ナディアの懸念(4)
一口に「労働の廃絶」と言っても、廃絶すべき労働は所謂「3K」(キツイ、キタナイ、キケン)の労働に限られる。因みに、最近は「給与が良い、休暇が多い、希望が持てる」という「新3K」の労働があるそうだが、それなら廃絶の必要はないだろう。つまり、「労働の廃絶」とは厳密には「過酷な重労働の廃絶」にすぎない。それが一般的な見解ではないか。そもそも自分の好きなことを職業にしている人にとっては労働が生き甲斐となっている場合もある。農作物を育てることが好きな人に農作業を禁ずることは生き甲斐を奪うことに等しい。ただし、農作物を育てることと農業で食っていくことは違う。農業は労働であり、単に好きなだけではやっていけない。例えば、自然に即した農法が好きでも、それで採算が合わなければ農薬や化学肥料に依存した慣行農法に転換せざるを得ない。更に「儲かる農業」を求めて完全に機械化=自動化されたスマート農業にまで行き着けば、もはや農作業の楽しみなど雲散霧消するに違いない。それは明らかに本末転倒だ。「労働の廃絶」とは農作業を禁ずることではなく、好きな農作業を苦しい「食うための労働」から解放することでなければならない。さりとて、それは農作業を趣味にすることではない、と私は思う。趣味では食っていけない。それ故、農作業に限らず、何らかの「食うための労働」に従事して、その余暇に好きな趣味を楽しむというライフスタイルが求められる。そして、労働を最小限に、余暇を最大限にすることが理想となる。大半の人はその理想を目指しているのが現実であるものの、それはやはり中途半端な理想ではないか。食うに困らぬ生活を確立して、その上で農作業などの好きな趣味に没頭することが悪いわけではない。むしろ、幸福なことだ。されど、その幸福に人として生きる「本当」があるとはどうしても思えない。「本当」は否応なく「労働の廃絶」を問題にする。単に「過酷な重労働の廃絶」ばかりではなく、「労働そのものの廃絶」を要請する。それは一体如何なる意味か。
ナディアの懸念(3)
人生は楽しむためではなく、苦しむためにある。その苦しみに耐え抜いてこそ人としての成長があり、それは神の祝福に値する。そのように説く聖職者をラファルグは資本家階級の倫理を支持するものだと揶揄している。確かに、そういう面はあるに違いない。その倫理の御蔭で、人は苦しい労働に耐えることができる。勤労もしくは忍従の倫理。しかし、それでは余りにも資本家に都合が良すぎる。そもそも資本家が労働者を苦しめて自分は楽しんでいるとすれば、その楽しみは「人生は苦しむためにある」という倫理に反している。また労働者にしても、その苦しみの先に昇進や昇給の楽しみがなければ到底頑張れないだろう。とすれば、「人生は苦しむためにある」という倫理はやはり不自然だと言わざるを得ない。だから、ラファルグもブラックも「人生は楽しむためにある」という自然に忠実な生き方を勧めている。そして、苦しみに満ちた労働は直ちにやめるべきだという結論に至る。されど、労働の廃絶もさることながら、苦しむことの拒絶は果たして「人生を楽しむこと」に繋がるだろうか。言うまでもなく、楽しいことと楽なことは違う。楽なことばかりしていても楽しくない。苦あれば楽あり、楽あれば苦あり。労働者を酷使して楽をしている資本家は「本当」に人生を楽しんでいるか。むしろ、過酷な労働に耐え抜いた達成感や充実感のある人生の方が楽しいのではないか。さりとて私は奴隷の如き労働者の方が人生を楽しんでいると言うつもりはない。ここで留意すべきは「主人と奴隷の弁証法」だ。奴隷は奴隷であることに安住すべきではなく、自ら奴隷であることを否定しなければならない。では、奴隷は自己否定して何になるべきか。当然、主人ではない。古き主人を倒して自ら新しき主人なれば苦しい労働から解放されて楽になるかもしれないが、それでは主人と奴隷が入れ替わったにすぎず、何ら楽しくない。主人が資本家で奴隷が労働者であるなら、その関係そのもののディコンストラクションが要請される。すなわち、それは「主人-資本家」の廃棄であると同時に「奴隷-労働者」の廃棄でもある。その意味での「労働廃絶」なら少しは理解されるかもしれない。それはナディアが懸念するような怠け者になることではない。
ナディアの懸念(2)
マルクスの娘婿であるポール・ラファルグに『怠ける権利』と題するエッセイがあることはよく知られている。その主張はボブ・ブラックの『労働廃絶論』において更に鮮明化されているが、私はそこに水平革命の神髄を見出す。ブラックは次のように言い切っている。
労働はこの世界における殆ど全ての惨状の源泉である。あなたが思い浮かべる殆ど如何なる悪も、労働することに、あるいは労働のためにデザインされた世界に住むことに由来する。苦しみを止めるためには、我々は労働をやめなければならない。
一般的に革命と言えば、それは労働者のための革命、すなわち資本家に搾取されない労働の実現として理解されている。しかし、それは不十分な革命にすぎない。理不尽な労働だけではなく、労働そのものの廃絶が実現してこそ革命は徹底される。とは言え、これは容易に共感されない主張であろう。殊に「働かざる者食うべからず」といった勤勉を美徳とする文化に育まれた者には全く怠け者の口実にしか聞こえない。ナディアにも叱責されそうだが、「本当」にそうだろうか。食うために額に汗して労働することは決して悪ではない。むしろ、美しい。悪は「はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る」しかない社会の歪んだ構造にある。正にその構造改革こそを労働者は望んでいるのであって、労働の廃絶などは有難迷惑でしかない。快く労働した後の一杯の生ビール!それ以上の幸福はない。それが一般大衆の共通感覚(常識)だと思われる。されど、実篤も「食うために労働する者が一人でもいる限り、その社会は未だ理想ではない」と述べている。これもまた怠け者の戯言にすぎないのだろうか。
ナディアの懸念
『ふしぎの海のナディア』というアニメを観ていたら、ノーチラス号の最先端の科学技術に驚いて「何でも機械で出来るなんて凄いなぁ!」と感心するジャンに対して、「機械が何もかもするようになったら、人間は怠け者になってしまうわ」とナディアが反論する場面があった。ナディアはヒネクレ者なのか。大半の人はジャンと共に科学技術の発展を歓迎するだろう。それは人を重労働から解放すると同時に、人にはできない作業を可能にする。危険な重労働からの解放はおろか、労働そのものからの解放も夢ではない。科学技術はこの世界をパラダイスにする。しかし、そのパラダイスで人は何をすればいいのか。遊んで暮らせばいいのだ。ナディアは「人間は怠け者になってしまう」と心配しているが、怠け者で結構ではないか。全世界の人が怠け者として暮らせるなら、それ以上の楽園はない。そもそも始源のアルカディアは無為自然の楽園であり、そこでは皆が例外なく怠け者として暮らしていたに違いない。食うために、生きていくために、殊更何かをする必要などないからだ。怠け者の楽園は素晴らしい。ところが、人はその素晴らしい無為自然の楽園を失ってしまった。無為に耐えられず、食って寝る以上の何かをしたいと思ったからだ。無為から有為へ。その選択は正しかったのか。無為が幸福だとしても、それは家畜やペットの幸福にすぎない。それでもいい、誰かのペットとして安穏に暮らしたい。そう願う人が大勢を占めるのなら仕方ないが、ヘーゲルは「ケダモノのみが楽園に安住できる」と述べている。とは言え、楽園を後にした人にケダモノ以上の何ができるのか。それが科学技術に結晶しているとも考えられるが、その発展が人を怠け者にしているとすれば、人の「本当」に為すべきこととは到底思えない。それとも人は科学技術によって再び無為自然の楽園に回帰しようとしているのであろうか。もしそうなら、人工楽園のパラダイスはその極北において自然楽園のアルカディアを回復せんとしていることになる。ナディアの懸念は尽きない。
純白の理解に参考となる少し長い引用
「日本語において、現象Erscheinungと本質Wesenとをあらわす最も通常的なことばは何だね。学術用語ではいけない。一般に話される普通のことばでそれを現すものはないか?」
このハイデガーの問いに対して手塚富雄は次のように答えた。
「これは通常語ということはできません。元来が仏教語で、意識された思想語です。しかし、すでに長いあいだ日本人のこころになじみになっているものであり、一般にも流布されている点で、かなり通常語に近くなったと言えると思います。それは、色と空ということばで、色は現象、空はだいたい本質にあたると思います。ところで仏教思想、またそれと類縁をもつ日本人の思考においては、この両者は対立するものですが、また同一のものとして把握されます。このことは哲学的思考というより、自然に、素直に、一般人の気もちにしみこんでいるということもでき、そのことがありますために、このことばは、おたずねのことにたいして、答えになると思います。その同一的把握とは、色即空、空即色という考えかたで、これが、かなりわれわれの意識の底にしずんでいます。なお、ことばの意味をよりくわしく言えば、色はいろ、色彩、したがって現象。空は本来Leereでしょうが、またそらHimmelであり、das Offene(ひらいた世界)でもあります。一面では空無ですが、その空無は消極的な意味ばかりでなく、万物の根源的なありかた、したがってまた理想として追求される状態を指向していると思います。仏教はことにそれを自覚します。そして、前に言いました日本芸術の象徴性というのは、ひっきょう、こういう空を象徴するものなのであり、そのことができれば、上乗のものとして、人々から受け取られます。色が即空なとき、色は本質性にむかって踏み出すのですが、そのばあい、その本質の予感は、こういう空無的、無限定的方向をとるのが、われわれのほうでの伝統的な考えかた、感じかたであるようです。さきほど先生は、日本芸術の形而上学性といわれましたが、それは、こういうおもむきをもった形而上学性だと思います。ひっきょう、日本芸術は、ある意味での空間芸術で、そこに長所も制約もあると思います。」
「色が即空なとき、色は本質性にむかって踏み出す」という手塚氏の言葉は純白の理解に大変参考になる。ただし、純白の理想は現実の世界で無傷ではいられない。必ず実定化する。すなわち、実質的には白色として機能して、それが絶対的な色となる。我々はその運命を克服しなければならない。かくして純白の死から始まるドラマが要請される。
「こころ」の映像化
昨日の補足に関連して、漱石の『こころ』の映像化について調べてみた。昭和三十年(1955)に市川崑が映画化していた。当然、白黒作品だ。その後、カラーで何度かテレビドラマ化されているが、殊更観たいという気にはならない。「こころ」が描かれているとは到底思えないからだ。市川崑の映画にしても、森雅之の先生を筆頭に映像としては興味深いものの、結局は三角関係のメロドラマにすぎない。それは少し言い過ぎかもしれないが、映像化できるもの、そして映像化に相応しいものはやはり出来事だろう。因みに、ドストエフスキイの『罪と罰』のロシア映画を観たことがあるが、映像化されているのは老婆殺しという罪を犯した青年が罰せられる出来事だけだったような気がする。その水平的出来事の奥底にある「こころ」の垂直的葛藤はなかなか映像化できるものではない。畢竟、言葉で表現するしかないと思われる。とは言え、役者の単なる長台詞で表現できるものでもない。そもそも「こころ」が生み出す真理は語り得ぬものであり、常に言葉の限界を超えている。だから、言葉では語り得ぬ「こころ」の動きを名優の演技で表現できるということはあり得る。その場合、名優は目に見えぬものを見えるようにするという逆説の演技をしていると言える。極めて稀なことではあるが、言葉の限界を超える演技(身体的言語と言えなくはないが)の可能性を私は否定しない。もとより出来事を演じる水平的役者が主流ではあるものの、「こころ」を表現する垂直的役者が待ち望まれる。そこにのみ「こころ」を映像化する意味がある。
補足:色即是空 空即是色
カルビーというお菓子屋さんのポテトチップスなどが従来のカラフルなパッケージから白黒パッケージになったことが話題になった。経済的な理由からだとは思うが、店頭に並んだ商品を見ると、白黒パッケージは逆に目立っている。不自然だからだ。今や我々の日常世界は色に溢れている。テレビもカメラもカラーが当たり前。更に4Kだの8Kだのと「本当」の色の追求に余念がない。そんな中での白黒の世界は新鮮に映る。映画や写真も然り。白黒の作品にはカラー作品にはない何かがある。不思議なことに、白黒の方がリアリティを感じる場合がある。カラーの方がリアルな筈なのに何故だろう。鄙見によれば、人の内面世界を描くには白黒の方が優れているような気がする。内面世界は無色だと言うつもりはない。そもそも白黒は無色ではない。ただ、白黒は日常の色が抜け落ちた世界、その意味では無色に近い世界だと言えるのではないか。因みに、カラーの夢を見る人もいれば、白黒の夢を見る人もいると言われている。その差異についての研究も進んでいるようだが、白黒の夢はより非現実的だと思われる。尤も、非現実的なSFの世界はカラーで描いた方が効果的ではあるが、人の内面描写に色は邪魔になるだけだ。結局、我々が日常的に生活している水平の次元は色の世界だが、そこを垂直に貫く精神の次元は色を超越している。私にはそんな気がしてならない。ただし、諄いようだが、色の超越とは色の無化(無色)ではない。或る詩人は「言葉のない世界を発見するのだ 言葉をつかって」と歌ったが、同様に「色のない世界を発見するのだ 色をつかって」と言えるかもしれない。
補足:「光」にして「存在」
絶対を表現する。無理なことは重々承知している。絶対を表現すれば、否応なく絶対者になってしまう。絶対者は絶対ではない。それは相対者が絶対の仮面を付けているにすぎない。絶対をつかまえることなど絶対に不可能だ。それにも拘らず、人は絶対への問いを断念できない。ハイデガーの存在への問いも然り。彼は存在者の実存分析を通じて存在に辿り着こうとした。当初の構想通りには進まなかったものの、彼は確かに存在に辿り着いたように思われる。それは如何なるものか。ハイデガーの思索そのものからは少し離れるが、その一つの表現を私は次のような文章に見出す。
モッラー・サドラーは、スフラワルディーの「光」の中に、そしてイブン・アラビーの「存在」の中に、ハイデガーがドゥンス・スコトゥスの「存在」(ens)という言葉の中に見出したような、絶対的なる「一」(存在)と無限なる「多」(存在者)が矛盾しつつも一つに重なり合う様を、「一」(存在)から「多」(存在者)が生み出される様を、見つめ続けていた。そして、その両者を一つに統合したのである。「光」にして「存在」。そこでは「存在は実在的には一であると共に多であり、多でありながらしかも一である」。(安藤礼二「ハイデガーからスフラワルディーへ:アンリ・コルバンとハイデガー」)
「一」即「多」。「光」即「存在」。絶対を表現しようとすれば、結局はそこに辿り着く。絶対矛盾的自己同一。coincidentia oppositorum.そうした表現も基本的には同じだ。問題は絶対を絶対者にしないこと、さりとて絶対の実定化は避けられない。アレーテイアとしての真実からポイエーシスとしての真理へ。浄化と聖化。絶対のドラマは語り尽くせない。
補足:絶対的な色
言うまでもなく、「絶対的な色」という表現は矛盾している。あらゆる色は相対的であり、絶対的な色などあり得ない。余談ながら、或るテレビ番組を観ていたら、黒人差別をする白人ダンサーに対してジョセフィン・ベーカーが「あなたたちの白い肌の下には黒い心があり、私の黒い肌の下には白い心がある」と言ったというエピソードが紹介された。野暮を承知で言えば、彼女の皮肉を込めた心情は理解できるが、その言葉は正しくない。そのままでは依然として「白が善で、黒は悪」という差別に囚われている。尤も、「勝てば白星、負ければ黒星」とか「無実がシロで、犯罪がクロ」など、既に慣習化している表現にまで差別を見るべきかどうかは定かではない。信号機の色のように、それぞれの色には固有の意味が付着しているものの、やはり正しくは「あなたたちの白い肌は純白ではない。私の黒い肌こそ純白だ」と言うべきだろう。しかし乍ら、一般的に純白は最高度の白色としか見做されておらず、あらゆる相対的な色を超越する絶対としては理解されていない。つまり、純白は目に見えないので、「黒い肌こそ純白だ」と言っても意味を成さない。目に見えるのは肌の黒い色だけだ。とすれば、ジョセフィン・ベーカーもまた結局は「Black is beautiful!」と叫ぶしかないのであろうか。もしそれが「黒こそが絶対的な色だ」という意味なら、愚かな白人至上主義者と同じことになる。黒に限らず、肌の色の差別は絶対的な色によって行われる。従って、「どの肌の色も美しい」という相対主義を徹底させるためには絶対的な色を死滅させねばならない。それが純白による浄化だ。ただし、目に見える相対的な色を超越する絶対を純白と称する必然性はないのかもしれない。原理的には、純黒でも純赤でもいい筈だ。最も光に近いという意味で純白はやはり特別なのだろうか。色の慣習的(伝統的)意味の必然性と同様、勉強不足で私にはよくわからない。
純粋白色批判(10)
絶対的な純白による浄化は一つ間違えば「大審問官の論理」に堕す。勿論、純白が大審問官の如き絶対者になることはない。真の絶対は絶対者にはならぬ。「絶対者-相対者」という対の次元を超越するのが真の絶-対だ。もし純白が絶対者になるとすれば、それは絶対の次元から転落して相対的な白色に転化したことを意味する。それは本末転倒だ。しかし、純白の実定化は避けられない。既に純白という言葉自体が実定化だ。厳密には純白について語ることなどできず沈黙するしかない。それにも拘らず、敢えて純白を批判するのは何故か。水平革命の限界を見極めるためだ。純白先生同様、私も「世界の水平化」を切望している。それは「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という賢治の信念にも通じている。ただし、個人の幸福は全体の幸福に包摂されるようなものではない。言い換えれば、全体の幸福は滅私奉公によっては実現しない。また、個人の幸福の集積が全体の幸福になるのでもない。二つの幸福は質的に異なりながらも相即している。「世界の水平化」は個々それぞれの幸福を求めるが、否応なく個人主義に閉塞していく危険性を孕んでいる。純白の浄化はそれぞれの色がそれぞれの在り方で輝く相対主義の徹底をもたらす。それが「世界の水平化」であり、或る特定の色が絶対化することのない世界を実現する。されど、人はそうした個人主義=相対主義の徹底に耐えられるだろうか。それは一つのニヒリズムではないか。人には絶対的なものへの渇望がある。絶対的なものとの関係なくして生きていけない。それ故、相対的な様々な色を超越する絶対的な純白を絶対者(絶対的な色)と見做してしまう。先述したように、それは本末転倒であり、純白の浄化を台無しにするものだ。純白による世界の浄化、すなわち「世界の水平化」は我々の人生にとって不可欠ではあるものの、それ自体では完結しない。浄化は聖化に接続する。聖化のドラマを通じて、単色の人は複色の人間の次元を切り拓いていく。