補足:嫌な奴と十字架
玄関のチャイムが鳴った。世捨て人の私の家に誰が来たのかとドアを開けると、「お休みのところ大変申し訳ありません。聖書を読んだことがありますか」といきなり言われた。きちんとした身なりの初老の男性と、その後ろに清楚な若い女性が立っていた。宗教の勧誘だ。咄嗟にどう対応すべきか分からず、思わず「まぁ、読んだことはありますが」と正直に応えてしまった。「それは素晴らしい!」と初老の男は顔を輝かせ、何か訳の分からぬことを捲し立て始めたので、「すみませんが、今そういう話をしている暇がないんです」と私は言った。男は瞬時に表情を曇らせ、「そうですか。お忙しいところ申し訳ありませんでした」と頭を下げて去っていった。家の中に戻って暫くすると、近所のあちらこちらで同じやりとりが繰り返されていることに気がついた。追い払われても、追い払われても、懲りずにまた新たな家を訪ねていく。私は何だか気の毒になってきた。突然やって来る宗教の勧誘者は嫌な奴だが、それを追い返す自分も嫌な奴に思えてきた。どうしてだろうか。宗教の勧誘と言うが、本人たちにその意識はない。勧誘ではなく、伝道しているのだ。宗教の押し売りではないので、「間に合っています」と言われれば素直にその場を後にする。しかし、本当に宗教は間に合っているのか。宗教が問題になる垂直の次元は不要なのか。「今そういう話をしている暇がない」と私は言ったが、「そういう話」こそ今すべきではないのか。とは言え、いきなり聖書の必要を説かれても戸惑うのは当然だろう。それを信じる人たちにとって聖書は「人が生きる本当の意味」の源泉に違いないが、世俗に塗れて日々の生活に追われる人たちにその源泉に思いを致す余裕はない。とまれ、その有難い教え(福音)を一人でも多くの人に伝えたいと奔走する人たちは基本的に良い人たちだ。しかし、その良い人たちが「嫌な奴」として追い払われる。そもそもその原点であるイエスその人が「嫌な奴」の象徴として十字架刑に処せられた。ただ「人が生きる本当の意味」を伝えようとしていただけなのに、疎まれ、憎まれ、殺された。我々はその原事実の意味を今一度じっくりと考え直すべきではないか。良い人が「嫌な奴」としてこの世界から追い払われる十字架の意味を。