補足:円環の回復
人生の基本は円環だ。身体を駆け巡る血液などの循環もさることながら、「朝起きて昼活動して夜眠る」という生活リズムの繰り返しが健全な生を形成する。そうした円環の充実なくして人は生きられない。その意味において円環はゾーエーの本質だと言える。円環さえ健全に維持できれば、人のイノチは続いていく。逆に言えば、病気や事故(自然災害も含む)、更には老衰で円環が失われる時、人は死を迎える。だから医師などは傷ついた人の円環を必死に回復させようとする。勿論、円環を損なうのは病気や事故だけではない。自然的要因とは別に、虐めなどの悪意に満ちた人為的要因も円環を大きく傷つける。むしろ、人為的要因の方が深刻だろう。現代社会では、様々な要因が絡み合って円環が失われている。それは「居場所がない」という現象として世界を侵食する。家庭にも居場所がない。学校や職場にも居場所がない。そこで最近では「サードプレイス」としての居場所が注目されているが、その重要性を否定するつもりは全くないものの、やはり一時的な避難所にとどまるのではないか。たとい仮初の逃げ場所であったとしても、居場所を失った者にとっては救いの場所にはなる。しかし、失われた円環が真に回復される「再生の場所」ではない。戦争で居場所を失った人は言うに及ばず、ハウスはあってもホームがない人の「再生の場所」とは何か。それぞれの傷ついた円環の回復こそが喫緊の課題ではあるが、私はその先の問題を思耕せざるを得ない。確かに、円環の回復は傷ついたゾーエーを甦らせ、そこに居場所ができる。それは極めて重要なことだ。しかし、そこはビオスの居場所にはなり得ない。ビオスの本質は直線であり、それが回復された円環を破壊することにもなる。破壊と創造。円環と直線の葛藤は螺旋の運動を要請する。
補足:円環の腐敗
古くは田中正造の闘い、金儲けのために山を荒らし、川を汚す直線人に対する闘いが象徴しているように、名もなき人々の円環生活を守ろうとする闘いは至る所にある。崇高な闘いだ。何も特別な生き方をしようとしているわけではない。ホメラレモセズクニモサレズ、判で押したように淡々と生きる日日是好日。自然災害や病気でそうした日々が失われるのはどうしようもないが、それでも皆で互いに助け合って生きる。何処かに困っている人がいれば直ちに駆けつける。医師や消防士など、人の命を助ける能力のある人は言うに及ばず、これといった能力がなくても駆けつける。そうした善きサマリア人たちが円環の充実を生み出している。実際、全ての人が善きサマリア人のように生きることできれば、この世界は瞬く間に理想社会になるだろう。しかし、残念ながら現実は違う。善きサマリア人のように生きたくても、何かと忙しくてできない。何故そんなに忙しいのか。出勤時間に間に合わない。人生を左右する試験が受けられなくなる。恋人とのデートの約束時間が迫っている。結果、困っている人がいても、見て見ぬふりをして通り過ぎる。直線を生きることの忙しさ。既に多くの人がそのスピードに追われる生活に疑問を懐き始めている。そして、ゆっくりと時間が流れる円環生活に憧れている。では何故、直線のスピードライフから円環のスローライフへと世界は転じないのか。円環もまた腐敗するからだ。直線を慌ただしく生きることに疲れ切った人にとって、円環の充実が一時的な救いになることは間違いない。しかし円環は極めて保守的な、進化論を断じて認めない因循姑息な社会をもたらす運命にある。例えば、男性や白人優位の伝統社会。女性や黒人、更にはLGBTQの人権を認めるなんて、とんでもないことだ。ウーマンリブや人種差別撤廃の運動は徒に社会を混乱させただけではないか。円環は新しきことを認めない。必要ないからだ。社会は神が最初に定めた律法を厳格に遵守することによってのみ円満かつ完璧に維持される。円環の充実は救いであると同時に息苦しさや生きづらさも生み出す。かくして人は敢えて円環を破壊して、再び直線を生き始める。円環と直線との間の振り子運動。心ある人が円環と直線に引き裂かれるのは不可避だ。
補足:二兎を追う者にあらず
螺旋の理想などとカッコイイことを言っているが、所詮は円環と直線の「あれも、これも」という楽天的な空想ではないか。当然、そうした批判はあるだろう。私自身、その点は常に自戒している。確かに円環と直線は相反する理想であり、人生の現実においては円環と直線の「あれか、これか」の決断を迫られるのが現実だ。円環の充実を求めれば直線の充実を断念しなければならないし、直線の支配下では円環の信奉者は排除される。余談ながら、1992年に放送された『緒形拳のアマゾン紀行』というドキュメンタリイを観た。その中で、アマゾンの森を守ろうとするシコ・メンデスと開発業者との闘いが描かれていた。シコ・メンデスは開発業者の一味に暗殺されたが、森林保護の活動は今も続いている。アマゾンに限らず、こうした円環と直線の闘いは世界中で行われているが、経済至上主義に囚われたパラダイスの暴走に対する闘いこそ我々の喫緊の課題だという現状認識に異論はない。しかし、その闘いは果たしてアルカディアへの回帰に帰結するものだろうか。直線の充実を滅却する反成長・反開発にしか可能性はないのか。螺旋は円環と直線の「あれも、これも」ではなく、全く新しい可能性を切り拓く理想であると信じたい。
ユートピアの実現(10)
人が生きる。すると歪みが生じる。「未だないもの」を求めるからだ。歪みの根源には「自同律の不快」がある。現にある主辞の私とあるべき賓辞の私とのズレから分泌する不快。もとよりズレの程度は千差万別、「東大生になるべき自分となれない自分とのズレ」とか「アイドルのA子ちゃんと恋人になるべき自分となれない自分とのズレ」といった下らぬものもあれば、誰もが悩んでいる「幸せになるべき自分となれない自分とのズレ」という一般的なものもある。それらを低次元のズレとして蔑ろにすることはできない。ほんの小さなズレから極めて大きな犯罪が生じることもある。勿論、様々な社会改革(経済格差や教育格差の是正)によって或る程度ズレを小さくすることは可能だろう。しかし、どんなに社会福祉を充実させても、ズレは残る。世界を腐敗させている理不尽なズレの一掃を目指す水平革命は必要だが、社会の水平化によってズレを根源的に解消することは不可能だ。それにズレは世界に腐敗をもたらす元凶ではあるが、昨日より今日、今日より明日という直線的充実の原動力でもある。完全にズレが解消された円環(円満)生活の充実が理想であることは間違いない。誰もがその実現を願っている。殊に自然災害などで大きなズレに見舞われた時、直接的な被災者であろうとなかろうと、日常的な円環生活の一日も早い復興を望まぬ人はいない。しかし、それにも拘らず、円環は人を退屈させる。それも厳然たる事実だ。昨日と同じ今日、今日と同じ明日の繰り返し。永遠回帰の円環が完璧であればあるほど、人はやがて退屈する。そして、再び直線的充実を求め始める。円環的充実がアルカディアの理想だとすれば、直線的充実はパラダイスの理想であろう。鄙見によれば、世界はそうした二つの理想に引き裂かれている。戦争・貧困・環境破壊といった世界の腐敗が明らかにパラダイスの暴走によるものであることを考えれば、アルカディアへの回帰が世界を再生させる希望なのかもしれない。実際、地球に優しいスローライフとか「LOHAS」(Lifestyles of Health and Sustainability)の実践には大きな可能性が感じられる。その理念を中心としたコミュニティが世界中に広がっていくことを私も望む。しかし、アルカディアへの回帰はパラダイスの暴走を止められるだろうか。SDGsは重要だが、基本的にD(Development)を目指している限り、アルカディアへの回帰とは言えない。むしろパラダイスへの執著がより強く感じられ、何かブレーキをかけながらアクセルを踏み込んでいるような中途半端な危うさを禁じ得ない。何れにせよ、私は先に「円環と直線の婚姻」に言及したが、我々はその二つに引き裂かれながらも二つとも必要なのだ。そのように逆説を孕んだ未完のプロジェクトは如何にして成就するのか。正にそこに「ユートピアの実現」という究極的な問題があるのだが、それはアルカディアの円環とパラダイスの直線を婚姻させる螺旋の理想に他ならない。その具体的な実現に向けて、更に思耕を続けていきたい。
ユートピアの実現(9)
この春に始まった朝ドラ『あんぱん』はアンパンマンの生みの親・やなせたかし氏とその妻の物語だ。お二人の夫婦愛のドラマもさることながら、私はヒーローとしてのアンパンマンそのものに関心がある。不勉強でその絵本もアニメも目にしていないが、どうして子供たちはアンパンマンが大好きなのか。その理由をアニメの主題歌である「アンパンマンのマーチ」に探ってみたい。
「アンパンマンのマーチ」
そうだ うれしいんだ いきるよろこび
たとえ むねのきずがいたんでも
なんのためにうまれて なにをしていきるのか
こたえられないなんて そんなのはいやだ!
いまをいきることで あついこころもえる
だから きみはいくんだほほえんで
そうだ うれしいんだ いきるよろこび
たとえ むねのきずがいたんでも
あ あ アンパンマン やさしいきみは
いけ! みんなのゆめまもるため
なにがきみのしあわせ なにをしてよろこぶ
わからないままおわる そんなのはいやだ!
わすれないでゆめを こぼさないでなみだ
だから きみはとぶんだどこまでも
そうだ おそれないで みんなのために
あいとゆうきだけがともだちさ
あ あ アンパンマン やさしいきみは
いけ! みんなのゆめまもるため
ときははやくすぎる ひかるほしはきえる
だから きみはいくんだほほえんで
そうだ うれしいんだ いきるよろこび
たとえ どんなてきがあいてでも
あ あ アンパンマン やさしいきみは
いけ! みんなのゆめまもるため
言うまでもなく、作詞はやなせたかし氏本人だ。彼は「手のひらを太陽に」という名作も作詞しているが、両者に通底しているのは同じ思い、すなわち生命讃歌のヒューマニズムだ。そこにはやなせ氏の過酷な戦争体験(不条理な死を余儀なくされる情況への怒り)があるようだが、「何のために生まれて、何をして生きるのか、答えられないなんて、そんなの嫌だ!」とか「何が君の幸せ、何をして喜ぶ、わからないまま終わる、そんなの嫌だ!」という叫びの根柢には常に「嬉しいんだ、生きる喜び」というゾーエーそのものの輝き、「ミミズだって、オケラだって、アメンボだって、みんな、みんな、生きているんだ、友だちなんだ」という根源的生への信頼がある。私はここに「無垢の歌」を聞く。未だ主もなく客もない純粋経験としての「生の肯定」だと言ってもいい。あるいは、アリョーシャ・カラマーゾフの言葉を借りれば、「生の意味を問う以前に生を愛する」ことだ。しかし、残念ながら「無垢の歌」は永久には続かない。子供は成長して大人になり、やがて「経験の歌」が始まる。すると、「何のために生まれて、何をして生きるのか」とか「何が自分の幸せで、何をして喜ぶか」という実存的な問いは「嬉しいんだ、生きる喜び」という存在の根柢と分離され、生を愛するためには生の意味を問うことが不可欠になっていく。こうした一種の倒錯は近代の病であり、実存と存在が切り離されていない子供や未開人には無縁であろう。言い換えれば、「無垢の歌」は子供や未開人にのみ可能であって、大人になった現代人は否応なく「経験の歌」を最後まで歌い切るしかない。しかし、それは何を意味するのか。「無垢の歌」においては「何のために生きるのか、何が幸せか」という問いは「嬉しいんだ、生きる喜び」という答えと相即していた。その相即が失われた「経験の歌」においては、問いだけが風に吹かれることになる。結果、有効な答えが見出せず、「何のために生まれてきたのか全くわからない」という絶望に沈む悲惨な場合も考えられる。この絶望者にとって、アンパンマンは依然としてヒーローであり続けられるのか。野暮を承知で言えば、アンパンマンは円環を生きる子供たちの「無垢の歌」においてのみヒーロー足り得る。円環を再生するヒーローとしてのアンパンマン!子供たちがアンパンマンを大好きになる理由がここにある。では、直線を生きざるを得ない「経験の歌」に苦悩する大人の現代人は如何に生きるべきか。アンパンマンによって再生された「円環の生」への回帰か。それはアルカディアへの回帰に等しいが、そこで我々は「嬉しいんだ、生きる喜び!」と本当に叫ぶことができるだろうか。
ユートピアの実現(8)
かつては「1192(いい国)つくろう鎌倉幕府」と覚えさせられたが、今では「1185(いい箱)つくろう鎌倉幕府」と習うそうだ。歴史の真実を見極めるのは難しい。江戸時代も封建的な身分制度に束縛された民衆は過酷な抑圧生活を余儀なくされていた印象がある一方、落語で描かれる長屋の庶民は貧しいながらも結構楽しく生活している。西洋史でももはや「暗黒の中世」とは言わないだろう。中世も江戸時代も、むしろ民衆の大半は成長発展とは無縁の気楽な日々を過ごしていたのではないか。勿論、立身出世や金持になりたいという欲望はいつの時代にもある。しかし、それはあくまでも社会の上層に生きる少数派の欲望にすぎず、圧倒的多数の民衆はかなり暢気に暮らしていたように思われる。ところが、近代主義の洗礼は気楽な民衆を勤勉な国民に仕立て上げ、ほぼ全員に成長発展を義務として求めるようになった。日本の歴史で言えば、明治維新の前と後では生活の在り方が一変した。「近代化以前の円環生活」から「近代化以後の直線生活」への激変。近代化に後れを取った日本は西洋に追い付け追い越せとばかりに一直線に走り続けた。日清日露と辛うじて走り抜け、大東亜戦争で躓いたものの、敗戦後は復興の名の下に再び走り始めて今日に至っている。途中、直線生活に疲れて「モーレツからビューティフルへ」と円環生活への憧れに揺れ動いたこともあったが、結局は直線生活にしがみついている。ゆとり教育の失敗も然り。ヒッピーやフーテンも所詮直線生活からの落伍者、負け犬にすぎない。しかし、本当にそうか。円環を生き続ける「未開人」の生活についても、それを近代化することの是非が問われている。一応近代化に成功した「先進国」で生活する我々はこれからも直線生活を続けていくのか。それとも近代化によって失われた円環生活に回帰すべきなのか。私はどちらでもない道を求めたい。
ユートピアの実現(7)
『花束みたいな恋をした』と題する映画(監督は土井裕泰)を観た。ラヴストーリーには余り関心がないが、坂元裕二の脚本が何かと話題になるので私なりに確認しようと思う。それは恋人の出逢いと別れを描いた「水平のドラマ」であり、イマドキの若者ウケする坂元氏ならではのセリフが鏤められている。そのセリフの妙を楽しみながら恋人たちの心の動きを追体験していけばいいのだが、野暮な私はそこからどうしても問題を抉り出してしまう。愛し合った二人がどうして別れることになったのか。見知らぬ二人が出逢って、恋人になるまでの過程には説得力がある。端的に言えば、生きている「共通の地平」の相互承認だ。お互いに理解し合い、正に一心同体のような場所が生まれてくる。ところが、男性の方が生活のために就職したことから「共通の地平」は崩れ始める。私がドラマとして問題視するのはその点だ。どうして男性は変わってしまったのか。その過程に説得力はない。鄙見によれば、恋人たちの「共通の地平」は円環生活の場所だ。自分たちの好きなことを中心とした生活。好きな小説を読み、好きな映画や演劇を楽しむ。勿論、これは一般的には自由な学生にのみ許された贅沢な生活であろう。やがて大学を卒業して就職すれば、そんな円環生活を楽しんでいる余裕はなくなり、否応なく直線生活を余儀なくされることになる。実際、男性はその過酷な現実に直面し、いつまでも円環生活を続けている女性に苛立ち始める。当然、女性も直線を生き始めた男性に不満を懐き始める。そのズレが別れの理由なのだが、どうしてそのようなズレが生じる結果になったのか。そもそも二人は「ずっとこのまま、永久に今の生活を続けていく」という相互承認によって恋人になったのではないか。どうして男性だけが円環から直線へと転向したのか。また、どうして女性だけが円環に留まっていられるのか。私が知りたいのはそうした問題に他ならない。もとより野暮な問題ではある。ドラマは論理で動いていくわけではないから、明確な理由を描く必要はない。しかし、円環と直線の軋轢は永遠の問題だ。その点を更に深く描いた「垂直のドラマ」を私は求める。
ユートピアの実現(6)
Perfect daysを生きる男(名を平山と言う)の充実感に触れて、私はエリアーデから学んだ古代人(archaic man)と現代人(modern man)との対比を思い出していた。それは円環と直線、すなわち宇宙(cosmos)を生きる充実と歴史(history)をつくる充実との対比だ。前者は循環する自然に即した永遠回帰の神話であり、後者は理想の実現という終末に向かって絶えず新しきものを求めていく壮大な物語だと私は理解している。平山の日常生活は別に自然に即しているわけではないが、トイレ清掃と余暇の繰り返しは円環を生きることに等しい。そこには時間に追われて直線上を走り続けている多くの現代人にはない充実がある。とは言え、都会で円環を生きる平山は稀有な存在であり、一般的には農村に円環の充実が認められるだろう。実際、都会の直線生活に疲れ果てた人は農村の円環生活に救いを求めていく。新しき村に関心を懐く人も例外ではない。過酷な現代社会からの駆け込み寺としての新しき村は殆どの人にとって円環生活の場所だと思われる。エリアーデも古代人(未開人も含む)の生活に、絶望する現代人の「再生の場所」を見出していた。確かに、大自然の円環生活には人が人として生きる祖型(archetype)がある。しかし、それが我々現代人の真の「再生の場所」であろうか。私は違うと思う。円環生活の場所は古きよき村ではあっても、断じて新しき村ではない。重要なことは円環への回帰ではなく、円環と直線の婚姻に他ならない。
ユートピアの実現(5)
役所広司がカンヌで主演男優賞に輝いた『PERFECT DAYS』(監督はヴィム・ヴェンダース)を観た。都内の公衆トイレを清掃する中年男の日々を描いた作品だ。早朝に起床して、テキパキと身支度をする。出かける際には必ず空を見上げ、家の前の自販機で缶コーヒーを買う。車に乗り込んで一口飲んだ後、車内では好きな音楽をカセットで聴きながら職場に向かう。到着すれば素早く準備をして、後は黙々と清掃作業に励む。昼は仕事場近くの神社や公園でサンドウィッチなどを食べながら、気になった風景をフィルムのカメラで撮影する。好きな植物を見つければ、それも土ごと持ち帰る。写真と植物が男のささやかな趣味なのかもしれない。仕事が終われば銭湯でサッパリした後、浅草の地下街の大衆酒場で一杯やる。時に場末のスナックに足を運ぶこともある。夜は行きつけの古本屋で見つけた文庫本(フォークナーや幸田文など)を寝転がって読み、疲れたら電気を消して眠りに就く。その繰り返し。特に事件と言う程のことは起こらない。強いて言えば、トイレ清掃の同僚の若者とのちょっとしたイザコザ、家出してきた姪との束の間の共同生活、そして件のスナックのママの元夫(がんの転移に悩んでいる)との暫しの交流が男のルーティン生活に小さな波風を起こす。しかし、基本的には何も変わらない。男の生活は寸分違わぬ同一円周上を毎日同じ速度で繰り返し繰り返し動いているようだ。その意味では、確かにそれはPerfect Daysと言える。完全な円環を生きる日々。ヴィム・ヴェンダース監督には小津安二郎の影響が大きいそうだが、両者の描く日常生活に私は水平的幸福の極致を見出す。しかし、野暮を承知で言えば、それが人間の「本当の幸福」だろうか。映画はいつものように職場に向かう車内の男のアップで終わるが、その表情は満ち足りているように見えながら一瞬何かしら後悔で歪むようにも見える。果たして、水平的なPerfect Daysは我々の「再生の場所」になるであろうか。
ユートピアの実現(4)
手塚治虫の名作『0(ゼロ)マン』は戦争で敵対する日本兵と米兵がインド奥地のジャングルで遭遇する場面から始まる。二人は本能的に殺し合おうとするが、その最中に近くで赤ん坊が泣き叫んでいることに気づく。戦闘を中断して見ると、置き去りにされた赤ん坊に大きな虎が襲い掛かろうとしている。二人は咄嗟に協力して虎を退治して赤ん坊を救う。そして、「生き残った方がこの赤ん坊を育てる」という約束をして、再び殺し合いを始める。結果、日本兵が生き残って赤ん坊を抱きかかえるが、その赤ん坊には尻尾があった……と物語は続いていくが、その後の展開は殆ど忘れてしまったのに、この冒頭の場面だけは今も強く印象に残っている。子供心に、敵対する者同士が一時的にせよ協力した場面に深く感動したのだと思う。おそらく、それは「災害ユートピア」への感動に通じているだろう。普段はいがみ合っている人たちも災害に直面して一致団結して危機に立ち向かおうとする。敵対する者同士が殺し合うのは本能だとしても、危機的な限界状況において助け合うのも本能ではないか。何故こんなことを改めて問題にするかと言えば、先日大地震に見舞われたミャンマーの現状についての報道に触れたからだ。周知のように、今のミャンマーは軍事政権と民主派勢力との内戦状態にある。しかし今回の大地震による未曾有の危機に直面して、ミャンマーは内戦の対立を超越して一丸となって被災者の救援に集中する――と思いきや、軍事政権は依然として民主派勢力への空爆を続けていると言う。加えて、報道によれば、軍事政権は民主派勢力の支配地域に各国からの救援物資が届くのを妨害しているとのことだ。こうした報道が正しければ、ミャンマーには「災害ユートピア」さえ生まれなかったことになる。私はここでミャンマーという国家の政治的分析をするつもりはない。そんな能力は私にはない。ただ、今のミャンマーには「人間になる場所」がないと痛切に思うだけだ。現実は厳しい。一般的には悪の権化と目される軍事政権を(他国からの軍事援助に頼ってでも)排除すれば「再生の場所」は見つかるのだろうか。私は悲観的だ。たとい軍事政権を打倒しても、そのこと自体が「再生の場所」になるわけではない。ミャンマーの一日も早い民主化を心から願っているものの、そこは未だ「再生の場所」への中継点だ。問題の根はもっと深い。