新・ユートピア数歩手前からの便り -4ページ目

一線を越える理想(6)

石母田正氏の「幸徳秋水と中国:民族と愛国心の問題について」と題する論考によれば、秋水はアジア諸国の抑圧された民衆の解放には積極的に関わったものの、それぞれの民族独立運動に対しては消極的だったそうだ。これは秋水に限られるものではなく、石母田氏はそこに日本の社会主義全体のコスモポリタン的性格を見出している。端的に言えば、民族独立運動の先には民族を超えた国際連帯の義務がなければならない、ということだろう。秋水は「国家観念の否認」なくして朝鮮民族の独立は達成できないと考えていたようだ。石母田氏が指摘するように、ここには支配国の社会主義者と被支配国の活動家との温度差が感じられる。後者にとって民族の独立は切実な問題であって、その先の問題など二次的な問題にすぎない。むしろ、民族の独立こそが至上の問題であって、国際連帯は民族の独立の上に築かれるものだと考えられている。周知のように、ここに見出されるのはコスモポリタニズムとインターナショナリズムの相剋だ。そして、問題の焦点は「ナショナリズムの超克」に絞られる。どうも秋水は民族にも愛国心にも批判的なようだが、飯塚浩二氏は「ナショナルでありながらインターナショナルでありうること」について考え、「ナショナルであることによってインターナショナルであり得るという道は、インターナショナルであることによって愛国的であり得る道と別のものではないにちがいない」とまで言っている。余談ながら、ザメンホフのhomaranismo(人類人主義)の対極にランティのsennaciismo(無民族主義)があるように、我々の前には常にナショナリズムという一線が引かれている。我々の理想はこの一線を越えて行くべきか否か。

一線を越える理想(5)

戦争の「論理」は同化の強要であることが多い。侵略戦争がその典型だが、可能な限り広い場所を自国に同化させたいという欲望だ。そうした領土的野心は既に十九世紀の遺物と化していると思っていたが、どうやら未だしぶとく生き残っているようだ。しかし、それが時代錯誤であることは間違いない。所詮、感情の「論理」にすぎないからだ。独裁者がいくら「侵略ではない。正義だ!」と強く主張しても、その詭弁は必ず暴かれる。また、剥き出しの欲望を克服できないようでは人類に未来はない。もとより感情的な戦争の「論理」の克服を無視するわけではないが、より重要な問題は理性それ自体が要請する戦争の「論理」にある。これは容易に納得できない問題であろう。人に他を侵略する欲望があるのは理解できる。当然、侵略された人はそれに抵抗する。同化の強要に対する異化の抵抗。これは他のイキモノにも見られる現象であり、言わば本能に基づく感情レヴェルの抗争にすぎない。強者はナワバリを広げようとし、弱者はそれに抵抗するも、結局は屈服せざるを得ない。そうして「棲み分け」という安定に落ち着く。人の世界も基本的に同様ではないか。大国と小国の「棲み分け」が曲がりなりにも均衡を保っている。尤も、その均衡は常に崩れる危険性にさらされており、今も世界の至る所で崩れ始めている。それを理性の力で必死に何とか維持しようとしているのが現実だ。もはや大国の強大な欲望に感情的な領土的野心はないとしても、理性による同化の強要は依然として存在する。例えば、ベネズエラで起きたこと、イランで起きていることはアメリカの「正義」による同化の強要ではないか。とは言え、腐敗した現政権に対する「正義」の鉄槌を反体制派の人々は歓迎しているようだ。「トランプ万歳!」などと叫んでいる。ベネズエラにせよ、イランにせよ、市民の大半にとってもアメリカの「正義」による同化は強要ではないのかもしれない。しかし、たとい強要ではなくとも、大国の「正義」による同化を許容していいのだろうか。そもそもそれは本当に正義なのか。何が正義かを判断するのも大国の理性であるなら、その理性的な「正義」もまた大審問官の論理に他ならない。大国にも小国にも、それぞれ建国の「論理」がある。理想的な「棲み分け」が大国の「論理」だけで決められていい道理はない。さりとて他国の「論理」の腐敗に無関心であっていい道理もない。内政干渉という非難を承知の上で、理性は理想に向かって一線を踏み越える。それはアメリカの「正義」による同化の一歩に尽きるものではない。むしろ、更に戦慄すべき問題を一線を越える理想は胚胎している。

一線を越える理想(4)

また中東で新たな戦争が始まった。こんな現実に直面して、暢気に理想についてあれこれ思耕している場合ではない。そんな思いに苛まれる。どうして人は愚かな戦争を繰り返すのか。何処の国民であれ、その愚かさは身に染みて痛感している筈ではないか。おそらく、ロゴスとしては理解していても、パトスの痛みはその理解の一線をいとも簡単に踏み越えてしまうからだろう。私自身、暴力は愚かだと頭では分かっていても、殴られたら咄嗟に殴り返すに違いない。従って、ロゴスによるパトスの抑制が我々の課題となる。つまり、感情を剥き出しにすることなく、常に理性的に行動せよ、ということだ。カント曰く、汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ。確かに、戦争はもとより、人の愚かな行為の大半は感情の暴走によるものだ。しかし、実践理性の定言命法は感情の暴走の歯止めになるだろうか。分かっちゃいるけど、やめられない。それが人の現実ではないか。それにパトスの抑制が過ぎると、人はイキモノとしての自然性を失ってしまう。実際、殴られても殴り返さないのは実に不自然ではないか。イキモノはイノチを懸けて争う。とは言え、憎悪に駆られて殺し合うのが自然だとしても、理性はイキモノに科せられた自然の一線を越えていかねばならない。自然は牢獄であり、人の楽園は理性の限界内にある。そう考えることができる。ところが、全く逆の考えも可能だ。「人は生まれながらにして自由であるものの、至る所で鉄鎖に繋がれている」とはルソーの有名な言葉だが、鉄鎖を作り出しているのは理性に他ならない。この場合、理性が牢獄であって、自然は楽園ということになる。自然のアルカディアと理性のパラダイス。人は二つの楽園の間で揺れ動く。そして、どちらの楽園も堕落する運命にある。ただし、それぞれの堕落のメルクマールは戦争だが、アルカディアの末路としての戦争とパラダイスの帰結としての戦争は質的に全く異なっている。感情が理性の一線を踏み越えて起こす戦争は愚かだが、理性が自ら引いた限界の一線を越えて欲望する戦争ほど恐ろしいものはない。と言うのも、感情的な戦争は言わば「子供の喧嘩」にすぎず、大人の理性で何とか解決する可能性が残されているからだ。それに対して、理性が始める戦争には論理的に殆どなす術がない。自然に爆発する感情にせよ、理性が育む欲望にせよ、問題はそれぞれが人を戦争に駆り立てる「論理」にある。地下生活者の言うように、二二が四はもはや生活ではなく死の始まりにすぎない。私が今為すべきことは、やはりその「論理」についての思耕であろう。その思耕を徹底させたい。

一線を越える理想(3)

かつてアメリカは「人種の坩堝(melting pot)」と言われたが、最近は「坩堝」ではなく「サラダボウル」という言葉が好まれている。理由は明白、一つに融け合ってしまう同一性ではなく、それぞれ固有の差異性が尊重されるようになったからだ。しかし、論理的に考えれば、差異性を尊重して同一性を拒絶することは個々バラバラの社会をもたらすことになる。それでは国を形成する意味がない。サラダボウルには様々な野菜が融け合うことなく個として存在しているが、全体としては「サラダボウル」に成っている。そこには同一性はないが統一性はある。そして、個々の差異性を統一するには理念(理想)が不可欠だ。一種類の野菜だけでは「サラダボウル」にならない。同様に、白人だけでは「アメリカ」にならない。黒人やアジア人など、様々な人種や民族がいて「アメリカ」という国が形成される。勿論、白人だけの純血主義による「アメリカ」を望むなら、それでもいい。しかし、その場合には白人の同一性だけで「アメリカ」が形成され、その結果、独立宣言に記された次のような建国の理念が放棄されることになる。

 

全ての人間は神によって平等に創られ、一定の譲り渡すことのできない権利を与えられており、その権利の中には生命、自由、幸福の追求が含まれている。 またこれらの権利を確保するために、人々の間に政府を作り、その政府には被治者の合意の下で正当な権力が授けられる。そして、如何なる政府と雖もその目的を踏み躙る時には、政府を改廃して新たな政府を設立し、人民の安全と幸福を実現するのに最も相応しい原理に基いて政府の依って立つ基盤を作り直し、また最も相応しい形に権力のありかを作り変えるのは、人民の権利である。

 

周知のように、ここに明記されている「全ての人間」には未だ黒人奴隷やインディアンと称された先住民は含まれていないのが当時の現実であった。しかし、理念さえ失わなければ、その理念はやがてリンカーンのような人物を生み出し、奴隷制度や様々な差別・抑圧を容認する「政府を改廃して新たな政府を設立」することになるだろう。国の形成にとって最も重要なのは不朽の理念に他ならない。ただし、理念を完璧に実現する国(政府)などあり得ず、垂直の次元における理念は水平の次元ではどうしても歪んでしまう。従って、アメリカに限らず、あらゆる国の現状は常に異化される必要がある。トランプ政権下のアメリカも然り。そこに如何なる理念があるのか定かではないが、本当の「アメリカ」に向けての異化は不可避だ。少なくとも目先の経済力や軍事力の大きさだけを誇るアメリカは全くGreatではない。とは言え、目に見えない理念による統一性と目に見える現実に基づく同一性との差異を見極めるのは至難の業だ。今や人種や民族の同一性によって国を形成するのは時代錯誤でしかないとしても、同一性を求める現実の力は依然として根強い。差異性に基づく相対主義もさることながら、同一性に基づく純粋主義も理想実現の前に立ちはだかる大きな壁だ。その壁を粉砕して、理想が一線を越えるためには何が必要なのか。

一線を越える理想(2)

「君は君、我は我也」を異化だとすれば、「仲良き」は同化だ。異化と同化が結びつく道理はない。だから「されど」という逆接の言葉が挟まれている。しかし、「されど」を可能にするものは何か。差異性に踏み止まる相対主義は賢明かつ無難な可能性を示している。例えば、「台湾人は中国人ではない」という異化を中国政府は決して認めない。あくまでも「台湾人も中国人だ」という同化を徹底させようとする。これに対して、台湾の人たちは共産党が支配する今の中国との差異性に立脚して同化を頑なに拒むに違いない。かつては「中華民国こそが本当の中国だ」という強硬な主張もあり得たが、それは今や現実性を失い「台湾は台湾、中国は中国也。されど仲良き」という相対主義を現時点での最善の状態だと考えている。実際、この相対主義を中国政府が認めるならば、取り敢えず東アジアの緊張状況は解消されるだろう。韓国と北朝鮮の関係も然り。互いの差異性を尊重した上での「されど仲良き」関係は世界を平和にする。しかし、そうした相対主義による平和は祖国の統一を断念することに他ならない。それでいいのか。さりとて相対主義の一線を越えて「本当の中国とは何か」および「本当の朝鮮(?)とは何か」と問うことは「本当」を巡る争いの更なる激化を避けられない。そんな火中の栗を拾わずとも、差異性に基づく相対主義の安定でいいではないか。それが大方の意見であろう。「仲良き」関係は同化を強要するものとは限らない。異化を前提にした「仲良き」関係もあり得る。相対的な価値を認め合う「仲良き」関係。その一線を越える理想は果たして余計なお世話であろうか。

一線を越える理想

世界には様々な人がいる。肌の色や言葉、生活習慣も違う。そうしたことが同じでも、個人としては人それぞれ異なる。同じ民族でも、同じ宗教でも、人は互いに対立し合う。それが現実だ。そして、こうした「人は根源的に異なる」という多様性の現実に立脚した最高の理想は相対主義ということになる。「君は君、我は我也。されど仲良き」と実篤は述べているが、互いの差異を認めた上での仲良き関係は素晴らしい。世の中には未だ悲惨な民族対立、宗教対立が絶えないけれども、LGBTQの問題も含めて、人の多様性を重視する方向には希望の光が見える。しかしながら、多様性の現実を無視するつもりはないものの、私は相対主義の理想には違和感を禁じ得ない。それは「君は君、我は我也」という現実を相対主義によって「されど仲良き」という理想に導いてしまうことへの違和感だ。余談ながら、間永次郎氏の描く次のような「ガンディーの真実」に私の違和感と通底するものが見出せる。

 

ガンディーが唱えた宗教多元性の理念は、昨今よく巷で耳にする宗教・文化・民族などの「ダイバーシティ」を謳う多文化主義の言説とは根本的に異なる…。後者は多様な集団の「権利」を平等に擁護することを目的としており、そこにおいて異なる集団の価値観は本質的に相対的であることが前提にされている。これに対して、ガンディーの説く多元性の理念では、異なる集団を擁護することは目的ではなく手段であり、様々な集団の価値観を尊重し擁護していった先には「統一性/融和(エクター)」、すなわち「絶対的な真実」の地平があると考えられた。こうした理念は、ガンディーによって「様々な宗教は唯一の場に到達するための異なる道」とも比ゆ的に表現された。そして、異なる信仰者がこの「唯一の場」に至ることこそ最終的な目的であるとガンディーは説いた。(間永次郎『ガンディーの真実:非暴力思想とは何か』)

 

相対主義が「理性の限界内の理想」であるとすれば、ガンディーは明らかにその一線を越えている。自らの性欲を常軌を逸した方法で徹底的に克服しようとするなど、ガンディーには狂気に近いラディカルさがある。相対主義の一線を越えて「唯一の場」に至ろうとする「絶対的な真実」も然り。極めて危険だ。しかし、不可避だと私は考えている。

補足:場所の超越

地に足がついていない。「これからは研究より実践だ!」と偉そうなことを言っておきながら、いつまで経っても私は実践に辿り着けない。実践の数歩手前で、実践に至る理路について繰り返し思耕しているだけだ。今の私に必要なことは地に足をつけること。「場所の超越」などという訳の分からぬ御託を並べていないで、一つの場所に根付くことではないか。現代社会の危機的諸問題が全てパラダイスの追求に端を発していることを考えれば、パラダイス批判の根拠地に立つことが要請されている。それはアルカディアを再生させる場所であり、具体的にはやはり故郷であろう。ところが、私の求めている実践はアルカディアの再生に尽きるものではない。一時的にアルカディアを再生できても、パラダイスの魔力を封じ込めておくことはできない。故郷喪失は不可避だ。それは全世界の人に共通する普遍的な問題に他ならない。ドイツ人の故郷喪失と日本人の故郷喪失は通底している。しかし、ドイツ人の故郷と日本人の故郷は違う。そこで私は故郷と「ふるさと」を区別せざるを得なくなった。故郷はそれぞれ異なるが、「ふるさと」は共通している。当然、この「ふるさと」は特定の場所に限定されない。その意味において、場所を超越している。「何処にもない場」としての「ふるさと」をそれぞれの場所に故郷として根付かせる。では、「ふるさと」とは何か。場所を超越する存在の根柢への問い。「下部へ、下部へ、根へ、根へ、花咲かぬところへ、暗黒のみちるところへ」。まだ当分、実践に辿り着けそうにない。あるいは、これが私の実践なのか。いや、それはやはり自己正当化の詭弁でしかないだろう。

補足:ネヴァー・ネヴァー・ランドの誘惑

大人にならないピーター・パンは病気なのか。むしろ、多くの人にとって憧れの存在ではないか。大人になんかなりたくない。いつまでも純真な心で冒険して生きていきたい。その願いはネヴァー・ネヴァー・ランドで叶えられる。そこはアルカディアに通じている。大人になって、様々な欲望を満たすパラダイスは邪悪な世界にすぎない。確かに、パラダイスの追求はこの世界を発展させてきた。昔はあり得ないと思われていた便利なモノが次々と生み出されている。生活はますます快適になっていく。その反面、貧富の差も大きくなっているが、トリクルダウン効果とやらで貧困層もそれなりに豊かさのおこぼれに与れるだろう。しかし、本当にそうか。そもそもパラダイスにおける便利で豊かな生活はそんなに良いものなのか。貧困が人を殺すことはある。しかし、それ以上に深刻な問題は豊かさが人を殺すことにあるのではないか。私は以前に欠乏のニヒリズムと過剰のニヒリズムを問題にしたが、後者こそ真のニヒリズムだと考えている。欠乏は直接的な苦しみだが、いつか多くのモノを持つ豊かさに辿り着きたいという生き甲斐になる。それに対して、すでに多くのモノに溢れた生活をしている者は何を生き甲斐にすればいいのか。厳密な科学的研究によるものではないが、経済的に豊かになればなるほど、それだけ空虚感も増すと言われている。ならば少しでも経済的に豊かな生活の獲得に駆り立てるパラダイスに見切りをつけて、ノンビリと暮らせる場所に戻ればいい。AIやらアンドロイドやらの技術が発展すれば、人は更に重労働から解放されていく。それどころか、労働そのものから解放されるかもしれない。これまで人がやらねばならなかった仕事を全て機械がやってくれるようになったら、人は何をして生きればいいのか。メタヴァースなどの仮想空間で遊んで暮らせばいいのだ。パラダイスの果てにネヴァー・ネヴァー・ランドがある。ネヴァー・ネヴァー・ランドこそ新しき「ふるさと」ではないか。今後、そう考える人は増え続けるに違いない。そこには極めて大きな誘惑がある。しかし、場所の超越とは仮想空間に埋没することではない筈だ。「何処にもない場」、すなわちユートピアとしての新しき「ふるさと」は大人になることを拒絶した人たちのネヴァー・ネヴァー・ランドに誘惑されてはならない。

補足:誰か故郷を想はざる

故郷は特別な場所だ。幼馴染のあの友この友、あの山この川、あの夢この夢。「石をもて追はるるごとくふるさとを出でしかなしみ消ゆる時なし」と啄木は歌ったが、殆どの人にとって故郷は甘美な場所だろう。できればずっと死ぬまでそこで暮らしたいと思う。しかし、故郷が甘美であればあるほど、いつまでもそこに安住していては駄目だという思いも湧いてくる。それは両親の庇護の下でいつまでも子供として暮らしていたいという願いに対する負い目に通底している。子供は大人にならねばならない。そして、大人になれば家を出て、故郷を後にしなければならない。異郷で独立する。立身出世の欲望も近代主義の弊害の一つであろうか。もはや三世代同居の家など皆無に近い。親は子を育てる。その子は大人になり、やがて老いた親の世話をする。と同時に、その子も親になって自分の子を育て、老いればその子の世話になる。その繰り返し。ゾーエーの大いなる円環は永遠に回っていく。それでいいではないか。大人になっても家を出る必要はない。故郷を棄てて異郷で独立する必要もない。故郷では食えないから都会に出ざるを得ないと言うなら、故郷で食っていける経済を実現すればいい。もとより簡単な課題ではないが、故郷をアルカディアにするという理想は死んでいない。むしろ、ますます強くなっていく。誰か故郷を想はざる。それにも拘らず、故郷を超克せねばならぬ理由は何か。

故郷の超克としての「ふるさと」(10)

東京の「トー横」や大阪の「グリ下」など、居場所を失った若者たちが屯する場所がある。学校や家庭に居場所のない彼や彼女にとって、そこは「サードプレイス」なのだろう。犯罪の温床になっているという懸念はあるものの、そこに行けば仲間に会える場所があるのは良いことだ。そこは「ふるさと」なのかもしれない。故郷ではなく、明らかに異郷ではあるけれども、その場所は曲がりなりにも「ふるさと」として機能している。しかし、厳密に言えば、そこは未だ本当の「ふるさと」ではない。故郷を棄てざるを得なかった家出の少年少女たちがパラダイスを夢見て大都会に辿り着く。そこで同じような境遇の仲間と出会い、束の間の居場所ができる。それだけのことだ。それぞれにとって寛げる快適な居場所かもしれないが、そこは単なる溜まり場にすぎない。それでも自分なりのパラダイスが見つかるなら、故郷を棄てた甲斐もある。だけど大抵は地獄を見ることになる。そこからどう生きるか。パラダイスの夢破れた若者たちはいつまでも「トー横」や「グリ下」を居場所にしているわけにはいかない。たちまち若くなくなるからだ。ジジイとかババアとか言ってバカにしていた存在にやがて自分たちもなる。もはや「トー横」や「グリ下」さえ居場所ではなくなるだろう。その時どうするか。故郷に戻るのも選択肢の一つだ。最も無難な道かもしれない。しかし故郷に戻っても、そこにはもはや「ふるさと」はない。故郷に「ふるさと」を求めるのは「未だ嘴の黄色い未熟者」だけだ。全世界を自分の故郷だと思って生きる者は人としてかなり成長しているが、未だ十分ではない。母の胎内が根源的な故郷だとすれば、人はオギャアと呱々の声を上げた瞬間から異郷に投げ出されたのだ。この世界は異郷――その自覚から「人が人間になる」道が切り拓かれる。勿論、生まれた当初はその場所が故郷だと認識されるに違いない。両親の愛情溢れる家庭を中心にした故郷が「ふるさと」でもある。しかし、故郷と「ふるさと」の一致を享受できるのは未成年に限られる。大人になれば故郷と「ふるさと」は次第にズレ始め、やがて人は故郷を異化せざるを得なくなる。故郷の異化とは何か。先述したように、それは故郷もまた異郷であるという自覚から始まる。そして、我々は異郷に「ふるさと」を創らねばならない。ただし、故郷の異化によって求められる新しき「ふるさと」は場所を超越した「何処にない場」だ。垂直の次元における場としての「ふるさと」は水平の次元における特定の場所に開花する。或る詩人が歌っているように、「ふるさと」は花咲かぬところ、暗黒のみちるところだが、「ふるさと」なくして「人が人間になる」という花は咲かない。光も生じない。祖国の日本のみならず、今や世界全体に「ふるさと」を創ることが求められている。