「小さな物語」が要請する「大きな物語」(10)
歪んだ「大きな物語」は個々の「小さな物語」を抑圧するが、真の「大きな物語」は「小さな物語」を包摂する。ただし、その包摂は「大きな物語」が「小さな物語」に受肉することと逆対応しなければならない。尤も、「包摂と受肉の逆対応」と言っても抽象的で理解不能であろう。それは「超越と内在の逆対応」と言うに等しく背理を孕んでいる。しかし、背理は論理を排除しない。余談ながら、私は性懲りもなく日々テレビドラマを観続けているが、その殆どが下らないものばかりだ。と言うより、ドラマになっていない。何故か。ドラマを成立させる論理が欠如しているからだ。勿論、「何も起こらないドラマ」というものもあるが、大抵のドラマに事件は不可欠だ。例えば、殺人事件が起きる。犯人はどうして人を殺したのか。この世知辛い世の中、嫌な奴は巷に溢れている。かく言う私も誰かにとって嫌な奴なのかもしれない。実際、「殺してやりたい!」と思ったり思われたりするのは日常茶飯事だ。物騒な話だが、誰かを殺す理由は世界に渦を巻いている。しかし、現実に殺人を犯す人は稀だ。「殺す理由」があっても、それが「殺人の論理」にまで発展するとは限らないからだ。鄙見によれば、殺人事件のドラマは「殺す理由」と「殺人の論理」の間で生じなければならない。ところが、昨今の下らないドラマでは日常的な「殺す理由」の段階で殺人事件が起きてしまう。ドラマになっていない所以だが、こうした問題は人生についても言えるのではないか。私は先に「何も起こらないドラマ」というものもあると述べたが、何も起こらなくてもドラマである以上、そこには「論理」が必要だと考えている。言わば、何も起こらない「論理」だ。もはや誤解はないと思うが、事件らしい事件がないから「小さな物語」で、大きな事件が生じるから「大きな物語」だという区別は成り立たない。大きな事件があっても「小さな物語」であることに変わりはない。世界を劇場と見做し、人生にドラマを求めることと事件の有無・大小とは本来無関係だ。人が生きる。人生をドラマとして意識的に生きるかどうかに拘らず、そこには「論理」が要請される。「論理など無用だ、俺は自然にありのままに生きていく」と主張する人もいるかもしれないが、それも「論理」だ。更に言えば、私がここで問題にしている「論理」は単なる自然法則でもなければ合理性でもない。その人固有の生きるロゴスであり、ゾーエーの理由を超えるパトスでもある。人生のドラマはビオスにおいてロゴスとパトスが鬩(せめ)ぎ合う「論理」から成っている。従って、ゾーエーの理由で殺人を犯すことがあっても、そこに真のドラマは未だない。ヒトは本能(ゾーエーの理由)で生きるが、人は「論理」で生きる。どんなに非理性的な野蛮人でも、人として生きる以上、彼なりの生きる「論理」がある。例えば、ヤクザにはヤクザの「論理」がある。ヤクザ自身は「美学」と称するかもしれないが、それは醜悪な自己正当化にすぎない。ヤクザの「論理」は未熟な「論理」でしかないからだ。「論理」は成長する。そして、その成長する「論理」が「小さな物語」を織り出していく。当然、人それぞれ「論理」の成長は様々であり、それが「小さな物語」の多様性を生み出すことになる。しかし、その多様性にも拘らず、人の生きる「論理」は背理に直面する瞬間に襲われるのではないか。少なくとも私にとって、それは究極的で不可避な瞬間であり、その「永遠のアトム」を通じて「小さな物語」は「大きな物語」に包摂されていく。冒頭に述べたように、この包摂は「大きな物語」の「小さな物語」への受肉と逆対応すべきなのだが、結局、私の思耕は抽象的な堂々巡りから抜け出せないでいるようだ。下らないドラマを批判する資格など今の私にはない。