新・ユートピア数歩手前からの便り -4ページ目

律の超克としての「三態の変化」(9)

優等生と劣等生。人をそのように分ける律がある。優良と不良を分ける律も然り。通常、人はその律に従って生活している。しかし、優等生でない人は優良ではないのか。学業では劣等生でもスポーツでは優等生だという人もいる。分野が異なれば律も異なる。学歴偏重の律が未だ社会に根強いものの、人は自分が「本当」に生きるべき律を見出さねばならない。重要なことは自分を劣等な不良だと決めつける律を否定することではなく、その律を超越することにある。例えば、かつて「東大粉砕!」と叫ばれた熱い時代があったが、それは東大に入れなかった劣等生のルサンチマンだと見做されても仕方がない。確かに、学歴社会の頂点に君臨する東大を粉砕すれば、人を優等生と劣等生に分ける律も粉砕できると思われる。しかし、「本当」にそうか。美人コンテストを粉砕しても、美醜を分ける律まで粉砕できない。世界には様々な律が錯綜している。学歴社会も美人コンテストも醜悪だが、「本当」に醜悪なのはそれぞれの律に支配されることだろう。すなわち、他律的な生き方だ。ただし、他律は抑圧とは限らない。むしろ、他律は安楽で幸福な生活をもたらしてくれる。実際、どんなバカでも東大生であれば、世間は優等生と認めてくれる。これほど楽なことはない。だからこそ、多くの受験生は東大を目指すのであろう。されど、それで優等生の成功を獲得できたとしても、所詮それは駱駝の幸福にすぎない。「駱駝の幸福で十分だ!」という人が大半かもしれないが、ここではそれに反撥する獅子に注目したい。当然、獅子は自律的な生き方を求める。では、自律とは何か。「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当し得るように行為せよ」というカントの定言命法のように、意志の格率と普遍的立法が一致することに他ならない。この一致がなければ、自律は単なるエゴイズムか他律と大差ないものと化してしまう。果たして、そのような一致が獅子に可能であろうか。

律の超克としての「三態の変化」(8)

超克は否定ではない。かつて私は律を否定することで自由になれると思っていた。あらゆる規則に反撥する不良少年のように。今でも若者に人気の青春ドラマでは、校則に忠実な優等生と校則など無視する不良学生との対比において、後者に自由があるかのように描かれる。とんだお笑い草だ。優等生が駱駝だとしても、その在り方を否定する不良学生が獅子になるわけではない。不良学生は単に優等生の律からの落ちこぼれにすぎない。そして、多分にルサンチマンから、優等生の律など自己欺瞞だと思い込む。偏差値の高い大学を出て、給料の高い職に就き、スペックの高い配偶者を得て、幸福な家庭を築く。それが「本当」に生きることなのか。家庭の幸福は諸悪の本。さりとて、それを得られなかった不良学生の不幸を正当化しても仕方がない。確かに、「ドブネズミの美しさ」はあるだろう。「ドブネズミは不潔でキタナイ」とする一般的な律だけに束縛される必要はない。しかし、「ドブネズミは美しい」とする律とは何か。その一般的には理解されない律は一般的な律を否定するだけでは実現しない。パラダイスを目指す優等生の律だけが全てではないが、それを否定するだけの不良学生は単なる負け犬だ。優等生の律を批判するなら、それに優る不良学生独自の律を生きなければならぬ。それが律の超克に他ならない。獅子は駱駝が背負い続ける律を超える「高次の律」を求める。

律の超克としての「三態の変化」(7)

存在する全てのモノ(イキモノに限らず)が従わざるを得ない「自然の律」から人が従うべき「水平の律」へ。人もモノ(存在者)である以上、「自然の律」から完全に自由になることなどできない。やがて死を迎えてモノでなくなり、存在そのもの(絶対無)の「ふるさと」に還る時、そこにも何らかの「律」があるかどうかはわからない。時も場所もないところ(花咲かぬところ、暗黒のみちるところ)のコトは死んでみなければわからないが、生きている限り、人は「自然の律」を超えようとする。弱肉強食の現実を超えようとする。もとより「自然の律」なくして人は存在できず、その超越は否定を意味しない。人は「自然の律」によって生まれ、やがて死んでいく。その間、生きる喜びも悲しみも全て「自然の律」に支配されている。駱駝はその支配を甘受する。悲しいこと、苦しいことばかりではない。嬉しいこと、楽しいこともある。駱駝にとって「自然の律」が神であり、自然に即して生きる以外の可能性はない。重き荷を背負って生きるのは苦しいが、同時に喜びでもある。駱駝は大衆の生き方を象徴している。これに対して、獅子は反抗する。「自然の律」を享受しながら、自分たちにとって理不尽な律に反抗する。ニニが四は生の鉄則なれど、死の始まりでもある。「自然の律」とは質的に異なる新しき律を生み出さねばならぬ。ただし、それは自然を改作して、自分たちに都合の良い律を生み出すことではない。自然の改作では「自然の律」を超えられない。「自然の律」を超える新しき律、それが「水平の律」だ。獅子は「世界の水平化」を目指す。駱駝から獅子へ。「自然の律」から「水平の律」へ。それが「律の超克」のドラマの往相に他ならない。

律の超克としての「三態の変化」(6)

一所懸命に労働して、たくさんお金を稼ぐ。そして、できるだけ快適な生活を営む。その何が悪いのか。悪い道理がない。誰もが望んでいる幸福ではないか。皆、その幸福を求めて生きている。ところが、全てのイキモノが幸福になれるわけではない。先ず、食べるイキモノと食べられるイキモノに分けられる。前者は幸福だが、後者は不幸だ。ただし、後者も何かを食べて生きていることに違いはないので、食物連鎖によるイキモノの幸不幸は運命として甘受するしかない。幸い、食物連鎖の頂点で生きているヒトには特殊な場合を除いて食べられる不幸はない。しかし、ヒトが人になると、食物連鎖とは別の意味で「食うか、食われるか」の幸不幸に巻き込まれ、力の強い者と弱い者に分けられる。結局、頂点捕食者である人も未だ弱肉強食の律から解放されていないのだ。それでも人は古代から啓蒙の近代を経て、力の弱い者でも幸福に生きられる「自他共生の理想」を求め続けてきた。例えば、その精華を次のような日本国憲法の条文に見出すことができる。

 

すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。(第十四条)

すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。(第二十五条)

 

弱肉強食の競争原理を「自然の律」と称するならば、それを超える共生原理を「水平の律」として理解したい。そして、「水平の律」によって「全世界の人間が天命を全うし、各個人の内に住む自我を完全に生長させる」という新しき村の理想が実現することを望む。されど、何かが足りない。「水平の律」だけでは「自他共生の理想」は実現しない。更に言えば、「水平の律」だけで「自他共生の理想」を実現しようとすれば世界は歪む。そこには「垂直の律」が要請される。その真理について、改めて思耕したい。

律の超克としての「三態の変化」(5)

感覚が狂っているのかもしれない。労働して賃金が支払われる。当然のことだ。労働して賃金未払いとなれば労働基準法違反となる。労働力は商品。商品には対価が支払われる。当然のことだ。しかし、この当然のことに違和感がある。因みに、かつて「打撃の神様」と称された川上哲治の伝記の中に、熊本工業高校の選手として大活躍して職業野球の巨人軍に入団を求められた際、若き川上選手は大いに憤慨したというエピソードがあった。今ならプロにスカウトされることは大きな喜びであるのに、どうして憤慨したのか。当時の選手の感覚では野球は神聖なものであり、それを職業にすること、すなわち金儲けの道具にすることは冒瀆だったからだ。野球選手は商品ではない。商品などにしてはならない。殊に学生野球はそうであるべきなのに、今やプロ野球のための予備校と化している。学生野球の指導者にしても、優秀な選手がプロで活躍するために無理をさせないことが暗黙の了解となっている。商品は大切にしなければならない。商品価値は対価の多寡によって決められる。年俸が高額であるほど野球選手としての商品価値は高くなる。そこには明確な律がある。資本主義の律だ。プロ野球選手に限らず、現代社会では殆どの人がその律の力の下で生活している。正に駱駝のように自らの商品価値を背負っている。そして、商品価値のなくなったモノは容赦なく廃棄される。もとよりそうした律の支配に反抗する獅子がいないわけではない。されど、獅子の反抗は如何なる実を結ぶのか。人は律なしでは生きられない。そもそも存在していること自体に律の力が働いている。あらゆるイキモノには自然の根源的な律が貫いている。人も例外ではないが、水平の次元で生活する律とは別に、それを超克する「垂直の律」を渇望せずにはいられない。この感覚はやはり狂っているのだろうか。

律の超克としての「三態の変化」(4)

法律があるから盗まない。殺さない。それでいいのかもしれない。法律があっても盗んだり殺したりするのが現実だ。法律がなければ世界は崩壊する。しかし、法律がなくても盗んだり殺したりしない「正義の世界」を私は望む。法律が正義を規定するのではなく、正義が法律を生み出す。そして、法律は「ヴィトゲンシュタインの梯子」のようにやがて不要にならねばならぬ。法律が不要になっても正義はなくならない。むしろ、法律が不要になってこそ正義は「本当」に生きる。余談ながら、田舎に行くと野菜などの無人販売所がある。誰も盗んでいかない。決められた代金を置いていく。現実には盗難があるかもしれないが、無人販売所というものが存在すること自体を喜びたい気持になる。その場所を活かしたいと心から願う。もとより甘い期待ではある。無人販売所の精神は、柄谷行人氏の交換様式に従えば互酬(贈与と返礼)であろう。農家の人は野菜販売で儲けようとは思っていない。野菜は基本的に贈与として無人販売所に置かれている。それを受け取る人は返礼として代金を置いていく。そこに法律は必要ない。勿論、そうした素朴な交換様式は長く持続しない。柄谷氏によれば、互酬はやがて略取と再配分(支配と保護)、更に商品交換(貨幣と商品)へと発展していくことになる。当然、そこには法律が不可欠だ。社会の発展は資本主義によって促進され、資本主義は法律に基いて遂行される。されど今や現代社会は閉塞状況にある。戦争や気候変動の問題もさることながら、人の生き方として駱駝と獅子に二分されたままでいい道理がない。世界は根源的に変革されるべきだ。その文脈において、柄谷氏も新しい交換様式の実現を求めているが、それは互酬の「高次の反復」だと言う。駱駝と獅子が再び子供になる。無論、反復された子供、すなわち駱駝と獅子を経験した子供はもはやかつての無垢の子供ではない。私はそこに律を超克する可能性を見出す。

律の超克としての「三態の変化」(3)

法律、戒律、規律――世界は律で維持されている。律がなくなれば、世界はたちまちカオスと化す。律があるから世界はコスモスと見做される。ただし、根源的な律は世界を明確にカオスとコスモスに二分するようなものではない。カオスとコスモスが相互に浸透するカオスモスという言葉があるが、そうした言わば「絶対矛盾的自己同一」に律を超克する根源的な律が見出される。それが神律だと一応言うことはできるが、それだけでは単なる「あれもこれも」にすぎない。カオスモスの律とは一体何か。それは現実にどのように機能するのか。例えば、法廷で「被告は有罪であると同時に無罪である」と言われても、それは判決にならない。現実は「あれか、これか」を要請する。被告について有罪か無罪かを決定しなければならない。根源的な律=神律は目に見えないが、現実に人の犯罪を裁くのは目に見える実定法だ。とは言え、人為的な実定法が万能でないことは誰もが知っている。実定法だけで一切を裁こうとすると何かが歪む。余談ながら、先日観ていた法廷を舞台にしたドラマの中で、「人の作った法律には限界がある。最終的には人々の心の裡にある正義で判断すべきだ」というセリフがあった。この正義は自然法であろう。もとより自然法と実定法は対立するものではなく、むしろ自然法は実定法の根源であるべきだが、現実には様々な軋轢が生じる。実定法の網をくぐって犯される不正は裁かれない。あるいは実定法では裁けない合法的な悪もある。そうした実定法の限界を打ち破るのが自然法だと思われるが、「本当」にそうか。因みに、必殺仕事人は実定法では裁けない不正や悪を闇の中で断罪するが、それは「正義の刃」だと言えるのか。駱駝は実定法の限界内で生活することを選び、獅子は「正義の刃」で反抗する。正義が自然法だとしても、その刃は「本当」に不正や悪を根絶できるのか。自然法の正義は、カントの「我が内なる道徳律」同様、未だ根源的な律=神律には至っていないと私は考えている。

律の超克としての「三態の変化」(2)

神律と他の二つの律との間には質的断絶がある。それらが「精神の三態」であることに違いはないが、それぞれの生きる次元が違う。すなわち、他律と自律は「地の国」にあり、神律は「神の国」に成る。単純に、「地の国」は水平の次元、「神の国」は垂直の次元と理解してもいい。水平の次元では他律と自律の相剋に人は苦悩するが、垂直の次元では二つの律の相剋が神律において止揚される。「止揚」(aufheben)とは実に便利な言葉だが、問題はその具体的な展開に他ならない。逆説的に言えば(逆説的にしか表現できない)、神律は律の超克でなければならない。それは他律と自律の相剋という水平の真実を超える逆説の真理だ。垂直の次元において真理は常に「それにも拘らず」という逆説として現象する。ここで改めて注意すべきことは、「地の国」と「神の国」の関係だ。二つの国は次元を異にするが別ではない。場所は同じでも次元が違う。この点、私は未だ上手く表現できないが、「神の国」は「地の国」とは分離した所謂天上界ではない。「神の国」は場所としては存在しない。何処にもない場だ。場所として存在するのは「地の国」しかない、人は「地の国」に生きる。そこで「精神の三態」が現象するとツァラトゥストラは説くが、私は駱駝以前の段階も含めて理解すべきだと思う。すなわち、「無垢の子供が駱駝となり、やがて獅子となって再び子供に還る」というドラマだ。無垢の子供は未だ精神に目覚めていないので、精神としては「駱駝・獅子・子供」の三態で間違いはない。ただし、精神の最終段階としての子供は駱駝以前の子供ではない。無垢の子供は精神として反復(wiederholen=受け取り直し)する。その反復のドラマに神律の真理が胚胎している。

律の超克としての「三態の変化」

ツァラトゥストラは「三態の変化」を説いた。「精神が駱駝となり、駱駝が獅子となり、かくて最後に獅子が子供になる」変化だ。私はこれに「他律・自律・神律」という変化を重ね合わせたい。重き荷を背負わされて生きる駱駝は他律の典型であり、それに反抗する獅子は自律の典型だと言える。他律か自律か。これは「地の国」での葛藤に他ならず、通常「他律は悪で、自律は善」と教育される。従って、大半の人は幼い頃から「他人に頼るな!」と言われて育つ。実際、他人に依存して生きるしかない人、例えば生活保護の受給者は「恥ずべき人」の烙印を押される。もとより生活保護は再び自立した生活を取り戻すためのセイフティネットであり、その受給それ自体が恥ずべきことではないにしても、他律を余儀なくされる窮境はやはり恥ずべきことであろう。ただし、それはあくまでも建前にすぎない。本音は他律も案外悪くない生き方だと思っている。余りにも重い荷は御免だが、適度な荷を背負うことで安定した生活が保障されるのなら喜んで担ぐ。むしろ、全て自分で決定して責任を負う自律的な生活の方が苦しい。優秀な他者がつくったマニュアルに従って生きる。その方が安楽で快適だ。自律よりも他律。実はそれが殆どの人の本音ではないか。更に言えば、他者の支配に反抗する自律も、その帰結は自己の支配にすぎず、支配それ自体からは解放されていない。当然のことながら、他律も自律も未だ律を超克していない。そこで、いよいよ神律の出番となるわけだが、それは「本当」に律を超克し得るのか。他律が駱駝、自律が獅子だとすれば、神律の典型は子供に見出される。ツァラトゥストラは子供について次のように述べている。

 

子供は無垢(Unschuld)である。忘却である。新しい発端である。遊戯である。自ら輾(まろが)りいずる車輪である。第一の運動である。聖なる肯定(Ja-sagen)である。

 

されど子供こそ両親を始めとする他者に依存して生きていくしかない存在ではないか。子供の生の何処に神律があるのか。

律の呪縛

暴走族や半グレが「既成社会の秩序には従わない。オレたちは自由に生きる!」と誇らし気に語っているドラマを観ると、私はその無知を嗤いたくなる。不良のどこに自由があるのか。むしろ、既成社会の秩序以上の陳腐な掟に縛られているのではないか。反体制のテロリストも然り。体制に従う善良なる市民が他律的だとしても、それに反抗するテロリストが自由だとは言えない。尤も、善良なる市民は自分たちが他律的に生きているなどとは夢にも思わないだろう。大審問官の論理の下で自由な生活を享受していると確信している。その自己欺瞞を粉砕するテロリストにはそれなりの意味が認められるが、それでもやはり「本当」に自由ではない。確かに、反体制には自律の意志があるものの、残念ながら自律では他律の壁を打ち破れない。これは他力信仰(浄土門)と自力信仰(聖道門)との関係に等しく、一筋縄では理解できない。問題は、他律にせよ自律にせよ、「律の呪縛」にある。鄙見によれば、他律と自律との対立を克服する可能性は神律に見出されるが、神律とは一体何か。余談ながら、アガサ・クリスティーには心霊現象を題材にした一群の怪奇小説(主に短編)があるが、その中に『翼の呼ぶ声』(The Call of Wings)という作品がある。それは百万長者のヘイマー氏が或る浮浪者との出会いを介して奇妙な神経の病に苦しむ物語だ。その病は次のように語られる。

 

「どうもうまく説明できないんだが……そのときの気持ちはね、……しかしすばらしいものだったよ! それまでに感じたり、夢に見たどんな気持ちともちがうものだった。いや、それがそれ以来ずっと続いてるんだ。毎晩じゃなく、ほんのときどきだけどね。そのとき聞いた音楽、上へ引っぱりあげられていく気持ち、宙をとんでね……そして今度はおそろしく引っぱられて……地上へ引き戻されるんだ。そしてそのあとの苦痛、目がさめるときの実際の肉体的な苦痛がね。ちょうど高い山から降りてきたときみたいな気持ちなんだ……あの耳の痛みはきみも知ってるだろう? そう、あれに似てるが、もっとひどくて……しかもそれと同時におそろしい重圧感があるんだ……閉じこめられて、息苦しくて……」

 

要するに、ヘイマー氏は自分を天へと引っ張り上げる力と地に引っ張り下ろす力、言わば恩寵と重力に引き裂かれている。その苦しみは何もヘイマー氏に限ったものではない。現代人の多くが格闘している病に違いない。とまれ、ヘイマー氏の場合、その苦しみの果てに次のような「呼ぶ声」を耳にする。

 

「お前はわたしと妥協することはできないぞ」とその声は言っているようだった。「というのは、わたしはほかのすべてのものを超越しているからだ。もしお前が私の呼ぶ声にこたえようとするなら、ほかのすべてを棄て、お前を抑えつけている力を切り棄てなければだめだ。わたしが連れていくところへは自由なものしかついてこれないからだ……」

 

「わたしにはできない」とヘイマー氏は叫ぶが、結局は全財産を投げ出して無一文になり、最終的には地下鉄の線路に転落した酔っ払いの若者を助けて自分は電車に轢かれて死んでしまう。すなわち、ヘイマー氏は翼に包み込まれて天上に上っていったのだ。果たして、このヘイマー氏は神律に生きたのであろうか。