新・ユートピア数歩手前からの便り -9ページ目

「見えないもの」の芸術(4)

武田泰淳の対談を読んでいたら、亀井勝一郎の次のような発言に出くわした。「ぼくは内村鑑三を読んだり、ゲーテの作品を見て感ずることは、要するに信仰と創作行為――広く芸術というものとは、これは相容れないな。絶対に相容れないな。」この発言に対して泰淳は「大賛成です」と応えている。ところが、別の対談で椎名麟三が「ぼくが洗礼を受けた時に、亀井勝一郎さんがこう言った。椎名麟三がほんとうのクリスチャンであろうとすれば、文学を捨てるべきである。ほんとうの文学者であろうとするなら、キリスト教を捨てるべきだと。」と発言すると、泰淳は「亀井さんはそれを言っちゃいけないですね」と語っている。この対比は竹内実氏の一文によって教えられたものだが、泰淳の応答の違いもさることながら、ここでは信仰と芸術との質的差異に関する亀井勝一郎の執拗な拘りに注目したい。これはイコノクラスム(偶像破壊運動)にも関係する問題だが、私は基本的に亀井勝一郎は正しいと思っている。信仰は「見えないもの」を「見えないもの」のまま信ずる行為であるのに対し、芸術は「見えないもの」を何とかして見ようとする行為だからだ。そして、「見えないもの」を「見えるもの」にすれば、それは否応なく偶像と化す。論理的に考えれば、「見えないもの」の芸術などあり得ない。しかし、それにも拘らず、我々は「見えないもの」の芸術という逆説を孕んだ行為を断念することができない。決して偶像に堕すことのない聖なるものの表現。矛盾としか思えない泰淳の応答の違いもその逆説の反映に他ならない。

「見えないもの」の芸術(3)

ネットに興味深い記事があった。「8時10分前」に関する記事だ。例えば、「8時10分前に集合」と言えば、通常は「7時50分(まで)に集合」を意味する。例外なく、当然そうだと思っていた。ところが、最近の若者には「8時10分前」を「8時から8時9分の間」と解する人が少なくないそうだ。ネットの記事には、「都内で100人に聞いたところ、40代・50代は「7時50分」と答えた人が84%だったのに対し、10代〜25歳は「7時50分」と答えた人がわずか36%。64%は「8時〜8時9分」と回答した」とある。驚いた。どうしてこんな違いが生じてくるのか。若者の行動を研究している大学教授によれば、今の若者世代はスマホを小さい頃から持ち歩くことによって正確な時間に待ち合わせできるようになっているので、「10分前」とかの単位でそもそも言う必要がなく、そういう表現に慣れていないとのことだ。確かに、そういうことは言えるだろう。しかし、その根柢には時刻のアナログ表示とデジタル表示の差異があるように思われる。すなわち、アナログ表示が沁み込んでいる人に「8時10分前」と言えば、長針と短針で「8時」を示すイメージが先ず脳裡に浮かび、それから「10分前」というイメージに転ずるのに対し、デジタル表示に慣れている世代にはいきなり「8:10」というイメージが浮かぶ、ということだ。こうした私の解釈が正しければ、若者世代と私とでは「見えているもの」が異なる、ということになる。この事実は私に深い反省を促す。「見えないもの」の芸術とは言え、それは「見えているもの」による表現以外のものではないからだ。或る詩人は「言葉のない世界を発見するのだ 言葉をつかって」と歌っているが、それは「見えているもの」によって「見えないもの」に到達しようとする試みに他ならない。それにも拘らず、人それぞれ「見えているもの」のイメージが異なる。同じ言葉でもそのイメージは千差万別だ。私は人間の究極的な「理想」を問題にしてきたつもりだが、結局は殆ど何も伝わっていないに等しい。「理想」という言葉のイメージは絶えず風に吹かれている。

「見えないもの」の芸術(2)

相変わらず、ドラマ中毒が続いている。なかなか治らない。奇妙なことだ。「見えないもの」の芸術を問題にしているのに、どうして私は執拗にドラマを観続けているのか。「見えないもの」と対峙することからの逃避なのかもしれない。それは「垂直に生きる」ことからの逃避でもある。神学、哲学、文学といった領域で言葉によって「見えないもの」を求めるのは実に苦しい。どうしても「見えるもの」に逃げたくなる。そもそも人には「見たい!」という根源的な欲望がある。「見る快楽」とでも言おうか。すぐに思いつく卑近な例を挙げれば、ストリップやポルノ映画だ。そこでは「女性の裸体が見たい」という男性のスケベ根性が満たされる。女性にも同様のスケベ根性があるかどうか、男性の私には定かでないが、通常は隠されて「見えないもの」を見ることには大きな快楽(エロティシズム)があるだろう。しかし、エロティシズムもまた「見えないもの」を見る快楽に違いないものの、女性もしくは男性の裸体、もっと露骨に言えば恥部は単に隠されているだけで本当に「見えないもの」ではない。他にも、殺人事件とか怪奇現象なども通常は「見えないもの」だが、ドラマではそれを見せてくれる。本当に「見えないもの」を求める苦しさから「見る快楽」へと逃走し続ける私にドラマ中毒からの快癒の見込みは当分ない。

「見えないもの」の芸術

『芸能きわみ堂』というNHKの番組がある。主に古典芸能の「今」を紹介する内容だが、先日は「幽玄の世界にCGが挑む!」と題して、能楽師が舞う背景をCGで描くという現代的試みを取り上げていた。私は能に詳しくはないが、CGで描かれた世界を背景に「松風」や「船弁慶」を舞う能楽師の姿を見て、素人ながら「これは駄目だ」と思った。CGの技術が駄目だ、ということではない。おそらく、CGの技術者は「松風」や船弁慶」の物語に込められた幽玄の世界を最大限に表現しているだろう。その表現は能楽師の舞を最大限に活かすものであるのかもしれない。しかし、そのCGによる表現が巧みなものであればあるほど、私にはそれが「余計なお世話」にしか見えなかった。何故か。野暮を承知で言えば、能は見る者の想像力を遊ばせる芸術であるべきなのに、CGはその遊びの邪魔をしているからだ。これは能に限ったことではない。およそ芸術の神髄は「見えないものを見えるようにする」ことにあると私は考えている。ただし、ここで私が言う「見えるようにする」とは決して単なる映像化ではない。実際、映像化を拒む文学がある。そのような文学を映像化しても(厳密に言えば、映像化は不可能だが)、それによって「見えないものを見えるようにする」ことはできない。勿論、映像化を歓迎する文学もある。大衆小説だ。そこでは「見えるもの」を中心に物語が展開し、そもそも「見えないもの」は問題にされていない。私は大衆小説を蔑視するつもりはないが、「見えないもの」を核とする純文学とは厳密に区別すべきだとは思っている。能も純文学に匹敵する芸術であろう。そこに余計な映像は必要ない。

補足:嫌な奴と十字架

玄関のチャイムが鳴った。世捨て人の私の家に誰が来たのかとドアを開けると、「お休みのところ大変申し訳ありません。聖書を読んだことがありますか」といきなり言われた。きちんとした身なりの初老の男性と、その後ろに清楚な若い女性が立っていた。宗教の勧誘だ。咄嗟にどう対応すべきか分からず、思わず「まぁ、読んだことはありますが」と正直に応えてしまった。「それは素晴らしい!」と初老の男は顔を輝かせ、何か訳の分からぬことを捲し立て始めたので、「すみませんが、今そういう話をしている暇がないんです」と私は言った。男は瞬時に表情を曇らせ、「そうですか。お忙しいところ申し訳ありませんでした」と頭を下げて去っていった。家の中に戻って暫くすると、近所のあちらこちらで同じやりとりが繰り返されていることに気がついた。追い払われても、追い払われても、懲りずにまた新たな家を訪ねていく。私は何だか気の毒になってきた。突然やって来る宗教の勧誘者は嫌な奴だが、それを追い返す自分も嫌な奴に思えてきた。どうしてだろうか。宗教の勧誘と言うが、本人たちにその意識はない。勧誘ではなく、伝道しているのだ。宗教の押し売りではないので、「間に合っています」と言われれば素直にその場を後にする。しかし、本当に宗教は間に合っているのか。宗教が問題になる垂直の次元は不要なのか。「今そういう話をしている暇がない」と私は言ったが、「そういう話」こそ今すべきではないのか。とは言え、いきなり聖書の必要を説かれても戸惑うのは当然だろう。それを信じる人たちにとって聖書は「人が生きる本当の意味」の源泉に違いないが、世俗に塗れて日々の生活に追われる人たちにその源泉に思いを致す余裕はない。とまれ、その有難い教え(福音)を一人でも多くの人に伝えたいと奔走する人たちは基本的に良い人たちだ。しかし、その良い人たちが「嫌な奴」として追い払われる。そもそもその原点であるイエスその人が「嫌な奴」の象徴として十字架刑に処せられた。ただ「人が生きる本当の意味」を伝えようとしていただけなのに、疎まれ、憎まれ、殺された。我々はその原事実の意味を今一度じっくりと考え直すべきではないか。良い人が「嫌な奴」としてこの世界から追い払われる十字架の意味を。

補足:嫌な奴がいなくなった世界

一般的には嫌な奴がいなくなれば世界は良くなると思われている。しかし、誰が嫌な奴なのか。当然、私個人にとっての嫌な奴なのだが、世界を私の好きな色だけで染め上げるのは不可能だ。私の好きな人を嫌う人もいれば、私の嫌いな人を好きになる人もいる。その判断は容易に見極め難いが、人は同質のものを好み、異質なものを嫌う傾向にある。とは言え、問題を複雑にするのは、人には異質なものへの憧れ、もしくは異質なものになりたいという願望があることだ。黒髪の日本人が金髪に染める。「日本人のくせになんだ!」と非難されて「嫌な奴」というレッテルが貼られる。「日本人は黒髪」という同質性の支配が強要されるならば、我々はむしろ異質な「嫌な奴」になるべきではないか。金髪でも茶髪でも何でもいい。如何なる人も同質性に束縛される必要はない。さりとて「日本人は黒髪」という同質性=自然性を軽々に否定することはできないし、否定すべきではないと思われる。日本人には日本人の生き方がある。それは黒髪などの身体的特徴もさることながら、生活習慣を含めた国民性であり、そこに日本人のUrbildがある。ただし、Urbildに束縛される必要はなく、そこから日本人のVorbildを実現していくことが重要だと私は考える。「日本人だからこうすべきだ」とUrbildに後向きに限定されるのではなく、「日本人として生きる理想は何か」と常にVorbildを前向きに求めていくべきだ。Urbildを中心に同族が形成されるとすれば、Vorbildを求めていくのは異族だ。同族と異族の対立は世界の至る所で紛争を起こしているが、私は「同族の中の異族」にこそ注目したい。嫌な奴がいなくなった世界はユートピアと見做されるかもしれないが、実際はディストピアに他ならない。

 

さて、コメント欄で私の意見を求められた「新しき村の公益法人としての認可」について一言だけ。風の便りに認可を知ったが、公益法人として認可された村がこれからどんな活動をしていくのか、詳しいことは何もわからないので私の意見は特にない。ただ、実篤先生が築いた新しき村のUrbildを見失うことなく、村のVorbildを実現して欲しいと望むだけだ。私は村ではずっと「嫌な奴」にすぎなかったが、今でも村のVorbildを求め続ける異族であるという自負だけは失っていない。

補足:自己嫌悪と自同律の不快

この世界に嫌な奴は確実に存在する。それは通常「私にとって」の嫌な奴だ。あるいは「私の属している集団にとって」の嫌な奴。そうした嫌な奴は排除すればいい。排除の徹底は抹殺だ。嫌な奴が完全にいなくなった世界は「私にとって」理想社会となる。これで物語は完結する。大団円。メデタシメデタシ。しかし、この物語の完結と同時に別の物語が始動する。「私の中」の嫌な奴の存在。これも排除すればいいのか。これも嫌、あれも嫌…。キリがない。排除しようとする私と排除される私との関係がやがて曖昧になってくる。すると、「私にとって」の嫌な奴との関係も曖昧になる。「昨日の私にとって」嫌な奴が「今日の私にとって」嫌な奴でなくなっている。当然、「今日の私にとって」良い人が「明日の私にとって」嫌な奴になる場合もある。「私の中」の嫌な奴と同じく、「私にとって」の嫌な奴も到底排除しきれない。かくして「排除の物語」は完結しないことが明らかになる。嫌な奴は排除しきれない。我々の理想社会は「排除の論理」によっては実現不可能だ。全く新しい物語が要請されている。

嫌な奴とも仲良くする必要があるのか(10)

先日のNHK『クローズアップ現代』では「文化か虐待か:告発される地域の祭り」と題して、ばんえい競馬など動物を虐待しているように見える行事が相次いで刑事告発されていることを問題にしていた。海外でもスペインやメキシコの闘牛が告発されて中止や改善を余儀なくされているようだが、これは実に複雑な問題だ。伝統行事を擁護する人たちとそれを「動物虐待」として断固廃止を要求する人たちとの分断が生じている。一体、どちらが正しいのか。どちらも正しいと言わざるを得ない。ただし、その「正しさ」は質的に異なっている。それぞれ全く異なる地平に立っている。「動物虐待」を告発する動物愛護者は生きとし生けるもの全てのイノチを大切に思う。それが悪い道理はない。しかし、その道理の正しさの主張、更に言えばその主張の強要には違和感がある。何故か。その道理はゾーエーの次元に属するものであり、そこには本来「善悪・正邪」の差異はないからだ。差異はビオスの次元に生じる。そもそも「動物虐待」と言うが、牛肉や豚肉などを食べることは「動物虐待」ではないのか。勿論、ラディカルな動物愛護者はヴィーガンになる。しかし、ヴィーガンと雖も、生きるためには他のイキモノのイノチを戴かざるを得ない。ライオンは生きるためにシマウマを喰らう。シマウマも何か他のイキモノを喰らっているに違いない。人も例外ではない。おぞましいが、飢餓の極限状況では人肉だって喰らうだろう。それがゾーエーの次元における剥き出しの道理だ。その中で特定の現象、例えばライオンに食われるシマウマに哀れみを感じるのは人の視点、すなわちビオスの道理に他ならない。「動物虐待」を告発する動機も然り。それはゾーエーの道理ではなくビオスの道理に基づくものだ。ペットの愛好も、飼い主はペットをゾーエーの次元ではなく、ビオスの次元で愛している。もっと露骨に言えば、自分のビオスの充実のために愛している。ペットはビオスの次元の愛玩動物であり、要するに飼い主のオモチャだ。その点において、ペットの愛好も家畜も狩猟も変わりはない。人はビオスの充実のために他のイキモノを愛し、形を変え、そして殺す。極端な話、盆栽や間伐・間引きも「植物虐待」と言えないことはない。だからと言って、人が他のイキモノのイノチを自由に支配していいことにはならない。私は動物愛護者の上げ足を取るつもりはない。殺処分寸前の犬や猫を引き取って、大事に育てている動物愛護者の時間とお金をかけた努力には頭が下がる。また、特に動物愛護者でなくても、実験用のマウスや燔祭の羊に同情することはある。しかし、そこには意味がある。動物と共に行う伝統行事にも意味がある。それは人間中心の意味だけれども、それ以外に意味はない。意味は常に人間中心だ。Earth First! という運動の意味も例外ではない。従って、面白半分に意味もなく動物を殺傷するのは厳しく糾弾されるべきだが、意味のある伝統行事に「動物虐待」はない、ということになる。そこに「動物虐待」を認めるなら、農耕に使われる牛馬、馬車、競馬も「動物虐待」になるだろう。或る動物愛護者は「馬は荷車を引くために生まれてきたわけではない」と語っていたが、では何のために生まれてきたのか。それを考える力は馬にはない。馬に限らず、人以外のイキモノは意味もなく生きている。生きていることに意味を問うのは人だけだ。その延長線上で、意味のある(人の役に立つ)イキモノと意味のない(役に立たない)イキモノに振り分けられる。人の社会における「嫌な奴」と「良い人」の振り分けも同様だ。ゾーエーの次元にまで遡れば、そうした振り分け(差異)も意味を失う。「嫌な奴」は「嫌な奴」でなくなるが、同時に「良い人」もいなくなる。重要なことは、差異が生じるビオスの次元でそれぞれの存在の意味を問うことにある。生きとし生けるもの全てのイノチを大切に思うゾーエーの道理を尊重するものの、私はのっぺらぼうの世界に生きたくはない。愛すべきイキモノもいれば憎むべきイキモノもいる。そうした愛憎渦巻く差異の世界で、真にあるべき存在の意味を問い続けていきたい。

嫌な奴とも仲良くする必要があるのか(9)

実に恐ろしい夢を見た。どうしてそんな夢を見たのか、おそらく心が病んでいるのだろう。東京の場末だと思われる繁華街を私は友人と歩いていた。そろそろ終電の時間が気になる頃だ。突然、女性の悲鳴がした。思わずそちらに目を移すと、若者が血の付いた包丁を振り回している。既に数人刺されているようだ。逃げなければならぬ。そう思った瞬間、その若者と目が合った。奇妙な唸り声をあげて、若者は一直線に私に向かって走り出した。足が竦む。しかし、恐怖に支配された臆病者の私は衝動的に逃げ出すことができた。自分のイノチを守ろうとする本能だ。私は逃げた。一緒にいた友人のことなど全く念頭になかった。「助けてくれ!」その悲痛な叫びに振り返ると、転んで倒れた友人が若者に切りつけられていた。私の足は凍りつく。すると、そこへ一人の男が助けに入った。若者とその男が格闘するうちに、私の友人はかろうじて逃げ出すことができた。しかし、勇敢な男は若者に刺されてしまった。もはや人とは思えない形相で若者は私を見据える。そして、再び私に向かって走り出す。……覚えているのはそこまでだ。

 

夢の中とは言え、私は逃げた自分を恥じている。友人を見棄てたことに負い目(Schuld)を感じる。しかし、私は「自分のイノチを守れ!」というゾーエーの声に忠実に従っただけではないか。無垢(Unschuld)な子供なら、なんの問題もない。大人だけがそれを問題にする。何故か。大人はゾーエーを守ることだけでは満たされず、ビオスの充実を求めるからだ。私は自分のイノチだけを守ろうとして逃げたが、勇敢な男は自分のイノチを犠牲にしてまで他人のイノチを救おうとした。どうしてそんな愚かなことができるのか。臆病者の私には到底理解できないが、そういう「愚か者」は確実に存在する。線路に転落した酔っ払いを助けようとして自分が電車に撥ねられてしまう「愚か者」。自分のイノチを最優先する「利巧者」はそんなことは絶対にしない。しかし、「利巧者」は「愚か者」に負い目を感じる。その負い目はビオスの次元からやって来る。余談ながら、もうすぐ最終回を迎える『Dr.アシュラ』という天才救命医が主人公のドラマがある。毎回、救急車で運び込まれる重傷者の命を神業の手術で救って感動を呼ぶが、先日の第七話では末期がんや人間不信のせいで自殺を図った重傷者が搬送されてきた。今回もアシュラ先生の活躍で一命を取り留めるが、その患者は「どうして命を救ったのか!あのまま死なせてくれれば楽になれたのに…。命を救われても、私の人生は救われない!」とアシュラ先生に暴言を吐く。ビオスに絶望する者はゾーエーを無に帰すことで楽になろうとする。健康なゾーエーに恵まれてもビオスが病むことは避けられない。このビオスの病こそが問題ではないか。確かに、「嫌な奴」はビオスの次元に生じる。自分のゾーエーだけを守ろうとする臆病者の私のような「嫌な奴」も同様だ。しかし、ビオスの次元には他人のゾーエーを救おうとする「良い人」も生まれてくる。この「良い人」は「愚か者」で、ゾーエーに自他の区別をしない。だから、「嫌な奴」とも仲良くしようとする。もとより「利巧者」には理解できない行動ではあるが、そこにビオスの真理があるのではないか。「愚か者」の真理は「嫌な奴」の真実に対して弱い。弱すぎる。それでも「ビオスの充実」を求めるとすれば、我々は真理の勝利を信じて生きるしかない。再び余談ながら、昨日私が恐ろしい夢を見ている間に幼い私の憧れた「燃える男」が他界した。寂しい限りだが、彼は「ビオスの充実」の一典型として永遠に不滅であろう。

嫌な奴とも仲良くする必要があるのか(8)

NHKスペシャル『シリーズ人体』を観ていると、イノチの神秘に驚愕の連続だ。自分の意識していない細胞内でかくも様々な物質が懸命にイノチを維持しているかと思うと、その「巨大ネットワーク」に「何事のおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」という西行のような心境になる。そこに私の主体性はなく、「私」は完全に生かされている。そのイノチはあらゆるイキモノに共通する根源的なゾーエーであり、人に特有だとされている意識的なビオスの次元などイノチの氷山の一角にすぎない。意識の発生についてはよくわからないが、おそらく何らかの物質の働きによるものだろう。言わば、無意識に生きるゾーエーが「実」で、意識的に生きるビオスが「虚」だ。あるいは、イノチをゾーエーとビオスに区別すること自体が「虚」だと言うべきなのかもしれない。しかし、人は「自分が生きていることにどんな意味があるのか」と問う。「人生の意味」を問わずにはいられない。その結果、「人生不可解」という言葉を残して華厳の滝に身を投じる人もいる。これはビオスの絶望によるゾーエーの否定であり、「虚」が「実」を否定するという倒錯に他ならない。しかし、人生に意味を問う病がビオスの「虚」だとしても、人はビオスの次元を棄てるべきではないと私は思う。確かに、ビオスはイノチの氷山の一角にすぎない。それを棄てて根源的なゾーエーの次元に遡れば、「人生の意味」の不在に苦しむこともなくなるに違いない。「嫌な奴」と「良い人」の差異もなくなり、更にはヒトと他のイキモノの差異もなくなる。あらゆる存在が一つの大きなイノチの円環に巻き込まれていく。正に大調和!果たして、一個の細胞(ルカ)から始まるイノチの大調和こそが理想なのか。それを否定することはできないが、私はその大調和を一直線に破る差異化のイノチ、すなわちビオスに究極的な理想に向かう可能性を求めたい。人が生きる様々な苦悩は全てビオスの次元で生まれる。ゾーエーの次元ではその苦悩一切が初期化される。しかし、初期化は苦悩の一時的な解消ではあっても根源的な克服ではない。たとい苦悩が「イノチの病」だとしても、私はカミュと共に「病から癒えるのではなく、病みつつ生きること」を望む。