補足:ウロボロスの真理
社会の浄化は避けられない。人々の生活を脅かす悪人が必ずいるからだ。悪人は浄化されなければならない。悪人を根絶して、善人だけの世界にする。多くの人はそこにパラダイスを見出すだろう。癌の切除が健康を回復させるように、悪の徹底した排除が社会をパラダイスにする。しかし、私には違和感がある。それは私が悪人だからかもしれないが、善人だけのパラダイスはキレイ過ぎるからだ。白河の清きに魚も住みかねてもとの濁りの田沼恋しき。とは言え、私の違和感は「生活の濁り(猥雑さ)」に対する愛着に尽きるものではない。或る程度、悪の両義性もしくは根絶すべき悪を特定することの難しさによるものだが、「善の研究」と「悪の研究」は切り離せないのではないか。TheologyとDemonologyはウロボロスの関係にある。どちらが頭なのか定かではないが、相反する二つは一つの真理を表現しようとしている。さりとて真理は悪を容認するものではない。聖化の真理は浄化の真実と相即すべきだ。もとより猫も杓子も相即でケリ がつくわけではない。悪を容認しないのなら、悪の浄化と区別される聖化とは何か。既に人間のクズのマルメラアドフも娼婦のソオニャも聖化されてはいるが、ラスコオリニコフは未だ聖化されていない。我々には聖化の物語を書き継ぐ使命が課されている。
補足:人間のクズ
聖化とは何か。その真理が究極的な理想だと信じてはいるものの、それは結果的に悪を容認してしまうのではないか。その懸念が拭い難く私の胸の裡に巣食う。浄化の真実は悪を徹底的に断罪する。キタナイもの、不正、理不尽なことを世界から一掃し、善人だけが幸福に暮らせる社会を実現する。そこに人間のクズの居場所はない。おそらく、殆どの人はそうした浄化の徹底された社会を歓迎するだろう。至る所に防犯カメラを設置して、一片の悪も見逃さない監視社会の実現。既にそれが現実の理想社会になりつつあるが、それでいいのか。聖化は異議を唱える。残念ながら私はその異議を上手く表現できないので、少し長いがマルメラアドフに代弁してもらう。娘のソオニャを娼婦にした父親は次のように叫んでいる。
「気の毒がる!なんのためにわしを気の毒がるんだ!」とマルメラアドフは、まるでこのことばを待ち構えていたように、極度に興奮した様子で、片手を前へ突き出して立ち上がりながら、ふいにわめき立てた。「なんのために気の毒がることがあるんだ?そうとも!わしを気の毒がるわけなんか毛頭ないとも!わしなんか磔(はりつけ)にせにゃならん人間だ。十字架で磔にするのが本当で、気の毒がるどころの物じゃないとも!しかしな、判事、磔にするのはいいが、磔にしてからわしを哀れんでくれ!そうすれば、わしの方から進んで罰を受けに行くわ。わしは快楽(けらく)に渇しておるのじゃなくって、悲しみと涙を求めておるのだからな!……やい、亭主、きさまはこの小瓶がわしの楽しみになったと思うかい?わしはこの底に悲しみを求めたのだ、悲しみと涙を求めたのだ。そして、それを見出したのだ、味わったのだ。ただ万人を哀れみ、万人万物を解する神様ばかりが、我々を哀れんでくださる。神は唯一人で、そしてさばきに当たる人だ。最後の日にやって来て、こう尋ねてくださるだろう。『意地の悪い肺病やみの継母のために、他人の小さい子供らのために、われとわが身を売った娘はどこじゃ?地上に住んでおった時、酔っぱらいでやくざものの父親をも、その乱行をも恐れずに、気の毒がった娘はどこじゃ?』それからこうもおっしゃるだろう。『さあ来い!わしはもう前に一度お前を許した……もう一度お前を許してやったが……今度はお前の犯した多くの罪も許されるぞ、お前が多く愛したそのために……』こうして娘のソオニャは許されるのだ……許されるとも、わしはもうわかっとる、きっと許されるに相違ない。わしは先ほどあの娘のとこへ行った時、この胸ではっきりとそれを感じたのだ!……神さまは万人をさばいて、万人を許される、善人も悪人も、知恵ある者もへりくだれるものもな……そして、みんなを一順済まされると、今度は我々をも召し出されて、『そちたちも出て来い!』と仰せられる。『酒のみも出て来い、意気地なしも出て来い、恥知らずも出て来い!』そこで、我々が臆面もなく出て行って御前に立つと、神さまは仰せられる。『なんじ豚ども!そちたちは獣の相をその面に印しておるが、しかしそちたちも来るがよい!』すると知者や賢者がいうことに、『神さま、何ゆえ彼らをお迎えになりまする?』するとこういう仰せじゃ。『知恵ある者よ、わしは彼らを迎えるぞ、賢なる者よ、わしは彼らを迎えるぞ。それは彼らの中の一人として、自らそれに価すると思うものがないからじゃ……』こう言って、我々に御手を伸ばされる。そこで、我々はその御手に口づけして……泣き出す……そして、何もかも合点がいくのだ!……そのときこそ何もかも合点がいく!……誰も彼も合点がいく……カチェリイナも……あれも同様合点がいくのだ……主よ、汝の王国のきたらんことを!」
知者や賢者はマルメラアドフの如き人間のクズが救われることに合点がいかないだろう。浄化の真実を愛する者は当然そう思うに違いない。人間のクズは地獄に堕ちるべきだ。それにも拘らず、聖化はそんなクズどもも決して見棄てない。聖化の恩寵は人知を遥かに超えている。そのドラマは永遠に続く。
蓼食う虫の懸念(10)
愚直な蓼食う虫は浄化と聖化の差異に真剣に悩んでいる。一体、何が違うのか。海も山も空も、取り返しのつかないほど汚れてしまった。今や世界全体が腐臭を放っている。「世界の浄化」の必要性と緊急性を誰も疑わない。実際、世界の至る所であらゆるものをキレイにする運動が進んでいる。しかし、それはキタナイものを排除する運動でもある。そこに陥穽がある。キレイなものとキタナイものとを明確に区別できないからだ。それは単に「Aにとってはゴミにすぎないが、Bにとってはお宝だ」というような好みの違いに尽きるものではない。昨日の便りで述べたヨイトマケの母親のように、「本当」の生活においてはキレイなものとキタナイものが相即する真理が問題になる。勿論、日常的にはキタナイものを一掃することで世界をキレイにする真実が優先される。害虫は駆除すべきであり、キタナイものを放置することはできない。しかし、水平の次元では浄化を徹底すべきであるものの、奇妙なことに何かが歪む。どうして浄化の徹底という真実が世界を歪ませるのか。徹底的にキレイになった無菌世界がどうして生き辛さを生むのか。未だよくわからないが、「ドブネズミの美しさ」を求めるような真理があるような気がしてならない。さりとてキタナイものを容認しようとは思わないが、キレイなものを超越する美しさが必ずある筈だ。ヨイトマケの母親もさることながら、娼婦であると同時に聖女でもあるソオニャの如き美しさだ。上手く表現できないが、水平の次元における浄化の徹底は垂直の次元を切り拓く聖化を要請するに違いない。浄化と聖化も相即すべきであり、聖化なき浄化は世界から彩を奪ってしまう。「世界の聖化」を求めて、蓼食う虫の懸念は当分終わりそうにない。
蓼食う虫の懸念(9)
何が美しくて、何が醜いのか。相変わらず美醜の相剋に悩む蓼食う虫は改めて「世界の浄化」について考えている。街からゴミがなくなり、反社会的な輩も一掃され、総じて世界がキレイになるのは望ましい。殊にコロナ禍以降、キレイになることは当然の義務と化し、幸福に生活する条件にさえなっている。ただし、害虫と見做されている者たちにとっては違う。「世界の浄化」は恐怖でしかないだろう。かつて民族浄化の名の下に殲滅の対象とされたユダヤ人の運命は決して他人事ではない。実際、学校のあちこちでは依然として「バイキン駆除」と称する虐めが横行している。移民に対するヘイトも然り。「世界の浄化」はいとも容易く凶器に転化する。一体、どうすればいいのか。美醜の対立を超越する次元に活路があると言われても、それは具体的に如何なる次元なのか。光溢れる天国とも、暗黒の満ちる地獄とも、それぞれ可能性としては考えられる。二項対立の魔からは逃げられそうにない。いや、むしろ逃げるべきではないと私は思う。重要なことは、二項対立の魔と共に、あるいはその魔において生きることではないか。超越と内在は相即する。余談ながら、そうした相即の一例として、美輪(丸山)明宏氏が自身の名曲『ヨイトマケの唄』について語っていたことが思い出される。それは大略、次のような話だった。
美輪氏の故郷は長崎だが、その小学校時代の同級生にいつもボロを着て洟を垂らしているキタナイ子がいた。明らかに貧乏で、父親はおらず、母親がヨイトマケをして、その子を大事に育てていた。そして、或る授業参観の日、そのヨイトマケの母親がキタナイ仕事着のままやって来た。着飾ったキレイな母親たちの中で、その姿は目立ったが、そんなことは全く気にする様子もなく、ただ一心に我が子の姿を凝視めていた。やがて昼休みになると、そのキタナイ母と子は校庭の片隅で何やら楽しそうに話していたが、母親は徐に子の鼻に口をつけると思い切りズルズル洟を吸い上げて、それを地面にペッと吐き棄てた。その光景を見ていた美輪氏は咄嗟に「何てキタナイ!」と心の中で叫んだが、同時に何かこの世のものとは思えぬ「途方もない美しさ」も感じていたそうだ。
ヨイトマケの母親はその姿も行為も実にキタナイが、着飾って上品な他の母親の誰よりもキレイだった。その「キタナイがキレイ、キレイがキタナイ」現実を目の当たりにした感動から『ヨイトマケの唄』という名曲が生まれたが、最もキタナイものと最もキレイなものとの相即は「世界の浄化」にとっても活路になるに違いない。それは「世界の聖化」に通じている。
蓼食う虫の懸念(8)
真面目だけが取柄の蓼食う虫は美醜が対立する次元の超越に懸念を懐いている。それもまた、結局は現実逃避ではないか。美しいものと醜いものとが鬩ぎ合う現実の中で、自分が美しいと信じるものが少しでも輝く世界をつくるべきではないか。言わば、世界の浄化だ。美しいものが醜いものを徹底的に駆逐していくドラマ。それに伴って、この世界から不正や理不尽なことがなくなっていくのは素晴らしい。誰もがそれを望んでいる。しかし乍ら、美醜が対立する次元の超越がもたらすものは果たして絶対的な美の勝利であろうか。そこはまた善悪の彼岸でもあるとすれば、もはや勧善懲悪のドラマは機能しない可能性だってあるだろう。余談ながら、かつては絶対的なヒーローであった桃太郎が最近はヴィランとして理解されている。すなわち、一方的に鬼退治をした桃太郎は侵略者にすぎないという理解だ。実際、トランプや他の大国の独裁者がその支持者の目に桃太郎として映ってもおかしくない。或る人たちには美しきヒーローが他の人たちには醜いヴィランとなる。美と醜が錯綜する現実においては軽々にその対立する次元の 超越を口にすることなどできない。美と醜に限らず、善と悪、有と無など、二項対立の超越は哲学の永遠の課題ではあるが、所謂「対立者の一致」がそのまま世界の浄化に繋がるわけではない。むしろ、美しき光に満ちた浄化には蓼食う虫を憂鬱にさせる何かがある。
蓼食う虫の懸念(7)
嫌われ者の蓼食う虫は時に自己嫌悪に陥る。何の因果で揚羽蝶のような美しい虫に生まれてこなかったのか。そう思って世を儚む。しかし、どうして揚羽蝶が美しくて、自分は醜いのか。誰の仕業か知らないが、公的領域で決められていることは間違いない。我々は公的な美醜に縛られている。ならば、そんなものからは自由になればいいのだ。何が美しくて、何が醜いか。それはそれぞれの私的領域で決めればいい。そして、それぞれの私的な美醜に生きればいい。それは昨今流行(はやり)の多様性の尊重でもある。誰が何と言おうと、蓼食う虫は自分の美しさを信じて生きればいい。何も自分が一番美しいと思う必要はない。皆がそれぞれ美しい。それを「皆美(かいび)の理想」と称するならば、確かにそれは蓼食う虫を自己嫌悪から救い出す。もはや自分は醜いと悩む必要はなくなるだろう。しかし、その救いは所詮自己満足への逃避にすぎないのではないか。自己嫌悪を単に自己満足に転化させるだけでは「本当」の救いにはならない。そもそも皆がそれぞれ美しいとすれば、それは醜いものの絶滅を意味する。揚羽蝶は美しい。蓼食う虫も美しい。ゴキブリも、ムカデも、マムシも美しい。そのように醜いものが全く存在しなくなった皆美の世界は素晴らしい。されど、その実現は至難の業だ。殆ど不可能に近い。原理的に言えば、醜いものが絶滅すれば、同時に美しいものも絶滅するからだ。少なくとも、この現実世界(水平の次元)では、美しいものと醜いものは対として存在している。一方が絶滅すれば、他方も絶滅するのは理の当然だ。従って、「皆美の理想」は畢竟見せかけだけのキレイゴトにならざるを得ない。美しいものだけが支配する世界は美しくない。「皆がそれぞれ美しい」と口では言いながら、心の内では「それは建前にすぎない」と思っている。とは言え、私は「皆美の理想」を一概に否定するつもりはない。ただ、自己満足ではそれを「本当」に実現することはできないと思っているだけだ。問題は、美しいものと醜いものの対を超越する次元、言わば「対立者の一致」の次元を切り拓くことにある。嫌われ者の蓼食う虫はそうした次元の現実性について深く考えねばならない。
蓼食う虫の懸念(6)
臆病者の蓼食う虫は孤立して孤独になるのを極端に恐れている。だから、いつも誰かと一緒にいたいと思う。それ故、誰かとの仲良き関係を求めて街に出る。しかし、群衆は蓼食う虫の孤独を癒してくれない。むしろ、群衆の中で蓼食う虫の孤独は一層深まるばかりだ。さりとて同調圧力が渦巻く社会の中で、皆と仲良く暮らしていく自信はない。そんな無理をして仲良き関係を保つくらいなら、いっそ孤独のままでいい。殆ど諦めの境地だが、孤独な蓼食う虫に活路はあるのか。その一つの可能性が単独に見出される。因みに、アーレントの『人間の条件』を新たに訳した千葉眞氏はその訳注の中で単独を次のように説明している。
単独でいる時、人は必ずしも孤独ではなく、自己と自己自身との間に不断の対話を持ち、その意味で公的領域における人々の相互主体的な対話のプロセスを、自己の「思考」(thinking)の中ですでに内面化している。単独の中に生きる人は、内面世界の常態である対話的生活を自己の内面に閉塞させることはなく、それを「交友関係」を通じて外的世界で対話を不断に追求する。
単独に徹する。それは決して孤立することではない。単独であることが「本当」に連帯することの前提になるだろう。それは公的領域の再構築と密接に関係している。願わくは私的領域に埋没する群衆を戦慄せしめよ!臆病者の蓼食う虫は今や単独者として生きる勇気を持たねばならぬ。
蓼食う虫の懸念(5)
寂しがり屋で平和を愛する蓼食う虫は争いを好まない。できれば皆と仲良く暮らしたいと思っている。されど自分の好みを変えるつもりはない。蓼食う虫は意外と頑固者だ。その頑固さを維持したまま、彼は皆と仲良くできるだろうか。時代はかなり多様性を尊重するようになったとは言え、世界には未だ好みが異なる者同士の対立・分断が目立っている。自分たちとは異質な者を虐めて排除するのは極めて自然なことだ。従って、自然のままに生きるなら、同質の者とだけ関係すればいい。蓼食う虫も「自分たちの国」をつくって棲み分ければ平和に生活できるだろう。しかし、そんな分断の上に成立する平和が「本当」に平和と言えるのか。そもそも同質な者だけの平和など画餅にすぎない。それは原理的には想定できても、現実にはあり得ない。現実は常に異質な者を孕んでいる。蓼食う虫は非力なくせに現実とそれに立脚した「本当」に執著している。自分はしがない蓼食う虫にすぎないが、「本当」に生きることにおいて妥協はしたくない。心からそう思っている。それ故、蓼食う虫は「自分たちの国」をつくるのに吝かではないものの、そこに閉じ籠るのは本意ではない。大国に呑み込まれないように自らの独立を死守することは肝要だが、独立が究極的な目的ではない。確かに、世界が大国のエゴイズムに翻弄されている昨今、それぞれの「自分たちの国」には独立以上の理想を求める余裕はないかもしれない。分断の壁を高くすることによってしか守られない平和の現実がある。ゲーテッドコミュニティ(gated community)の平和。しかし、だからこそ、蓼食う虫は連帯の理想から遠ざかる現実に懸念を懐かざるを得ないのだ。余計なお世話だろうか。
蓼食う虫の懸念(4)
心優しき蓼食う虫は人から「蓼食う虫も好き好き」などと嗤われながらも、その諺通りの社会の実現を求めてきた。「君は君、我は我也。されど仲良き」という自他共生社会の実現だ。幸いなことに、世の中はいつの間にか多様性が尊重されるようになり、かつては変態と罵られていた人たちもその「生き方」が社会的に認められるようになった。もはや蓼食う虫もLGBTQも(と同列に扱うのは失礼だろうか。しかし、「ミミズだって、オケラだって、アメンボだって、みんな、みんな、生きているんだ、友だちなんだ」とすれば、全く問題ないだろう。むしろ、失礼だと思う方に問題がある)その「特異な好み」故に否定されることはない。とは言え、この「ナンデモアリ」の現状が蓼食う虫の求めてきた社会なのだろうか。確かに、これまで蓼食う虫はその「特異な好み」によって虐げられてきた。「どうしてあんな不味いものを食べるのか。信じられない!」とバカにされ、差別されてきた。それが曲がりなりにも「君は君、我は我也」として蓼食う虫の「特異な好み」が認められたのは大きな進歩だと言える。しかし、その進歩は「されど仲良き」という調和にまで発展しているのか。多様性が尊重される現代社会の真実は「本当」に自他共生の理想を実現しているのか。全ては自助努力の賜物であり、貧乏になるのも、金持になるのも、それぞれの多様性だとされるなら、その自由放任はむしろ競争社会を助長するに違いない。さりとて富の平等を強制する一様性の社会に自他共生の理想があるとも思えない。戸惑う蓼食う虫の懸念は続く。
蓼食う虫の懸念(3)
蓼食う虫は病んでいる。その好みが病んでいるのではない。自分の好みと他人の好みとの差異に執著し過ぎる点において病んでいる。健康であれば、そんなことには悩まない。好みの違いは当然のこととして受け容れられる。同一性と差異性。寂しがり屋の蓼食う虫は皆と同一になりたいのか。そういうわけではないだろう。他人の好みや平均的な好みに迎合するつもりはないと明言している。また自分の好みはオンリーワンだと自負してもいる。問題はやはり、このオンリーワンという意識にあるに違いない。かつて「ナンバーワンにならなくてもいい。元々特別なオンリーワン」と凡人を励ますヒット曲があったが、「本当」にそうか。ナンバーワンは比較の地平を前提にしている。例えば、様々な色がある中で、どれがナンバーワンの色か決めようとする。これまでそうした比較=競争の生き方に駆り立てられてきた多くの人は疲れ果て、今やその虚しさに気づいている。ナンバーワンの色なんてない。それぞれの好みの色があるだけだ。かくしてナンバーワンの色は否定され、それぞれの好みの色がオンリーワンとして肯定されるようになった。多様性の時代の到来。それはあらゆるものが相対化される時代でもある。ところが、現実には未だナンバーワンの追求は死んでいない。色に関しても、金色が依然としてナンバーワンに君臨しており、次いで銀色、銅色とランク付けされている。あるいは白を特別視する伝統も否定できない。所詮、オンリーワンの色など単なる凡人の気休めにすぎない。それに厳密に言えば、「特別なオンリーワン」という言葉は矛盾している。それは「それぞれが自分にとってはナンバーワンだ」と言っているに等しい。未だナンバーワンに囚われている。少なくとも「元々特別なオンリーワン」」などと言われて慰められているような意識に「本当」のオンリーワンはない。そこに孤独な蓼食う虫の懸念がある。