物語」の機能は極めて複雑だ。正にそこにドラマが生まれると言っても過言ではない。人は個人の私的な生の充実のために生きる。当然のことだ。エゴイズムは正しい。しかし、人生にはエゴイズムを超越して何かをしなければならぬカイロスが生じる。それを「私的なものを犠牲にして公的なもののために生きる瞬間」と言っては身も蓋もないが、単なる滅私奉公ではない何かがあるに違いない。例えば、落語「文七元結」における長兵衛の決断。その解釈は様々だが、私はそこに「大きな物語」の受肉を見出す。それが長兵衛の「小さな物語」をドラマにする。勿論、「大きな物語」を無視してエゴイズムに徹することも可能だろう。すなわち、文七を見殺しにすることだ。しかし、長兵衛は絶望する文七を見て見ぬ振りをして通り過ぎることなどできなかった。たとい長兵衛に「大きな物語」の自覚がなくても、そこには罪の意識はあった。それこそが「大きな物語」の機能ではないか。「大きな物語」は水平の次元の何処にもない。されど、その受肉の可能性は「小さな物語」の展開に常に胚胎している。
「大きな物語」をめぐる罪と罰(3)
私は「小さな物語」を軽蔑していた。
Waga gotoki yono tsunebito wa,
Modaesezu,
Metorite, umite, oite, shinubeshi!
(土岐哀果『NAKIWARAI』)
私は「大きな物語」に憧れていた。しかし、「大きな物語」とは何か。若気の至りで私は非凡な人生と混同していた。平凡に学校を卒業し、平凡に就職し、平凡に結婚して、平凡に子供が生まれ、平凡に家庭を築き、平凡に老いて、平凡に死んでいく――そんな「小さな物語」とは全く別の、もっとワクワクする、血沸き肉躍る非凡な人生を私は夢見た。実際、非凡な才能に恵まれた人は様々な分野で多くの人から注目される偉業を成している。それは確かに非凡な人生だ。しかし、「大きな物語」ではない。非凡な人は実に大きな仕事を成し遂げる。それは事実だが、その華麗な人生に「大きな物語」はない。非凡な人生と「大きな物語」は質的に全く異なっている。尤も、これは凡庸でしかない私の自己正当化による歪んだ認識だと見做されても仕方がない。もし私に非凡な才能があれば、私はおそらく自分の特別な人生を「大きな物語」だと信じて疑わなかっただろう。たといそれが洞窟の壁に映る幻影だとしても、非凡に生きているという充実はある。ゲームなどの仮想空間にもそれなりの充実があるように。私はそうした充実を否定するつもりはないが、「大きな物語」による充実とは厳密に区別すべきだと思う。少なくとも、非凡な人生は平凡な人生より「大きな物語」に近い、ということは原理的にあり得ない。どちらも「小さな物語」だ。「大きな物語」との接点は人生の平凡とか非凡とは関係がない。勿論、日常生活において非凡な人たちの華麗な人生に憧れるということはある。かく言う私にも天才への憧憬はある。しかし、その憧憬故に、平凡な「小さな物語」を軽蔑し続ける限り、私は永久に「大きな物語」とは無縁に生きることになるに違いない。平凡に生きようと、非凡に生きようと、それぞれの「小さな物語」には「大きな物語」と出会うカイロスがある。私にとって、そのカイロスを無視して生きることは罪だ。それにも拘らず、私はこれまで罪を重ねてきた。今の生きることの寂しさもその罰に他ならない。
「大きな物語」をめぐる罪と罰(2)
年末年始、バーやクラブで働く水商売の女たちの中には不意に自殺に走ってしまう人が少なくないと言う。何故か。不倫相手の男たちが皆、それぞれの家庭に戻ってしまうからだ。そんなことを話している場面が或る映画にあった。その真偽は定かではない。水商売の女と不倫を結び付けるのは短絡的な偏見だが、自殺に走る女たちの寂しさは真実だと思われる。咳をしてもひとり。それに対して、男たちが戻る家庭はさぞかし賑やかなものだろう。一家団欒、皆でクリスマスケーキを食べる。翌朝は枕元に置かれたプレゼントを見つけた子供たちの歓声で目が覚める。こうした「家庭の幸福」もまた真実だ。それなのに何故、不倫する男がいるのか。「家庭の幸福」の真実では満たされないのか。また、自殺に走る寂しい女にしても、どうして「家庭の幸福」を積極的に得ようとしないのか。寂しい女も賑やかな家庭のある男も「小さな物語」を生きていることに変わりはない。勿論、そこには様々な個人的事情がある。職業に貴賤はないと言いながら、水商売に流れていく女にはそれなりの特別な事情があるに違いない。しかし、如何なる事情があろうとも、重要なことはそれぞれの「小さな物語」を可能な限り真剣に生きることではないか。例えば、「家庭の幸福」が「小さな物語」のクライマックスであるならば、そこに至るドラマのリアリティが問われることになる。先述の自殺に走る寂しい女と賑やかな家庭のある男の対比で言えば、どちらの「小さな物語」にドラマとしてのリアリティがあるか。私は寂しい女の方だと思う。男がすでに「家庭の幸福」に安住していることは事実だが、「家庭の幸福」を切実に求める女の寂しさに私は激しく共感するからだ。そこには「家庭の幸福」に安住する男の人生にはない「大きな物語」への可能性が垣間見られる。
「大きな物語」をめぐる罪と罰
幸か不幸か、私は結婚しなかった。若い頃、全く結婚に興味を示さない私に「今は平気かもしれないけど、年齢を重ねると寂しくなるぞ」と父はよく言ったものだ。母も同様に心配をして、事あるごとに結婚を促した。その父も母もすでに鬼籍に入り、私は父の予言通りの寂しい日々を過ごしている。殊に年末が近づくと、幼い頃の賑やかな家族団欒を思い出す。父がいて、母がいて、兄がいて、私がいる。九つ違いの兄は今も健在だが、自分の家庭を持って遠くで暮らしている。私は一人きりになってしまった。冒頭に「幸か不幸か」と述べたが、今は間違いなく結婚しなかった不幸、と言うより自分の新たな家庭をつくらなかった不幸を嚙み締めている。しかし、これも私自身が選んだ道だ。誰に強制されたわけでもない。私としても別に結婚を拒絶するつもりはなく、愛する人と共に暮らす幸福を夢見たこともあるが、私は常に「自分の問題」を優先した。結婚して、自分の家庭を築いていくことが「小さな物語」だとすれば、私は「大きな物語」の探究に憑かれていた。そのこと自体に後悔はない。しかし、そのために「小さな物語」を精一杯生き抜くことをしなかったことは私の罪だ。私には夫婦で苦楽を共にしながら「対幻想」を育てていく経験がない。子育ての苦しみも喜びも知らない。私はただ「自分の問題」だけに没頭してきた。それが自分の幸福だと思ってきたが、実に寂しい幸福だ。もとよりこの現実からもはや逃れる術はないが、これも「小さな物語」を蔑ろにしてきた罰だと自戒している。私はもっと真剣に自分の「小さな物語」を生きるべきであった。そのことなくして「大きな物語」の探究などあり得ない、と今にして思う。その点について、更に深く思耕したい。
補足:大きな物語
環境破壊の阻止と経済発展は両立しない。あれか、これか。環境破壊はゾーエーの死、すなわち全てのイキモノとガイアの死に通じることを思えば、選択の余地はない。されど環境よりも経済を優先させる人を熱狂的にリーダーとして支持する人たちの力は増している。この支持者たちはアホなのか。たといそうだとしても、経済発展を優先させる人たちもそれなりの「論理」によって「小さな物語」を織り出そうとしている。その現実を無視することはできない。経済が発展して収入が増える。色々な欲しいものが買えて、快適な家にも住むことができる。休日には旅行を楽しんで、ノンビリと過ごせる等々。こうした水平的充実を求める「論理」はビオス中心の「小さな物語」を織り出していく。しかし、水平的充実を求める「論理」はそれだけではない。経済発展に背を向けて、自然環境に即した生活に充実を求める「論理」がある。自動車もテレビもスマホもいらない。便利な機械や電子機器などなくても、豊かな自然さえあれば十分幸福に生きていける。それはゾーエーを中心にした充実だと言える。そこにビオスの次元がないわけではないが、ビオスはあくまでもゾーエーの充実を補完する二次的なものにすぎない。勿論、ゾーエーとビオスを截然と分離するのは不可能であり、両者は密接に絡み合っている。しかし、どちらを中心に生きるかによって二つの水平的充実を考えることは可能ではないか。すなわち、経済発展によるビオス中心の水平的充実と自然環境に即したゾーエー中心の水平的充実だ。前者がパラダイスを求める「小さな物語」だとすれば、後者はアルカディアを求める「小さな物語」と言ってもいいだろう。果たして、どちらの物語を生きるべきか。先述したように、環境破壊を等閑視するパラダイスの「論理」としての脆弱性は明白だ。さりとて経済発展を黙殺するアルカディアも「論理」として未熟だと言わざるを得ない。パラダイスか、それともアルカディアか。今のアメリカのように、世界は分断を余儀なくされるのであろうか。そうした分断の危機に要請されるのが「大きな物語」に他ならない。パラダイスにせよ、アルカディアにせよ、そこに「大きな物語」が受肉することで「世界の分断」という危機は克服される。私はそう信じたい。「大きな物語」の受肉と包摂。それぞれの「小さな物語」はそのカイロスを待ち望む。
補足:小さな物語
ヒトは野生を生き、人は「小さな物語」を生きる。「小さな物語」は小説と言ってもいい。大説ではない。トルストイの大河小説やドストエフスキイの大長編も「小さな物語」に他ならない。ただし、優れた小説には必ず「大きな物語」が受肉する可能性が胚胎している。それは作品の長短に拘らない。受肉は一瞬の出来事だからだ。重力との闘いが主要なテーマである「小さな物語」にとって「大きな物語」は恩寵とも言うべきものだが、その受肉の瞬間はひたすら待ち望むしかない。勿論、「小さな物語」を懸命に織り出しながら。人として誠実に生きる。その誠実さを支える「論理」は人それぞれ異なるが不変ではない。「論理」は成長する。ゾーエーの本能が基本になるとしても、それを踏み越えるビオスの「論理」が「小さな物語」を成熟させていく。しかし、その成熟が「大きな物語」の受肉というカイロスを迎えるかどうかは定かではない。おそらく、水平的成熟に終始する「小さな物語」もあるだろう。それはそれで素晴らしいドラマだと思うが、私は敢えて垂直的成熟を求めたい。そこにこそ「小さな物語」の真のドラマが生ま れると信じているからだ。