「見えないもの」の芸術(2)
相変わらず、ドラマ中毒が続いている。なかなか治らない。奇妙なことだ。「見えないもの」の芸術を問題にしているのに、どうして私は執拗にドラマを観続けているのか。「見えないもの」と対峙することからの逃避なのかもしれない。それは「垂直に生きる」 ことからの逃避でもある。神学、哲学、文学といった領域で言葉によって「見えないもの」を求めるのは実に苦しい。どうしても「見えるもの」に逃げたくなる。そもそも人には「見たい!」という根源的な欲望がある。「見る快楽」とでも言おうか。すぐに思いつく卑近な例を挙げれば、ストリップやポルノ映画だ。そこでは「女性の裸体が見たい」という男性のスケベ根性が満たされる。女性にも同様のスケベ根性があるかどうか、男性の私には定かでないが、通常は隠されて「見えないもの」を見ることには大きな快楽(エロティシズム)があるだろう。しかし、エロティシズムもまた「見えないもの」を見る快楽に違いないものの、女性もしくは男性の裸体、もっと露骨に言えば恥部は単に隠されているだけで本当に「見えないもの」ではない。他にも、殺人事件とか怪奇現象なども通常は「見えないもの」だが、ドラマではそれを見せてくれる。本当に「見えないもの」を求める苦しさから「見る快楽」へと逃走し続ける私にドラマ中毒からの快癒の見込みは当分ない。