「見えないもの」の芸術
『芸能きわみ堂』というNHKの番組がある。主に古典芸能の「今」を紹介する内容だが、先日は「幽玄の世界にCGが挑む!」と題して、能楽師が舞う背景をCGで描くという現代的試みを取り上げていた。私は能に詳しくはないが、CGで描かれた世界を背景に「松風」や「船弁慶」を舞う能楽師の姿を見て、素人ながら「これは駄目だ」と思った。CGの技術が駄目だ、ということではない。おそらく、CGの技術者は「松風」や船弁慶」の物語に込められた幽玄の世界を最大限に表現しているだろう。その表現は能楽師の舞を最大限に活かすものであるのかもしれない。しかし、そのCGによる表現が巧みなものであればあるほど、私にはそれが「余計なお世話」にしか見えなかった。何故か。野暮を承知で言えば、能は見る者の想像力を遊ばせる芸術であるべきなのに、CGはその遊びの邪魔をしているからだ。これは能に限ったことではない。およそ芸術の神髄は「見えないものを見えるようにする」ことにあると私は考えている。ただし、ここで私が言う「見えるようにする」とは決して単なる映像化ではない。実際、映像化を拒む文学がある。そのような文学を映像化しても(厳密に言えば、映像化は不可能だが)、それによって「見えないものを見えるようにする」ことはできない。勿論、映像化を歓迎する文学もある。大衆小説だ。そこでは「見えるもの」を中心に物語が展開し、そもそも「見えないもの」は問題にされていない。私は大衆小説を蔑視するつもりはないが、「見えないもの」を核とする純文学とは厳密に区別すべきだとは思っている。能も純文学に匹敵する芸術であろう。そこに余計な映像は必要ない。