垂直に生きる(10) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

垂直に生きる(10)

「垂直の瞬間」は日常生活の至る所にあり得る。学校で級友が虐められている時、見て見ぬふりをするなら「垂直の瞬間」はやって来ない。同様に沖縄の米軍基地や福島の除染土の問題に関しても、我々は「垂直の瞬間」を生きるかどうかを試されている。もし水平に生きる幸福だけにしがみつくのなら、NIMBY(=Not In My Back Yard)を決め込むことになるだろう。私も偉そうなことは言えない。世界の歪みが日々報道されても、それが我が身に降りかからなければ行動を起こさない。実に情けない話だ。「食うに困る人が一人でもいる限り、世界は未だ理想ではない」という実篤の言葉も「世界がぜんたい幸福にならなければ、個人の幸福はあり得ない」という賢治の言葉も、今のままでは単なるキレイゴトとして歴史的遺物と化してしまう。醜悪な現実に理想を取り戻したいと私は切望しているが、理想は単なるキレイゴトではない。断じてキレイゴトで終わらせてはならない。歪んだ現実はキタナイが理想はキレイ。それが通常の認識だが、歪んだ現実に受肉する理想こそが問題なのだ。当然、理想は無傷ではいられない。受肉は理想を現実の泥沼に突き落とす。汚れっちまった理想はもはや理想ではない。そこに「理想の敗北」を見る人も少なくないだろう。私は違う。「理想の敗北」を認めない。確かに、受肉は理想の絶対性の敗北(否定)かもしれないが、むしろその敗北からの復活(否定の否定)にこそ真の絶対性があると信じたい。そうした受肉の運動を通じて、理想は俗なる現実を聖化する。聖化とは何か。その真理を私はずっと求めてきた。文字通りに解せば「俗なるものの徹底排除」が主張される。キタナイものが一切なくなって世界はキレイになる。しかし、私はそこにどうしても真理を見出せなかった。キレイはキタナイ、キタナイはキレイ。美は乱調にあり。それが真実だとしても、世界の歪みはなくさねばならない。強者が弱者を抑圧する。その抑圧から貧困や戦争などの歪みが生じる。歪みはキタナイ。歪みをなくせば世界はキレイになる。本当にそうか。キレイになった世界は新たな歪みの温床になる。何故か。歪みは水平の次元で生じるが、そこには限界があるからだ。それは水平革命(世界の水平化)の限界でもある。いくら水平的歪みをなくしても歪みそのものはなくならない。とは言え、水平革命が無駄だと言うつもりはない。逆だ。現実に可能な我々の活動は水平革命しかないと言っても過言ではない。世界の歪み、現代社会に渦巻いている理不尽なことの一掃のために微力ながら私も働きたいと思っている。「世界の水平化」の政治的表現が民主化であるなら、国の大小を問わず、あらゆる国の民主化が望まれる。ただし、民主化の徹底が水平革命の最終目標だとしても、我々の究極的理想はそこにはない。水平化=民主化を超えていく。今の私の言葉に説得力はないが、水平革命は水平の次元だけでは成就しない。それは必ず垂直の次元を要請する。その意味において「水平革命は垂直革命に接続する」と言えるが、両者は相即すると考えるべきだ。決して二段階的に理解してはならない。「垂直に生きる」理想は「水平に生きる」現実に胚胎する。聖なる場所でキレイに生きることには理想も現実もない。