ユートピアの実現(9) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

ユートピアの実現(9)

この春に始まった朝ドラ『あんぱん』はアンパンマンの生みの親・やなせたかし氏とその妻の物語だ。お二人の夫婦愛のドラマもさることながら、私はヒーローとしてのアンパンマンそのものに関心がある。不勉強でその絵本もアニメも目にしていないが、どうして子供たちはアンパンマンが大好きなのか。その理由をアニメの主題歌である「アンパンマンのマーチ」に探ってみたい。

 

「アンパンマンのマーチ」

そうだ うれしいんだ  いきるよろこび
たとえ むねのきずがいたんでも

なんのためにうまれて なにをしていきるのか
こたえられないなんて そんなのはいやだ!

いまをいきることで あついこころもえる
だから きみはいくんだほほえんで

そうだ うれしいんだ いきるよろこび
たとえ むねのきずがいたんでも

あ あ アンパンマン やさしいきみは
いけ! みんなのゆめまもるため

なにがきみのしあわせ なにをしてよろこぶ
わからないままおわる そんなのはいやだ!

わすれないでゆめを こぼさないでなみだ
だから きみはとぶんだどこまでも

そうだ おそれないで みんなのために
あいとゆうきだけがともだちさ

あ あ アンパンマン やさしいきみは
いけ! みんなのゆめまもるため

ときははやくすぎる ひかるほしはきえる
だから きみはいくんだほほえんで

そうだ うれしいんだ いきるよろこび
たとえ どんなてきがあいてでも

あ あ アンパンマン やさしいきみは
いけ! みんなのゆめまもるため

 

言うまでもなく、作詞はやなせたかし氏本人だ。彼は「手のひらを太陽に」という名作も作詞しているが、両者に通底しているのは同じ思い、すなわち生命讃歌のヒューマニズムだ。そこにはやなせ氏の過酷な戦争体験(不条理な死を余儀なくされる情況への怒り)があるようだが、「何のために生まれて、何をして生きるのか、答えられないなんて、そんなの嫌だ!」とか「何が君の幸せ、何をして喜ぶ、わからないまま終わる、そんなの嫌だ!」という叫びの根柢には常に「嬉しいんだ、生きる喜び」というゾーエーそのものの輝き、「ミミズだって、オケラだって、アメンボだって、みんな、みんな、生きているんだ、友だちなんだ」という根源的生への信頼がある。私はここに「無垢の歌」を聞く。未だ主もなく客もない純粋経験としての「生の肯定」だと言ってもいい。あるいは、アリョーシャ・カラマーゾフの言葉を借りれば、「生の意味を問う以前に生を愛する」ことだ。しかし、残念ながら「無垢の歌」は永久には続かない。子供は成長して大人になり、やがて「経験の歌」が始まる。すると、「何のために生まれて、何をして生きるのか」とか「何が自分の幸せで、何をして喜ぶか」という実存的な問いは「嬉しいんだ、生きる喜び」という存在の根柢と分離され、生を愛するためには生の意味を問うことが不可欠になっていく。こうした一種の倒錯は近代の病であり、実存と存在が切り離されていない子供や未開人には無縁であろう。言い換えれば、「無垢の歌」は子供や未開人にのみ可能であって、大人になった現代人は否応なく「経験の歌」を最後まで歌い切るしかない。しかし、それは何を意味するのか。「無垢の歌」においては「何のために生きるのか、何が幸せか」という問いは「嬉しいんだ、生きる喜び」という答えと相即していた。その相即が失われた「経験の歌」においては、問いだけが風に吹かれることになる。結果、有効な答えが見出せず、「何のために生まれてきたのか全くわからない」という絶望に沈む悲惨な場合も考えられる。この絶望者にとって、アンパンマンは依然としてヒーローであり続けられるのか。野暮を承知で言えば、アンパンマンは円環を生きる子供たちの「無垢の歌」においてのみヒーロー足り得る。円環を再生するヒーローとしてのアンパンマン!子供たちがアンパンマンを大好きになる理由がここにある。では、直線を生きざるを得ない「経験の歌」に苦悩する大人の現代人は如何に生きるべきか。アンパンマンによって再生された「円環の生」への回帰か。それはアルカディアへの回帰に等しいが、そこで我々は「嬉しいんだ、生きる喜び!」と本当に叫ぶことができるだろうか。