補足:嫌な奴がいなくなった世界 | 新・ユートピア数歩手前からの便り

補足:嫌な奴がいなくなった世界

一般的には嫌な奴がいなくなれば世界は良くなると思われている。しかし、誰が嫌な奴なのか。当然、私個人にとっての嫌な奴なのだが、世界を私の好きな色だけで染め上げるのは不可能だ。私の好きな人を嫌う人もいれば、私の嫌いな人を好きになる人もいる。その判断は容易に見極め難いが、人は同質のものを好み、異質なものを嫌う傾向にある。とは言え、問題を複雑にするのは、人には異質なものへの憧れ、もしくは異質なものになりたいという願望があることだ。黒髪の日本人が金髪に染める。「日本人のくせになんだ!」と非難されて「嫌な奴」というレッテルが貼られる。「日本人は黒髪」という同質性の支配が強要されるならば、我々はむしろ異質な「嫌な奴」になるべきではないか。金髪でも茶髪でも何でもいい。如何なる人も同質性に束縛される必要はない。さりとて「日本人は黒髪」という同質性=自然性を軽々に否定することはできないし、否定すべきではないと思われる。日本人には日本人の生き方がある。それは黒髪などの身体的特徴もさることながら、生活習慣を含めた国民性であり、そこに日本人のUrbildがある。ただし、Urbildに束縛される必要はなく、そこから日本人のVorbildを実現していくことが重要だと私は考える。「日本人だからこうすべきだ」とUrbildに後向きに限定されるのではなく、「日本人として生きる理想は何か」と常にVorbildを前向きに求めていくべきだ。Urbildを中心に同族が形成されるとすれば、Vorbildを求めていくのは異族だ。同族と異族の対立は世界の至る所で紛争を起こしているが、私は「同族の中の異族」にこそ注目したい。嫌な奴がいなくなった世界はユートピアと見做されるかもしれないが、実際はディストピアに他ならない。

 

さて、コメント欄で私の意見を求められた「新しき村の公益法人としての認可」について一言だけ。風の便りに認可を知ったが、公益法人として認可された村がこれからどんな活動をしていくのか、詳しいことは何もわからないので私の意見は特にない。ただ、実篤先生が築いた新しき村のUrbildを見失うことなく、村のVorbildを実現して欲しいと望むだけだ。私は村ではずっと「嫌な奴」にすぎなかったが、今でも村のVorbildを求め続ける異族であるという自負だけは失っていない。