垂直に生きる(6)
垂直に生きる人が一人でも多くなる社会を求めているが、私は水平に生きることを貶めるつもりはない。むしろ、水平に生きることが現実に生きることであり、それが人生の基本だと思っている。或る意味、水平に生きる以上のことは人生にあり得ないとも考えている。少なくとも俗世に塗れる水平の生活を厭い、人里離れた聖域に隠遁することは私の本意ではない。俗なるものを忌避する聖なるものに垂直性はないからだ。垂直の生と水平の生活との対比に聖道門と浄土門の別を読み込むことは可能だが、両者を二元論的に分離すべきではないだろう。そもそも人が垂直に生きる場は「何処にもない場」(ユートピア)であり、その力が水平に生活する場所を如何にして理想としていくかが問題なのだ。当然のことながら、水平なくして垂直なし。逆もまた然り。場所と場という次元の違いはあるものの、水平の生活に垂直の生が受肉する瞬間を私は求める。それは如何なる瞬間なのか。
垂直に生きる(5)
水平人にも生活の苦しみはある。天災にせよ人災にせよ、人生に災いは避けられない。生来の障害、病気、失恋、受験の失敗、思いがけない事故やパンデミックに巻き込まれることもあるだろう。順風満帆の人生などあり得ない。誰しも死にたくなるような絶望に苛まれる時がある。不条理な情況にもう自分一人ではどうすることもできないと行き詰った瞬間、人は水平の次元を超えて神に祈る。どうか助けて下さい!この最後の救いを求める悲痛な叫びが宗教の次元を切り拓く。結果、日常的に生活している水平の次元よりも宗教的次元の方が尊いと信じ込み、神への祈りを中心に生き始める人もいる。では、その人は水平人から垂直人へと「進化」したのであろうか。一般的にはそう見做すこともできる。しかし、私は違うと思う。宗教的次元は垂直の次元ではない。質的に全く異なる。神の言が経典となり、それを中心に形成された教団が発展すればするほど、その宗教は水平の次元で「見えるもの」と化して大きな権力(権威)を増していく。そのように実定化された宗教は明らかに水平の次元の産物だ。垂直性とは関係がない。むしろ、「見えるもの」としての宗教の否定が垂直人への一歩となる。ただし、それは「見えないもの」に殉じることではない。垂直に生きる力は「見えるもの」と「見えないもの」との間の反復運動を要請する。そのドラマをいつか書いてみたい。
垂直に生きる(4)
水平人の生活と意見。「国家、少なくとも政府に垂直性は要らない。重要なのは国民それぞれの私的領域の充実であって、政府の役割はそれを可能な限り支援することにある。それ以上を望むべきではない。公的領域というものも個々の私的領域を支援するためにのみ存在する。間違っても私的領域を犠牲にして尽くすようなものではない。垂直性なんてものは人が生活するのに余計だ。垂直性を求める純文学も考え過ぎのインテリだけが必要とする悲しき玩具にすぎない。私的領域を楽しませる大衆小説だけで十分だ。芸術は娯楽に勝てない。人は何のために生きるか。そんなことは誰にもわからない。生の意味を問うよりも、生を楽しむべきだ。確かに世界は歪んでいる。日常生活をただ楽しみたいだけなのに、不条理にも戦争や災害が起きる。自然による災害は仕方がないとしても、戦争や犯罪などの人災による歪みは皆で力を合わせてなくさなければならない。そこに公的領域の使命がある。それは世界を水平化する使命に他ならない。私は穏やかに水平化した世界の実現を切望する。」
水平に生きる。それも一つの生き方だ。いや、それこそが理想なのかもしれない。竪超に対する横超。全世界の人が皆、水平に生きる。そうすれば確かに戦争のない、貧困のない、平和で豊かな世界が現出するだろう。しかし、本当にそれが究極的な理想なのか。水平世界の理想に抗して、敢えて垂直に生きようとする力は何か。
垂直に生きる(3)
人は誰しも「歪みのない世界」を待ち望む。戦争のない、貧困のない、平和で豊かな世界の実現を求める。しかし、単に歪みの解消だけが問題であれば、その実現はそんなに難しくはない。例えばロシアの完全支配を容認すれば、ウクライナに歪みはなくなり直ちに平和が実現し、経済もやがて好転するだろう。こうした意味における「歪みのない世界」を私は「調和の国」と理解している。ロシアでもアメリカでも中国でもいい。圧倒的に強大な一国の支配が確立すれば、その世界は「調和の国」になる。勿論、心ある人はそのような「大審問官の論理」による「水平的調和」に反抗するに違いない。長い物に巻かれるな!ウクライナの人たちにとってそうであるように、香港や台湾の人たちにとっても大国の支配によって「歪みがなくなること」自体が歪みになる。ところが、最近テレビで観たウクライナの現状を報じるドキュメンタリイによれば、「やはり長い物には巻かれた方が無難だ」と思う若者が増えているそうだ。極端な少数意見かもしれないが、「自分はファッションデザイナーになりたいので、将来は外国に移住するつもりだ。だからウクライナの領土がロシアに奪われる結果になっても別に構わない。一日も早く戦争が終わる方がいい」と語る若者さえいた。それを傍らで聞いていた親は「お前がそんなことを平気で言うのは悲しい」と呟いた。「身捨つるほどの祖国」が子にはもはやないが、その親には未だある。この差異は何か。子は自分の「私的領域」にしか関心のない水平人であるのに対し、親は「公的領域」の大義を頑なに信じている。水平人にとっては自らの個人的幸福が満たされる場所がパラダイスなのであって、そこが祖国である必然性はない。大国がパラダイスを与えてくれるのなら、それでもいい。喜んでその支配を受け容れる。今後、ウクライナの人たちがどのような選択をされるのか定かではないが、これは決して他人事ではない。私個人としては「調和の国」に屈したくはない。さりとて戦争も嫌だ。確かに「水平的調和」に対する直接的反抗は戦争に通じている。しかし、私はそこに垂直性を認めない。もとより「私的領域」を至上のものとして生きる水平人にはなりたくないが、「私的領域」を犠牲にして「公的領域」の大義に殉じることが私の求めている「垂直に生きる」ことではない。日本が実際に侵略されれば、私も無抵抗ではいられないだろう。では、「調和の国」への不服従は如何なる抵抗を生み出すか。実に難しい問題だが、私はその抵抗において垂直人でありたいと願っている。そして、戦場には垂直人はいない。
垂直に生きる(2)
3.11が今年も巡ってきた。あの日、世界は歪んだ。その歪みのせいで実に多くの人たちが絶望の淵に立たされた。しかし、あれは本当に歪みであったのか。三陸沖で海が大きなくしゃみをしただけではないか。おそらく、そのくしゃみを「世界の歪み」として経験するのは人だけだろう。問題は世界に生じる現象(見えるもの)を歪みとして経験する人の意識にある。ライオンがシマウマを食う。これは歪みであろうか。弱肉強食の世界それ自体は何ら歪んでいない。ライオンに食われることを恨む意識にシマウマが苦しむ時、あるいはシマウマを食うことを悲しむ意識にライオンが苛まれる時、その世界に歪みが生じる。しかし、そのような意識が双方に生じることはない。だからシマウマやライオンの生きる世界に歪みはあり得ない。人もウシやブタなどを食うが、一般的にはそこに歪みは生じない。ただヴィーガンのような人たちにとってのみ「肉食の享受」が歪みとして経験される。当然、「菜食の享受」さえ歪みとする人はいるだろうが、そこまでの論理の徹底は生きることを不可能にする。生きていくためには何処かで「世界の歪み」と折り合いをつけねばならない。その「折り合いの場所」は何処だろうか。海がくしゃみをして不幸のどん底に突き落とされても、どういうわけか海を恨む人はいなかった。愛する人を亡くし、住み慣れた家を失う。その過酷な現実に「世界の歪み」を意識するならば、それは如何にして克服されるのか。海を恨んでも仕方がない。喪失の現実から目を逸らすことなく、人は黙々と復興に向かう。しかし、家は再建できても、愛する人は甦らない。「見えるもの」の復興には限界がある。全てが元通りになるわけではない。ヨブは苦難の末に財産が倍増して新たな子孫にも恵まれたが、その幸福は復旧(後向きの運動)によるものではなく、あくまでも反復(前向きの運動)によるものであった。いくら街が復興しても、「世界の歪み」に苦悩する意識はなくならない。歪みを一つの病だと解するならば、カミュが言うように「重要なことは病から癒えることではなく、病みつつ生きることだ」。世界は歪んでいる。「世界の歪み」を意識する人がいる。人は「歪みのない世界」の実現を希求するが、それは歪みの解消ではなく反復であるべきだ。そして、その運動は垂直に生きる力(見えないもの)を要請する。
垂直に生きる
世界は歪んでいる。皆、そう思っている。甘い汁を吸っている特権階級の奴等も例外ではない。むしろ、誰よりも世界の歪みを意識し、それを利用し尽くそうとしている。既得権という甘い汁は世界の歪みから分泌する。それ故、心ある人たちは世界から歪みをなくそうと試み、その努力は今も続いている。しかし、「世界の歪み」とは何か。神がこの世界を創造したのなら、本来そこに歪みなど生じない筈だ。完璧であるべき世界にどうして歪みが生じるのか。宗教はその答えを人の原罪に求めた。「世界の歪み」は神ではなく、人が負うべきものだ。世界に歪みをもたらしたのは人であって、神に責任(罪)はない。私は特定の宗教を称賛も非難もしないが、無罪の神は神に値しないと思う。たとい「世界の歪み」の全責任は人にあるとしても、その罪とは無縁の神、全知全能の絶対神による歪みなき「調和の国」に救いを求めることはない。イヴァン・カラマーゾフと共に「調和の国」への入場券は謹んで神にお返しする。とは言え、世界は歪んだままでいいと思っているわけではない。「世界の歪み」は何としてでも克服せねばならない。ただし、 私の求める克服は「調和の国」に通じていない。明らかに論理が錯綜している。世界に歪みがなくなれば「調和の国」になるのは当然ではないか。「調和の国」こそ全世界の人たちが渇望している理想世界に他ならない。ところが、私は全く異なる理想社会を求めている。私はどこに向かっているのか。
補足:「見えないもの」の受肉
「純文学は面白くなくてもいい」と私は考えていない。純文学も言葉による「見えるもの」の創造である以上、面白くなければならない。ただし、その面白さは「見えるもの」だけではなく、本質的には「見えないもの」による快楽でなければならない。結局、問題は「見えるもの」の快楽(カイラク)と「見えないもの」の快楽(ケラク)という差異に収斂していくが、その二つを分離することはできないだろう。後者だけに耽溺しようとすれば、それは大衆の理解を超えた悪しき「シュルレアリスム」に陥る。勿論、シュルレアリスム自体が悪いわけではない。むしろ、現実(見えるもの)を超えようとする意志は不可避だ。しかし、現実から切り離された理想(見えないもの)は遊戯にすぎない。とは言え、理想は常に現実に汚され、切り崩され、堕落する。ならば、いっそ現実から遊離した方が理想は純粋に屹立するのではないか。遊戯結構。遊戯にこそ「ホモ・ルーデンス」としての人の本質がある。そう考えることもできる。そもそも水平的な大衆に理想など理解できる道理がない。関心さえないだろう。大衆は現実の快楽(娯楽)に遊んでいればいい。それを水平的遊戯と称するならば、単独者の理想の快楽追求は垂直的遊戯と理解できる。もとより両者は質的に全く異なっている。水平的遊戯は大衆小説を生み出し、垂直的遊戯は純文学に結実する。ただし、純文学の本質は垂直的遊戯にあるとは言え、その究極においては水平的遊戯を包摂すべきだ。それは文学の死、少なくとも純文学の「純」の死に他ならない。「見えないもの」の受肉。垂直的遊戯が「純」文学の往相だとすれば、その還相は水平的遊戯だ。かくして文学は死に至り、活動が始まる。
補足:「見えるもの」に溺れる
美しい女(ひと)がいる。美しく化粧をしている。美しく衣装を身に纏っている。では、化粧や衣装を剝ぎ取れば、その女は美しくなくなるのか。素顔や裸体がその女を「ありのままに見る」ということであれば、「ありのままの美」があるのか。それとも美は化粧と衣装だけにあるのか。美しい蝶と醜い蛾。「美しいもの」と「醜いもの」は生まれつき決まっているのか。ゴキブリに美しくなる可能性は皆無なのか。そもそも「美しくなる」とはどういうことか。余談ながら、以前にも言及したことがあるが、私の小学校時代の同級生に「オバケのような顔をした少女」がいた。生まれつきの病気で「オバケのような顔」をしていたが、誰もそのことで虐めたりはしなかった。むしろ、大事にした。あの心理は何だったのだろう。同情とも違う。憐憫とも違う。子供心に普通とは違う異形を見ていたことは間違いない。そして、その異形を「オバケ」と思った。しかし、その「オバケのような顔」は醜くなかった。美しくもなかったが、醜いとは思わなかった。子供の私たちは「オバケのような顔」を見ながら、そこに美も醜も見ていなかった。無垢とは畢竟そういうものではないか。勿論、無垢の歌はいつまでも続かない。それはやがて経験の歌に「成長」し、美と醜を見ることになる。単なる虫が嫌悪すべきゴキブリと化す。無垢が失われ、美と醜を見分ける経験が始まる「成長」は避けられない。しかし、その「成長」において様々なモノが見えてくるものの、それは「見えるもの」に溺れることの始まりでもある。
補足:「見えないもの」に溺れる
今月のETV「100分de名著」はエミール・デュルケームの『社会分業論』を読解しているが、その第二回は「自律的個人はこうして生まれた」と題するものであった。それによると自律的個人は近代化の産物であり、それ以前の人は社会の集合意識(慣習やしきたり)に無意識の裡に支配されていたそうだ。端的に「個人の問題は存在しなかった」と言ってもいい。すなわち、「人生、如何に生くべきか」という問題はその人が属する社会(階層)において予め決まっていて、個人として悩む必要はない。そのコミュニティで長年培われてきた伝統に従って人は生きればいいからだ。勿論、それは幼い頃からそれぞれの無意識に刷り込まれてきたものなので、伝統による支配は抑圧にはならない。むしろ人は伝統の下で、伝統に反しない限り、幸福に生活できる。しかし、幸か不幸か、伝統社会は崩壊し、近代社会が始まった。人は伝統の支配から解放され、何でも自由に決められる自律的個人になる。もはや頼るべき伝統はないが、科学技術を生み出す啓蒙理性がある。それは伝統社会の理不尽なものを悉く合理化し、社会は自律的個人にとって極めて快適な空間と化す。実際、スマホとコンビニさえあれば個人は自由に生活できるだろう。ところが、幸福な筈の自律的個人は自由に溺れ、今や深刻なニヒリズムに陥っている。確かに近代以降、社会は合理化され、人は個人として自由に生きることが理想とされた。未だ旧弊な伝統は残存しているとは言え、伝統的に固定された身分制度はなくなり、一応誰でもそれぞれの裁量に応じたパラダイスを求めることができる。しかし、その個人主義的なパラダイスの理想が様々な面で危機に瀕している。結果、自律的個人は「見えるもの」の幸福に虚しさを感じ、「見えないもの」に救いを求め始めている。それは失われた伝統であろうか。人が個人として何も考える必要のない伝統社会の幸福。「見えないもの」に溺れる人は藁にも縋る思いでそうした伝統社会への回帰を望むかもしれない。しかし、それは根源的に間違っている。
見えるものと見えないもの(10)
愚鈍な私に可能かどうかはさておき、自分の使命は「近代化」以降失われつつある垂直の次元をラディカルに立て直すことにあると信じている。それは「見えないもの」への究極的関心を世界に取り戻す使命でもあるが、私は決して「見えるもの」を軽視するつもりはない。むしろ逆だ。我々が現実に生活している水平の次元は「見えるもの」で構成されている。あらゆるモノが「見えるもの」で評価され、人は「見えるもの」で勝負する。どうしたら美しく見えるか。同じモノでも見せ方によって美しくもなれば醜くもなる。同じ話でも演出によって傑作にもなれば駄作にもなるように。ただし、「見えるもの」はやがて堕落する運命にあり、時に人の目を欺く。美しく「見えるもの」が本当に美しいとは限らない。あるいは、醜く「見えるもの」が本当に美しいこともある。人は誰しも醜悪な世界を憎み、美しき世界の実現を望む。しかし、「美しき世界」とは何か。或る種の人たちにとって、それはキレイゴトの世界でしかなく、醜悪な世界の方が魅力的な場合もある。今や「美しき世界」も多様性の時代を迎え、伝統的な美の概念は正に時代遅れになりつつある。果たして、これは望ましい流れであろうか。余談ながら、現在NHKで放送中の『東京サラダボウル』というドラマがある。東京に増え続けている様々な国からの人々の葛藤を描いたドラマだ。一つに溶け合う坩堝と違って、サラダボウルではそれぞれが独立して共存している。コリアンはコリアンの、ベトナム人はベトナム人の…という具合に、それぞれのコミュニティを東京に作っている。こうしたサラダボウル化は世界の理想だと言えるのか。保守的な人々は眉をひそめるに違いない。日本が日本でなくなっていく。移民排斥が確実に力を増している欧米と歩調を合わせ、日本もマイノリティが独自の存在性を主張していくことに危機感を強めている。かつての大日本帝国のように「日本人化」を強要することはないにしても、改めて「国民国家」の存在意義が根源的に問われている。日本は日本人が生活する場所だとしても、日本人とは何か。それは日本人として「見えるもの」に尽きない。日本という場所は絶えず「何処にもない場」、すなわち垂直の次元の「見えないもの」に揺り動かされる。理想の場所(理想世界)は「見えるもの」にならなければ現実化しないが、「見えないもの」なくして何も起動しない。