見えるものと見えないもの(9)
好むと好まざるとに拘らず、純文学はこれからも衰退の一途を辿るだろう。それは「見えないもの」への究極的関心の衰退でもある。「見えるもの」を本質とする大衆文学(ミステリーやSFも含む)は強かに生き残るかもしれないが、それも早晩マンガやアニメに太刀打ちできなくなるのは目に見えている。既にテレビドラマの原作はその大半がマンガに占められている。一般市民の欲望が「見えるもの」の快楽に集中している以上、この流れは変わらない。既に太宰治は次のように喝破している。「フロオベエルはお坊ちゃんである。弟子のモオパスサンは大人である。芸術の美は所詮、市民への奉仕の美である。このかなしいあきらめを、フロオベエルは知らなかったしモオパスサンは知っていた。……ボオドレエルこそは、お坊ちゃん。」一日労働して帰宅する。夕飯と入浴を済ませてテレビを観る。ドラマやバラエティ番組で疲れを癒し、また明日も頑張ろうと思う。芸術は娯楽。それ以上のものではない。太宰は「かなしいあきらめ」と言っているが、今や殆どの人が「面白くなければ意味がない」と思っている。娯楽結構。その快楽が生を充実させる真実を否定するつもりはない。しかし、それが「見えるもの」だけに支配されている限り、「見えるもの」の堕落(世界の腐敗)を止めることはできない。そこにはどうしても「見えないもの」の力が必要になる。その力を胚胎する純文学(純粋芸術)を滅ぼしてはならない。