新・ユートピア数歩手前からの便り -4ページ目

純白の理解に参考となる少し長い引用

「日本語において、現象Erscheinungと本質Wesenとをあらわす最も通常的なことばは何だね。学術用語ではいけない。一般に話される普通のことばでそれを現すものはないか?」

このハイデガーの問いに対して手塚富雄は次のように答えた。

「これは通常語ということはできません。元来が仏教語で、意識された思想語です。しかし、すでに長いあいだ日本人のこころになじみになっているものであり、一般にも流布されている点で、かなり通常語に近くなったと言えると思います。それは、色と空ということばで、色は現象、空はだいたい本質にあたると思います。ところで仏教思想、またそれと類縁をもつ日本人の思考においては、この両者は対立するものですが、また同一のものとして把握されます。このことは哲学的思考というより、自然に、素直に、一般人の気もちにしみこんでいるということもでき、そのことがありますために、このことばは、おたずねのことにたいして、答えになると思います。その同一的把握とは、色即空、空即色という考えかたで、これが、かなりわれわれの意識の底にしずんでいます。なお、ことばの意味をよりくわしく言えば、色はいろ、色彩、したがって現象。空は本来Leereでしょうが、またそらHimmelであり、das Offene(ひらいた世界)でもあります。一面では空無ですが、その空無は消極的な意味ばかりでなく、万物の根源的なありかた、したがってまた理想として追求される状態を指向していると思います。仏教はことにそれを自覚します。そして、前に言いました日本芸術の象徴性というのは、ひっきょう、こういう空を象徴するものなのであり、そのことができれば、上乗のものとして、人々から受け取られます。色が即空なとき、色は本質性にむかって踏み出すのですが、そのばあい、その本質の予感は、こういう空無的、無限定的方向をとるのが、われわれのほうでの伝統的な考えかた、感じかたであるようです。さきほど先生は、日本芸術の形而上学性といわれましたが、それは、こういうおもむきをもった形而上学性だと思います。ひっきょう、日本芸術は、ある意味での空間芸術で、そこに長所も制約もあると思います。」

 

「色が即空なとき、色は本質性にむかって踏み出す」という手塚氏の言葉は純白の理解に大変参考になる。ただし、純白の理想は現実の世界で無傷ではいられない。必ず実定化する。すなわち、実質的には白色として機能して、それが絶対的な色となる。我々はその運命を克服しなければならない。かくして純白の死から始まるドラマが要請される。

「こころ」の映像化

昨日の補足に関連して、漱石の『こころ』の映像化について調べてみた。昭和三十年(1955)に市川崑が映画化していた。当然、白黒作品だ。その後、カラーで何度かテレビドラマ化されているが、殊更観たいという気にはならない。「こころ」が描かれているとは到底思えないからだ。市川崑の映画にしても、森雅之の先生を筆頭に映像としては興味深いものの、結局は三角関係のメロドラマにすぎない。それは少し言い過ぎかもしれないが、映像化できるもの、そして映像化に相応しいものはやはり出来事だろう。因みに、ドストエフスキイの『罪と罰』のロシア映画を観たことがあるが、映像化されているのは老婆殺しという罪を犯した青年が罰せられる出来事だけだったような気がする。その水平的出来事の奥底にある「こころ」の垂直的葛藤はなかなか映像化できるものではない。畢竟、言葉で表現するしかないと思われる。とは言え、役者の単なる長台詞で表現できるものでもない。そもそも「こころ」が生み出す真理は語り得ぬものであり、常に言葉の限界を超えている。だから、言葉では語り得ぬ「こころ」の動きを名優の演技で表現できるということはあり得る。その場合、名優は目に見えぬものを見えるようにするという逆説の演技をしていると言える。極めて稀なことではあるが、言葉の限界を超える演技(身体的言語と言えなくはないが)の可能性を私は否定しない。もとより出来事を演じる水平的役者が主流ではあるものの、「こころ」を表現する垂直的役者が待ち望まれる。そこにのみ「こころ」を映像化する意味がある。

補足:色即是空 空即是色

カルビーというお菓子屋さんのポテトチップスなどが従来のカラフルなパッケージから白黒パッケージになったことが話題になった。経済的な理由からだとは思うが、店頭に並んだ商品を見ると、白黒パッケージは逆に目立っている。不自然だからだ。今や我々の日常世界は色に溢れている。テレビもカメラもカラーが当たり前。更に4Kだの8Kだのと「本当」の色の追求に余念がない。そんな中での白黒の世界は新鮮に映る。映画や写真も然り。白黒の作品にはカラー作品にはない何かがある。不思議なことに、白黒の方がリアリティを感じる場合がある。カラーの方がリアルな筈なのに何故だろう。鄙見によれば、人の内面世界を描くには白黒の方が優れているような気がする。内面世界は無色だと言うつもりはない。そもそも白黒は無色ではない。ただ、白黒は日常の色が抜け落ちた世界、その意味では無色に近い世界だと言えるのではないか。因みに、カラーの夢を見る人もいれば、白黒の夢を見る人もいると言われている。その差異についての研究も進んでいるようだが、白黒の夢はより非現実的だと思われる。尤も、非現実的なSFの世界はカラーで描いた方が効果的ではあるが、人の内面描写に色は邪魔になるだけだ。結局、我々が日常的に生活している水平の次元は色の世界だが、そこを垂直に貫く精神の次元は色を超越している。私にはそんな気がしてならない。ただし、諄いようだが、色の超越とは色の無化(無色)ではない。或る詩人は「言葉のない世界を発見するのだ 言葉をつかって」と歌ったが、同様に「色のない世界を発見するのだ 色をつかって」と言えるかもしれない。

補足:「光」にして「存在」

絶対を表現する。無理なことは重々承知している。絶対を表現すれば、否応なく絶対者になってしまう。絶対者は絶対ではない。それは相対者が絶対の仮面を付けているにすぎない。絶対をつかまえることなど絶対に不可能だ。それにも拘らず、人は絶対への問いを断念できない。ハイデガーの存在への問いも然り。彼は存在者の実存分析を通じて存在に辿り着こうとした。当初の構想通りには進まなかったものの、彼は確かに存在に辿り着いたように思われる。それは如何なるものか。ハイデガーの思索そのものからは少し離れるが、その一つの表現を私は次のような文章に見出す。

 

モッラー・サドラーは、スフラワルディーの「光」の中に、そしてイブン・アラビーの「存在」の中に、ハイデガーがドゥンス・スコトゥスの「存在」(ens)という言葉の中に見出したような、絶対的なる「一」(存在)と無限なる「多」(存在者)が矛盾しつつも一つに重なり合う様を、「一」(存在)から「多」(存在者)が生み出される様を、見つめ続けていた。そして、その両者を一つに統合したのである。「光」にして「存在」。そこでは「存在は実在的には一であると共に多であり、多でありながらしかも一である」。(安藤礼二「ハイデガーからスフラワルディーへ:アンリ・コルバンとハイデガー」)

 

「一」即「多」。「光」即「存在」。絶対を表現しようとすれば、結局はそこに辿り着く。絶対矛盾的自己同一。coincidentia oppositorum.そうした表現も基本的には同じだ。問題は絶対を絶対者にしないこと、さりとて絶対の実定化は避けられない。アレーテイアとしての真実からポイエーシスとしての真理へ。浄化と聖化。絶対のドラマは語り尽くせない。

補足:絶対的な色

言うまでもなく、「絶対的な色」という表現は矛盾している。あらゆる色は相対的であり、絶対的な色などあり得ない。余談ながら、或るテレビ番組を観ていたら、黒人差別をする白人ダンサーに対してジョセフィン・ベーカーが「あなたたちの白い肌の下には黒い心があり、私の黒い肌の下には白い心がある」と言ったというエピソードが紹介された。野暮を承知で言えば、彼女の皮肉を込めた心情は理解できるが、その言葉は正しくない。そのままでは依然として「白が善で、黒は悪」という差別に囚われている。尤も、「勝てば白星、負ければ黒星」とか「無実がシロで、犯罪がクロ」など、既に慣習化している表現にまで差別を見るべきかどうかは定かではない。信号機の色のように、それぞれの色には固有の意味が付着しているものの、やはり正しくは「あなたたちの白い肌は純白ではない。私の黒い肌こそ純白だ」と言うべきだろう。しかし乍ら、一般的に純白は最高度の白色としか見做されておらず、あらゆる相対的な色を超越する絶対としては理解されていない。つまり、純白は目に見えないので、「黒い肌こそ純白だ」と言っても意味を成さない。目に見えるのは肌の黒い色だけだ。とすれば、ジョセフィン・ベーカーもまた結局は「Black is beautiful!」と叫ぶしかないのであろうか。もしそれが「黒こそが絶対的な色だ」という意味なら、愚かな白人至上主義者と同じことになる。黒に限らず、肌の色の差別は絶対的な色によって行われる。従って、「どの肌の色も美しい」という相対主義を徹底させるためには絶対的な色を死滅させねばならない。それが純白による浄化だ。ただし、目に見える相対的な色を超越する絶対を純白と称する必然性はないのかもしれない。原理的には、純黒でも純赤でもいい筈だ。最も光に近いという意味で純白はやはり特別なのだろうか。色の慣習的(伝統的)意味の必然性と同様、勉強不足で私にはよくわからない。

純粋白色批判(10)

絶対的な純白による浄化は一つ間違えば「大審問官の論理」に堕す。勿論、純白が大審問官の如き絶対者になることはない。真の絶対は絶対者にはならぬ。「絶対者-相対者」という対の次元を超越するのが真の絶-対だ。もし純白が絶対者になるとすれば、それは絶対の次元から転落して相対的な白色に転化したことを意味する。それは本末転倒だ。しかし、純白の実定化は避けられない。既に純白という言葉自体が実定化だ。厳密には純白について語ることなどできず沈黙するしかない。それにも拘らず、敢えて純白を批判するのは何故か。水平革命の限界を見極めるためだ。純白先生同様、私も「世界の水平化」を切望している。それは「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という賢治の信念にも通じている。ただし、個人の幸福は全体の幸福に包摂されるようなものではない。言い換えれば、全体の幸福は滅私奉公によっては実現しない。また、個人の幸福の集積が全体の幸福になるのでもない。二つの幸福は質的に異なりながらも相即している。「世界の水平化」は個々それぞれの幸福を求めるが、否応なく個人主義に閉塞していく危険性を孕んでいる。純白の浄化はそれぞれの色がそれぞれの在り方で輝く相対主義の徹底をもたらす。それが「世界の水平化」であり、或る特定の色が絶対化することのない世界を実現する。されど、人はそうした個人主義=相対主義の徹底に耐えられるだろうか。それは一つのニヒリズムではないか。人には絶対的なものへの渇望がある。絶対的なものとの関係なくして生きていけない。それ故、相対的な様々な色を超越する絶対的な純白を絶対者(絶対的な色)と見做してしまう。先述したように、それは本末転倒であり、純白の浄化を台無しにするものだ。純白による世界の浄化、すなわち「世界の水平化」は我々の人生にとって不可欠ではあるものの、それ自体では完結しない。浄化は聖化に接続する。聖化のドラマを通じて、単色の人は複色の人間の次元を切り拓いていく。

純粋白色批判(9)

もはや誤解はないと思うが、純白による浄化の徹底は白一色で世界を塗り潰すことではない。純白と白色は質的に異なっている。絶対的な純白は相対的な色の次元を超越しているが故に、何色であれ、一つの色が世界を支配する中途半端な浄化を許さない。それが絶対的な浄化だ。ただし、それは如何なる色も否定しない。むしろ逆に、それぞれの色が正しく輝くことを可能にする。「正しく」とは、異なる色が対立して争ったり、特定の色が他を支配したりすることがないようにすることだ。相対主義の徹底と言ってもいい。純白先生はそれを「世界の水平化」と称しているが、水平化は平均化とは違う。原色を排して中間色に安定を求めるようなものではない。自分の色を極める。それに尽きる。尤も、「自分は無色を生きる」と言う人もいるだろう。何色にも染まることのない無色の生。それはあらゆる色を超越する純白の生と解することもできるが、純白先生は厳密に区別している。純白の生は無色の生ではない。後者を「無の境地」とするならば、前者はそれを「存在者の世界」に反転させる。されど、その反転は再び様々な色の軋轢に翻弄される結果をもたらすのではないか。相対的な色を超越する絶対的な純白による浄化だからこそ世界の腐敗に対して有効ではないのか。実際、そのようなラディカルな浄化を切望している人は少なくない。純白先生もその一人だが、さりとて色が失われた世界を求めているわけではない。色の超越と無化は異なる。そこに純白先生の苦悩がある。水平革命、すなわち純白の力による「世界の水平化」は如何にして実現するのか。

純粋白色批判(8)

浄化と聖化。一体、何が違うのか。浄化は単純な運動で、英語で言えばpurification、すなわちまじりっけなしのピュアな状態にすることだ。異分子が少しでも混じればピュアではなくなる。従って、異分子の徹底した排除が求められる。例えば、民族浄化と言えば、他民族の徹底した排除を意味する。ただし、他民族を見極めるのは容易ではない。血やDNAで民族性を客観的に析出することは可能かもしれないが、そんなものが有効な基準になるとは思えない。むしろ、民族性を異分子の基準にするべきではない。民族性と国民性は質的に異なる。日本人の血を有していても、他国で生まれてその文化の下で育てば外国人になる。逆に、他国の血を有する人でも、日本の文化に魅せられて日本人になる人もいる。その意味において、民族浄化は今や全く意味を失ったと私は思う。もはや血によって異分子を特定する時代は過ぎ去った。されど、世は多様性の時代とは言え、浄化の理想は依然として生きている。国民性の特定も容易ではないが、異分子の排除に積極的な人は少なくない。ピュアな状態が理想だと確信しているからだ。何が異分子かは人それぞれだとしても、自分と同じ生活習慣や常識を共有するピュアな共同体が望まれる。しかし乍ら、鄙見によれば、それは言わば「相対的なピュア」にすぎない。つまり、赤一色のピュアな世界では赤以外の色が異分子となるが、白一色のピュアな世界では白以外の色が異分子となる。そのように様々な色のピュアな世界が乱立することになる。極端な例で考えれば、LGBTQが異分子として排除されるなら、LGBTQの人たちはそんな世界に見切りをつけて自分たちのピュアな世界をつくればいい。かくして人は「相対的なピュア」の世界に住み分けることになるが、それは中途半端な浄化だと言わざるを得ない。ラディカルな浄化は当然「絶対的なピュア」を求める。それは様々な色を超越する純白の徹底に他ならない。純白こそ「絶対的なピュア」であり、そこには排除すべき異分子はあり得ない。我々はそこに飛躍すべきなのか。

純粋白色批判(7)

純白を批判してきたが、その理想は根強い。容易に死に至らない。「汚れることで美しくなる」などと偉そうなことを言っても、純白以上の美を生み出すことは至難の業だ。むしろ、「汚れること」に妥協して世界の腐敗を容認する結果になりかねない。実際、醜悪な世界を浄化できるのは純白の力であろう。「汚れが取れる」と「純白になる」は殆ど同じ意味だ。勿論、色は汚れではない。新品の赤いシャツは全く汚れていない。しかし、色は常に汚れに転化する危険性を孕んでいる。あるいは、汚れは色(汚い色)だと言ってもいい。自分の好きな色は汚れではないが、その色が嫌いな人にとっては汚れに等しくなる。白色も例外ではない。色である以上、白色も汚れになる可能性がある。例えば、お気に入りの赤いシャツにチョークで落書きされれば、その白色は汚れだ。ただし、純白は違う。純白は色を超越しているので、決して汚れにはならない。純白は常に汚れと化した色を浄化する。あらゆる社会の改革に純白の力は不可欠だ。それにも拘らず、私は純白の死を求める。何故か。社会の浄化もさることながら、究極的には社会の聖化が要請されるからだ。聖化のドラマは純白の死から始まる。

純粋白色批判(6)

同じプラモデルを二つ買う奇特な人がいる。一つは自分で組み立て、もう一つは保存用だと言う。「なんて無駄なことを!」と思うが、同時にその心情も何となく理解できる。大切なモノを「純真無垢」な状態で保存しておきたいという心情。モノは使用すれば必ず汚れる。汚さないためには未使用でなければならない。因みに、これは民藝のディレンマにも通じている。民藝は「用の美」を尊び、モノは生活の中で使用されてこそ美しいとされる。ところが、やがて高価な「民芸品」として重宝されるようになると、気軽に使われる食器ではなくなってしまう。下手物から美術品へ。この「発展」は民藝の理念としては堕落であろう。高名な民藝作家の高価な工芸品を普段の食卓で下手物同然に扱ってこそ「用の美」は活きる。更に言えば、民藝の美は汚れることで美しくなる。されど「汚れることで美しくなる」という逆説的な真理に生きることは容易ではない。骨董の美にしても日常生活とは断絶している。美と生活は相容れない。従って、先述の奇特な人のように、モノの美を維持しようとすれば、未使用のモノがもう一つ必要になる。使用しなければ美は現実化しないが、使用と同時に美は崩れ始める。使用するモノと保存するモノ。二つを所有したいという欲望は当然だと言える。ただし、その当然はイキモノには妥当しない。身体は一つしかなく、保存用のもう一つの身体を持つことなど不可能だ。美しい身体の保存を望むなら、その瞬間に夭折するしかない。実際、それを実行するナルシストもいるに違いない。それは言わば純白の理想に殉じることに等しい。そうした夭折の美学も一つの生き方ではあるが、私は純白の死から始まる生き方を求める。生きれば汚れるが、その果てにある美を見極めたい。