補足:大きな物語 | 新・ユートピア数歩手前からの便り

補足:大きな物語

環境破壊の阻止と経済発展は両立しない。あれか、これか。環境破壊はゾーエーの死、すなわち全てのイキモノとガイアの死に通じることを思えば、選択の余地はない。されど環境よりも経済を優先させる人を熱狂的にリーダーとして支持する人たちの力は増している。この支持者たちはアホなのか。たといそうだとしても、経済発展を優先させる人たちもそれなりの「論理」によって「小さな物語」を織り出そうとしている。その現実を無視することはできない。経済が発展して収入が増える。色々な欲しいものが買えて、快適な家にも住むことができる。休日には旅行を楽しんで、ノンビリと過ごせる等々。こうした水平的充実を求める「論理」はビオス中心の「小さな物語」を織り出していく。しかし、水平的充実を求める「論理」はそれだけではない。経済発展に背を向けて、自然環境に即した生活に充実を求める「論理」がある。自動車もテレビもスマホもいらない。便利な機械や電子機器などなくても、豊かな自然さえあれば十分幸福に生きていける。それはゾーエーを中心にした充実だと言える。そこにビオスの次元がないわけではないが、ビオスはあくまでもゾーエーの充実を補完する二次的なものにすぎない。勿論、ゾーエーとビオスを截然と分離するのは不可能であり、両者は密接に絡み合っている。しかし、どちらを中心に生きるかによって二つの水平的充実を考えることは可能ではないか。すなわち、経済発展によるビオス中心の水平的充実と自然環境に即したゾーエー中心の水平的充実だ。前者がパラダイスを求める「小さな物語」だとすれば、後者はアルカディアを求める「小さな物語」と言ってもいいだろう。果たして、どちらの物語を生きるべきか。先述したように、環境破壊を等閑視するパラダイスの「論理」としての脆弱性は明白だ。さりとて経済発展を黙殺するアルカディアも「論理」として未熟だと言わざるを得ない。パラダイスか、それともアルカディアか。今のアメリカのように、世界は分断を余儀なくされるのであろうか。そうした分断の危機に要請されるのが「大きな物語」に他ならない。パラダイスにせよ、アルカディアにせよ、そこに「大きな物語」が受肉することで「世界の分断」という危機は克服される。私はそう信じたい。「大きな物語」の受肉と包摂。それぞれの「小さな物語」はそのカイロスを待ち望む。