「大きな物語」をめぐる罪と罰(5) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

「大きな物語」をめぐる罪と罰(5)

どうして私はかくも執拗に「大きな物語」に拘るのか。端的に言えば、「大きな物語」がもたらす罪と罰に究極的な関心があるからだ。私的な生の充実だけを求める「小さな物語」に閉じ籠る罪と罰も無視できないが、それは二次的なものにすぎない。「大きな物語」の危険性の方が遥かに重要だ。しかし一般的には、現状認識は正反対かもしれない。実際、「大きな物語」など意識することなく自らの「小さな物語」に没頭している人が大半だろう。そうした人たちのエゴイズム、すなわち気候変動や経済格差といった公的問題を他人事として無視する方がよほど罪深い。従って、私的領域における個人の幸福だけを求めるのではなく、公的領域における世界全体の幸福を求める生き方が要請されることになる。この流れは基本的に正しい。この流れに逆らって私的領域に閉じ籠り続けるエゴイズムの罪にはやがて然るべき罰が下されるに違いない。しかし、誰がどのようにして罰を下すのか。もしエゴイズムの糾弾者が「大きな物語」の名の下に「小さな物語」に固執する人たちを罰するのなら、それは極めて危険なことではないか。勿論、そのような処罰は「大きな物語」本来の機能ではない。しかし、「大きな物語」に魅せられる人は悪霊に憑かれる運命にある。その不可避の運命を私は問題にしたい。