補足:大衆の反逆と「見えないもの」
「裸の王様」の教訓とは何か。二つあると私は思う。一つは一般的に解された教訓、すなわち純真な子供のように「見えるもの」をそのまま信じ、「見えないもの」を見えると言う偽りに生きないこと。もう一つはそうした一般的な教訓を更に発展させて、王様の本質(王様を真に王様足らしめる権威)を「見えるもの」だけで判断すべきはない、ということだ。例えば、「絢爛豪華な衣装を身に付けているから王様だ」という短絡的な判断は間違っている。たとい襤褸を身に纏っていても、あるいは裸であっても、真の王様の本質は変わらない筈だ。とは言え、本質(イデア)は「見えないもの」であり、或る人が王様の本質を体現しているかどうかを判断するのは容易ではない。それ故、結果的に王様に相応しい衣装とか三種の神器といった「見えるもの」で判断することになる。この「見えるもの」に「見えないもの」を象徴する力がある間は良い。そもそも物象化は避けられず、それ自体が悪いわけではない。しかし、やがて「見えるもの」の象徴力が衰えてくると、そこに胚胎している筈の「見えないもの」が形骸化してくる。それは「見えるもの」を通じて「見えないもの」を直観していた古代人(archaic man)の堕落の始まりでもある。かくして形骸化した「見えないもの」(実は単なるモノ)を中心に生活する古き大衆が生まれてくる。そして、形骸化した「見えないもの」は偶像と化し、世界は「魔術の園」となる。周知のように、こうした古き大衆の時代を終わらせたのが啓蒙であり、世界を脱魔術化する近代人(modern man)が「見えるもの」の真実を科学的に確立していく。古代人が堕落して古き大衆と化し、その古き大衆を批判して近代人が生まれる。この流れは不可避であり、基本的に正しい。しかし、近代人もまた、「見えるもの」だけを真実として生活する新しき大衆と化して現代に至っている。その生活の一体何が問題なのか。盥の汚れた水(形骸化した「見えないもの」)と一緒に赤子(「見えないもの」そのもの)まで流してしまった結果、ニヒリズムに陥っているからだ。啓蒙(脱魔術化)は不可避だが、同時に「見えないもの」まで死滅させては元も子もない。人は「見えるもの」の真実だけでは本当に生きられない。どうしても「見えないもの」の真理が必要になる。ここに古き大衆が反逆してくる契機がある。古き大衆は曲がりなりにも「見えないもの」と共に生活していたからだ。さりとて我々は古き大衆に戻ることなどできないし、戻るべきではない。では、現代人は如何にして「見えないもの」との関係を修復できるのか。一つの可能性として「見えないもの」を直観できた古代人の力(野生の力)を取り戻すことが考えられるが、果たしてそれは可能だろうか。所詮、その力も偶像崇拝に堕していく運命にあるのではないか。その危惧も含めて、直観と象徴が「見えないもの」の芸術の課題となる。