垂直に生きる(9)
かつて「新しき村は修道院であるべきだ」と或る長老が語った。私は半ば同意し半ば反撥した。人間が本当に人間らしく生きられる場所。私はそれを求め続けていたが、常に修道院や禅の僧堂に対する憧れがあった。醜悪な欲望に塗れた俗世間の腐敗は明白であったから、そんなものとは絶縁した聖なる場所に理想を見出したのだろう。しかし、やがて俗なるものを徹底的に排除する聖なる場所に疑念を懐くようになった。そうした徹底排除は厳格な戒律なくして実現しない。言い換えれば、厳格な戒律生活に耐え得る者のみが聖なる場所に生きることができる。私には到底無理だと思った。と同時に、そんな情けない自分を正当化するつもりはないが、難行苦行を全うする強者のみが住める聖なる場所は人間らしくないとも思った。「人間らしい」とは何か。人間は弱い。その弱さを肯定して生きることが「人間らしい」のか。私は自分の弱さを痛感しているが、そこに安住する気にはなれない。私にとって聖道門と浄土門はウロボロスの関係にある。「難行苦行の強さ」の尾を「弱さを受容する強さ」が噛んでいる。私は強くなりたい。ただし、それは水平の次元における強さではなく、あくまでも垂直の次元における強さであるべきだ。修道院にせよ僧堂にせよ、そこが聖なる場所であることは否定できない。しかし場所である以上、そこは依然として水平の次元に属する。水平の次元には聖なる場所と俗なる場所があり、私はその狭間で二つの場所に引き裂かれて生きている。修道院がそうした意味における聖なる場所であるならば、新しき村がわざわざ修道院である必要はないだろう。聖なる場所は修道院や僧堂で事足りている。問題は聖俗二つの場所を生き抜く理想に他ならない。それは「垂直に生きる」強さを要請する。