「小さな物語」が要請する「大きな物語」(7)
本日は憂国忌だ。大学生の頃に一度だけ憂国忌に参加したことがある。会場がどこだったか、もうすっかり忘れてしまったが、飯田橋の駅から歩いて行ったことだけ覚えている。道に迷いながらも何とか会場に辿り着いたものの、その雰囲気に驚いた。日の丸の鉢巻きをして戦闘服のようなものを身に着けている若者たちの群れが際立っていた。高名な文芸評論家の姿もあって、何か難しいことを話していたように思うが、そんな話など一切耳に入らず、ただただその場の雰囲気に圧倒されていたことを思い出す。何かが違う。ここには致命的な誤解が渦巻いている。私には違和感だけがあった。それは如何なる違和感であったのか。私は憂国忌に集った日の丸の若者たちの情熱が偽りだとは思わない。それもまた作家の檄に激しく共感する情熱であったに違いない。しかし、やはり何かがズレている。余談ながら、作家が東大全共闘と討論した際、「君たちが天皇と言えば、私も共に闘っただろう」と発言した。鄙見によれば、日の丸の若者たちも全共闘の若者たちも「日本も世界もこのままでは駄目だ!」という危機感において共通している。どちらも現代社会においてはアウトサイダー(異族)に他ならない。しかし、実際には右と左に分かれている。分岐点は何か。作家は天皇だと言う。では、天皇とは何か。私は「大きな物語」だと考えている。ただし、それは戦前の「天皇を中心とした八紘一宇」というような「大きな物語」ではない。むしろ、そうした古き「大きな物語」をディコンストラクションする新しき物語こそが求められている。性懲りもなく私はそう思い続けている。