「見えないもの」の芸術(7)
『わたしの日々が、言葉になるまで』というテレビ番組がある。日常生活のちょっとした思い、例えば失恋の苦しみとか親友への嫉妬の表現を文学作品やマンガ、あるいはヒット曲の歌詞などに見出して、人気作家(比較的若手の)やタレントがあれこれ意見を言い合う内容だ。私は毎回楽しく観ているが、イマドキの若者たちが言葉による表現にかなり熱い関心を懐いていることを意外だと思うと同時に、何だか嬉しい感じもする。そこにも「見えないもの」の芸術があると思うからだ。これは別の番組だが、「泣く」という行為についても、慟哭、涕泣、嗚咽などの差異があることを描くドラマがあった。しかし、そうした適切な言葉(単語)の選択もさることながら、「皺くちやになつた絹の手巾」で愛する息子を亡くした母親の悲しみを表現する芥川龍之介のような手法にこそ「見えないもの」の芸術の醍醐味があると私は思う。婦人は涙を見せていない。むしろ、顔では笑っている。しかし、テエブルの下の「皺くちやになつた絹の手巾」が全身で泣いていることを表現している。たといその手法に多少の「臭味」(メッヘン)が感じられるとしても、婦人の心の奥底にある「見えないもの」を手巾という「見えるもの」で表現することに私は感動する。おそらく、こうした表現によって喚起される感動は横光利一などの新感覚派の芸術にも通じるだろう。しかしながら、心の奥底にある「見えないもの」の表現に芸術の本質があるとは思うものの、私は全く異質の「見えないもの」の芸術を求めている。「世界は舞台だ」というジェイクイズに倣って、この現にある世界を劇場と見做し、そこにあるべき世界を表現したい。勿論、それは「未だないもの」であり「見えないもの」だ。加えて、その逆説を孕んだ表現は芸術としては邪道かもしれない。しかし、その異端の芸術に私はどうしようもなく憑かれている。