「見えないもの」の芸術(4)
武田泰淳の対談を読んでいたら、亀井勝一郎の次のような発言に出くわした。「ぼくは内村鑑三を読んだり、ゲーテの作品を見て感ずることは、要するに信仰と創作行為――広く芸術というものとは、これは相容れないな。絶対に相容れないな。」この発言に対して泰淳は「大賛成です」と応えている。ところが、別の対談で椎名麟三が「ぼくが洗礼を受けた時に、亀井勝一郎さんがこう言った。椎名麟三がほんとうのクリスチャンであろうとすれば、文学を捨てるべきである。ほんとうの文学者であろうとするなら、キリスト教を捨てるべきだと。」と発言すると、泰淳は「亀井さんはそれを言っちゃいけないですね」と語っている。この対比は竹内実氏の一文によって教えられたものだが、泰淳の応答の違いもさることながら、ここでは信仰と芸術との質的差異に関する亀井勝一郎の執拗な拘りに注目したい。これはイコノクラスム(偶像破壊運動)にも関係する問題だが、私は基本的に亀井勝一郎は正しいと思っている。信仰は「見えないもの」を「見えないもの」のまま信ずる行為であるのに対し、芸術は「見えないもの」を何とかして見ようとする行為だからだ。そして、「見えないもの」を「見えるもの」にすれば、それは否応なく偶像と化す。論理的に考えれば、「見えないもの」の芸術などあり得ない。しかし、それにも拘らず、我々は「見えないもの」の芸術という逆説を孕んだ行為を断念することができない。決して偶像に堕すことのない聖なるものの表現。矛盾としか思えない泰淳の応答の違いもその逆説の反映に他ならない。