円環×直線=螺旋(6)
川口市民にとって、クルド人は邪魔者か。フェイクニュースに扇動されたクルド人に対するヘイトスピーチは実に醜悪だ。その愚かさに疑問の余地はない。しかし、クルド人に限らず、生活習慣の異なる者同士の共生は本当に可能なのか。一つ屋根の下に家族でない者がいれば、それは異物でしかない。異物は自ら異物であることを否定して、家族の一員として承認されることが要求される。同様に、日本という国を日本人の家だとすれば、そこに住むためには日本人にならねばならない。クルド人はクルド人であることを否定して、日本人に同化しなければならない。クルド人に対するヘイトスピーチに怒りを感じている善良なる市民も、それが本音ではないか。しかし、この「本音」は何を意味するのか。「共生は同族であることを大前提とする」という自然感情だと思われる。客として異族を迎え入れることはあっても、家に定住できるのは同族のみだ。同族であっても、血縁が薄ければ居候として冷遇されることもある。異族など以ての外。異族が家に居座れば、居候どころか不法侵入者として警察に通報されるだろう。では、クルド人やその他の在留外国人は何者なのか。厳密に言えば、在日外国人や来日外国人と区別して考えなければならないが、私がここで思耕しようとしているのはそうした社会学的問題ではない。外交官、技能実習生、研究者(留学生も含む)など、在留資格がどうであれ、また長期・短期に拘わらず、彼等や彼女等が異族であることは間違いない。その大半は日本での要件が済めば本国に帰っていく。問題は日本に生活の場を求めてやって来る難民の人たちだ。周知のように、日本では難民申請が認められることは極めて少ない。それが国際社会から厳しく批判されているが、日本ではやはり同族意識が支配的なのだろう。政治的・宗教的事情によって住み慣れた土地を追われた人たちは「安全に暮らせる場所」を求める。それは当然のことであり、様々な迫害によって破壊された円環の修復場所でもある。そのような場所に日本が選ばれることは誇らしいことであり、日本も「駆け込み寺」としての使命を果たすべきだと思う。しかし、その一方で、日本が総じて今でも曲がりなりにも「安全に暮らせる場所」であり得るのは、島国で自然に異族との軋轢を避けてこられたからではないか。そういう思いも当然ある。実際、観光地などで日本のマナーを無視したインバウンドたちの傍若無人ぶりが報じられると、異族に対する嫌悪感が湧いてくる。短期の旅行者でさえそうなのだから、異族と日常的に生活を共にするのを避けたくなる気持も無理はない。それに難民の人たちも日本に生活の場を求めてはいるものの、別に日本人になりたいわけではないだろう。日本人も移民の地に「リトル東京」をつくるように、外国の地に自分たちの住みやすい「生活の場」が生まれるのは自然だ。クルド人も独自の「クルド人街」をつくっているに違いない。そうした同族と異族の住み分けが現実的な共生の在り方だと言えるかもしれない。しかし、それは「可能な共存」ではあっても、決して「理想の共生」ではない。私は以前に「坩堝」と「サラダボウル」の対比を問題にしたが、「理想の共生」はそのどちらをも超えるものだと私は考えている。では、自然な「同族の共生」を超える、「同族と異族との共生」は如何なる理想を求めることになるのか。