物語の摸索(4)
ライオンがシマウマを食う。生きるためにシマウマを食い殺す。その光景をテレビのドキュメンタリイで目にした無垢の少女が「シマウマさん、かわいそう…」と呟く。「かわいそうだけど仕方がない。これが世の中の真実なんだ」と傍らの父親が少女の頭を撫でる。少女は「世の中の真実は残酷なものだ」と思い、残酷な世の中で生きていくことに不安を覚える。こうした不安の学習は人生に不可欠だ。真実を知ることなく生きることは不可能だろう。たとい恵まれた環境で不都合な真実から遠ざけられて生活することが可能だとしても、そんな幸福に生きる意味はない。しかし、真実を知ることが不可避だとしても、そこには未だ人生の物語はない。真実を知ることは言わば物語の前提であって、真実と共に生きる不安から物語は生まれる。例えば、先の少女は「ライオンは生きるためにシマウマを食う」という真実に直面せざるを得ないが、「シマウマさん、かわいそう…」という思いは残る。そして、そのいたいけな思いから「かわいそうなシマウマさんを何とかして残酷な真実から救ってあげたい」と願う。正にその願いが「ライオンとシマウマが仲良き友になって抱擁する」という物語を夢見る。勿論、その夢物語は真実に反する。寓話として少女の不安を暫時癒すことができても、シマウマがライオンに無惨に食い殺されるという真実は微動だにしない。夢物語にリアリティはない。しかし、少女が人生に必要とするのは「ライオンとシマウマの抱擁」という物語ではないか。その物語にリアリティは不可能か。「ライオンは生きるためにシマウマを食う」という真実から目を背ける夢物語ではなく、その真実の凝視から「ライオンとシマウマの抱擁」という真理を生み出す物語は不可能か。所詮、私が摸索しているのは不可能な物語にすぎないのか。