嫌な奴とも仲良くする必要があるのか(8) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

嫌な奴とも仲良くする必要があるのか(8)

NHKスペシャル『シリーズ人体』を観ていると、イノチの神秘に驚愕の連続だ。自分の意識していない細胞内でかくも様々な物質が懸命にイノチを維持しているかと思うと、その「巨大ネットワーク」に「何事のおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」という西行のような心境になる。そこに私の主体性はなく、「私」は完全に生かされている。そのイノチはあらゆるイキモノに共通する根源的なゾーエーであり、人に特有だとされている意識的なビオスの次元などイノチの氷山の一角にすぎない。意識の発生についてはよくわからないが、おそらく何らかの物質の働きによるものだろう。言わば、無意識に生きるゾーエーが「実」で、意識的に生きるビオスが「虚」だ。あるいは、イノチをゾーエーとビオスに区別すること自体が「虚」だと言うべきなのかもしれない。しかし、人は「自分が生きていることにどんな意味があるのか」と問う。「人生の意味」を問わずにはいられない。その結果、「人生不可解」という言葉を残して華厳の滝に身を投じる人もいる。これはビオスの絶望によるゾーエーの否定であり、「虚」が「実」を否定するという倒錯に他ならない。しかし、人生に意味を問う病がビオスの「虚」だとしても、人はビオスの次元を棄てるべきではないと私は思う。確かに、ビオスはイノチの氷山の一角にすぎない。それを棄てて根源的なゾーエーの次元に遡れば、「人生の意味」の不在に苦しむこともなくなるに違いない。「嫌な奴」と「良い人」の差異もなくなり、更にはヒトと他のイキモノの差異もなくなる。あらゆる存在が一つの大きなイノチの円環に巻き込まれていく。正に大調和!果たして、一個の細胞(ルカ)から始まるイノチの大調和こそが理想なのか。それを否定することはできないが、私はその大調和を一直線に破る差異化のイノチ、すなわちビオスに究極的な理想に向かう可能性を求めたい。人が生きる様々な苦悩は全てビオスの次元で生まれる。ゾーエーの次元ではその苦悩一切が初期化される。しかし、初期化は苦悩の一時的な解消ではあっても根源的な克服ではない。たとい苦悩が「イノチの病」だとしても、私はカミュと共に「病から癒えるのではなく、病みつつ生きること」を望む。