「大きな物語」をめぐる罪と罰(9)
相変わらずドラマを大量に観続けているが、ネットに配信されているものは殆ど倍速再生している。時間の節約のためだが、中にはどうしてもノーマルの速度で観たいドラマもある。また録画した映画やドラマは観終わった後に消去しているが、中には残しておきたい作品もある。繰り返し観たいからだ。古典落語などもそうだが、噺の内容は既によく知っているのに、どうして同じ噺を繰り返し何度も聴きたくなるのか。勿論、噺家の力量ということはある。名人の何度も聴きたくなる「芝濱」もあれば、もう二度と耳にしたくない「芝濱」もある。しかし、そうした話芸の優劣は別にして、「芝濱」という「小さな物語」には反復に堪える物語としての力がある。その力とは何か。「大きな物語」の力だと私は考えている。ただし、それによって「芝濱」が「大きな物語」になる、ということではない。「芝濱」はどんな名人が演じても「小さな物語」以上のものではない。しかし、様々な噺家の創意工夫を通じて、その「小さな物語」に感動が生まれるとすれば、それこそが「大きな物語」の受肉に他ならない。話芸にせよ、ドラマの演出にせよ、その名人芸は「大きな物語」の受肉をもたらすことではないか。もとより、そのような受肉は極めて稀だ。しかし、皆無ではない。そう信じて、私は受肉のカイロスを求めて日々ドラマを観続けているが、一つ気づいた問題がある。それは「大きな物語」の受肉とそれを擬した悪霊の憑依との差異だ。それを識別する明確な基準はなく、私はしばしば翻弄されている。例えば、次のような「ナチスの神話」。
「ここに国家的政治生活は彼ら(ナチス)の新しい世界創造の活動圏であり、これを中軸として新しい世界観が構成せられるのである。その結果、近代精神とは異なり、国家は単なる、一つの強力組織や権力機構ではなく、むしろ有機体的全体としての民族の統一的組織形態――正確には「民族共同体の最高の組織的現象形態」――として把握せられる。それは個々人またはその多数の利益と幸福とを保護し、社会の秩序を維持するための社会的形成物ではなくして、民族の精神生活の維持発展を図り、種族の保存と純化とをその最高使命とする、民族の創造である。けだし、近世「シュタート」の概念よりも広く、且つ、深い概念であって、むしろドイツ固有の「ライヒ」に該当し、有機体的統一として民族そのものの理念と合致するものである。」(南原繁「ナチス世界観と宗教」)
この「ライヒ(第三帝国)の神話」には明らかに「小さな物語」からの逸脱がある。されど、それは「大きな物語」の受肉ではない。それにもかかわらず、私も含めて、多くの人を魅了する魔力がある。更に恐るべきことは、その魔力と「大きな物語」は決して無関係ではない、という事実だ。むしろ、表裏一体なのかもしれない。ソドムの悪徳はマドンナの理想と共に「大きな物語」の罪と罰を演出する。