円環×直線=螺旋(7)
異族とは何か。厳密に言えば、同族である日本人の中にも様々な異族はいる。そもそもヒトのDNAは99.9%同じであり、ヒトのレヴェルに異族などあり得ない。皆、「同じ赤い血が流れるヒト」だ。こうした「人類皆兄弟」の境地は根源的なゾーエーの円環に基づく共生だと言えよう。神話的に言えば、この根源的共生は始源の楽園だが、ヒトが人になると同時に失われる運命にある。ゾーエーの円環は破綻し、ビオスの次元における差異性が目立つようになる。そして、同族と異族の対立が生まれる。ただし、人種とか民族の差異性による対立は本質的なものではない。肌の色の違いなどはゾーエーに付随するものであり、ビオス以前の問題だからだ。とは言え、現実の対立は未だ根深く、血で血を洗う民族紛争は世界各地で深刻な問題となっている。実際、異族への憎悪は理性を超えた自然感情であり、公民権法などの法律によって抑えきれるものではない。憎いものは憎い。嫌なものは嫌だ。理屈じゃない。しかし、心ある人たちは既に自然感情に身をゆだねることの愚かさに気づいている。傾向性の呪縛との闘いは容易ではないが、人は道徳性に生きなければならない。傾向性の奴隷から道徳性の自律へ。こうしたカントの言う啓蒙において、人種差別は実質的に人として許されない行為となった。先述したように、その啓蒙の真理は未だ現実のものとなっていないものの、問題としては結着している。それ故、私は人種とか民族の差異性による異族とは質的に異なる異族を問題にしたい。例えば、資本家にとって労働者は異族であろう。あるいは、会社などの組織全体に尽くすことに生き甲斐を感じてきた人たちにとっての個人主義的な若者(新人類)、経済的発展を優先してきた人たちにとっての「忘れられた日本人」も異族に違いない。そうした階級対立や人生における価値観の相違こそビオスの次元の異族だと理解することができる。人種上の異族なら根源的ゾーエーの次元への回帰によって或る程度の和解(人類皆兄弟)も可能だが、ビオスの次元における異族は一筋縄ではいかない。「人類皆兄弟」という円環を基本としながらも「我は我也」という直線の道を生きる。そこから生まれる異族は如何にして「されど仲良き」という境地に辿り着けるか。