合法的な犯罪
明らかに矛盾している。合法的な犯罪など論理的にあり得ない。しかし、戦争はどうか。戦争ではいくら人を殺しても殺人罪に問われることはない。それどころか、たくさん殺すと勲章を授与されたりする。勿論、戦争犯罪というものはあるものの、それは勝者による一方的な裁きにすぎない。敗者の虐殺が罰せられても、勝者のヒロシマやナガサキでの所業が犯罪として裁かれることはない。法律は無力だ。結局、力が支配する。国際法であれ何であれ、それが実行されるためには後ろ盾となる絶大な力を必要とする。国連軍の力がどんな大国の軍事力をも凌駕するものなら少しは良くなるかもしれないが、それでも力が大きく支配していることに変わりはない。最近、アメリカの横暴が目に余るが、これを法的に犯罪と見做すことは不可能だ。では、何がそれを止められるのか。中国やロシアか。しかし、彼等もまた横暴を繰り返していることからすれば、横暴と横暴の泥仕合、延いては世界を分断して第三次大戦という最悪のシナリオになりかねない。EUの 理性に期待するにしても、強国同士の横暴を止めるためにはそれを抑え込むだけの力が要請されるだろう。力、力、力!力以外にこの世界を良くする術はないのか。
犯罪の動機
エリオットはまた、次のように述べている。
私が「通俗」文学をおとしめて「純」文学を擁護しているのでないことも明らかにしておきたいと思います。私がはっきり申し上げたいのは、現代文学はその全部が私のいわゆる「世俗主義」(セキュラリズム)というものによって腐敗させられているということです。すなわち、現代の文学はすべて、人間的生活の上にある超自然的生活の優位という、私たちの第一の関心事と私が考えているものにまったく気づかず、まったくその意義を理解することができないということです。
ここで言われている「超自然的生活」を私は「垂直の次元を意識した生活」と理解している。「超自然的=宗教的」と見做すこともできるが、自然宗教を考慮すれば、やはり超自然性は垂直性と言うべきだろう。従って、垂直の次元は宗教的次元とは厳密に区別されねばならない。とは言え、これは実に微妙な問題であり、その厳密な区別の意味を私は未だ上手く表現できない。余談ながら、私は毎日のように刑事ドラマで様々な犯罪を目撃しているが、その動機が余りにも陳腐で閉口している。殊に殺人について、どうして人が人を殺すに至ったのか、その動機が殆ど問題にされていない。単に殺人の手口(トリック)の謎解きに終始する場合が多い。言うまでもなく、人は様々な理由で人を殺す。恐ろしいことに、大都会の繁華街を歩いていれば、殺したい人の一人や二人はすぐに見つかるに違いない。口に出すか出さないかは別にして、「シネ!」とか「ブッコロス!」といった言葉は至る所で撒き散らされている。しかし、幸い実際に殺人を犯す人は稀だ。金銭目的、あるいは怨恨、嫉妬、復讐など、殺人の動機は数々あれど、衝動的な「殺せ!」という叫びがある一方で、内省的な「殺すべからず」という良心の声がある。後者によって引かれた一線を越えるか否か――その展開にドラマが生まれるわけだが、世俗化されたドラマ(通俗ドラマ)ではその最も重要な瞬間が描かれない。短絡的に「殺せ!」という衝動にいとも簡単に身を任せてしまう犯罪者ばかりだ。確かに、衝動的な殺人はあるだろう。また、ゴキブリを叩き殺すように人を殺して何とも感じない異常者もいるに違いない。しかし、そんなものを描くことにどんな意味があるのか。あるとしても、それはドラマではない。何故か。衝動的=短絡的殺人者は踏み越えてはいないからだ。法律によって引かれた一線は踏み越えたという自覚はあっても、超自然的=垂直的なものによって引かれた一線は全く問題にされていない。世俗主義による腐敗が危惧される所以だ。正にそれこそドストエフスキイの『罪と罰』のテーマではないか。法律上の犯罪は罰に値しない。そう確信したラスコオリニコフは「本当の一線」を踏み越える。そして、垂直的なものと出会う。この出会いから本当に新しいドラマ、すなわち祝祭劇が始まるのだ。凡百の刑事ドラマに登場する犯罪者たちは未だラスコオリニコフ以前を彷徨っているにすぎない。
ズレ続ける感性
薄々自覚はしてきたが、私の感性は狂っているのかもしれない。時代の風潮に取り残されている感じだ。イケメンの俳優たちがスマートに投資に励むCMを目にすると暗澹たる気分になる。今の若者たちはこれを見てカッコイイと感じるのだろうか。実にダサイと私などは感じてしまう。投資でスマートに資産を増やして優雅に生活する。それは高級な娯楽を享受できる生活に他ならない。しかし、これをダサイと感じるのは,所詮、無粋な私が一流の娯楽の味を知らないというだけのことなのか。そんなことを考えながらT.S.エリオットの評論を読んでいたら、次のような文章に遭遇した。
ふつう世の人々は、他人の人生観に関するこの経験を私たちが得るのは、ただ「人を向上させる読書」によってだけであると思い込んでいるようです。それはシェイクスピア、ダンテ、ゲーテ、エマーソン、カーライル、その他何十人かのれっきとした作家たちに打ち込むことによって得られる報酬だと考えられています。それ以外の娯楽のための読書は、ただ時間つぶしにすぎないのです。しかし「娯楽」のために、あるいは「まったく慰み」に読む文学こそ、私たちに対してもっとも大きな、そしてまことに思いもよらぬ影響を及ぼすのだというおどろくべき断定を私はくだしたいのです。私たちに対してもっともたやすく、もっともひそやかに人知れずしのび寄る影響力を持つことができるのは、私たちがもっとも努力を要せずに読んでいる文学です。それゆえ通俗小説家と、現代生活を扱った通俗劇との影響は、もっとも厳密に吟味をする必要があります。
若者たちがカッコイイと憧れる生き方に関するズレ。これは私にとって致命的な問題だ。時代は、そして大衆は明らかに娯楽のパラダイスを求めている。それを超える祝祭のユートピアは依然として夢物語にすぎない。もはや垂直性の出る幕はないのか。
補足:祝祭の魔力
娯楽は主に劇場(スポーツの競技場や遊園地も含む)で享受される。人はそこで日常の労働の憂さを晴らす。劇場は非日常的空間であり、労働し続ける力を再創造(re-creation)するための場だ。通常、人の生活は労働と娯楽の循環から成り立っている。娯楽を欠いた労働の悲惨さは明白だが、労働を欠いた娯楽も耐えられない。毎日が日曜日では楽しさよりも苦しさが募っていくだろう。無理のない労働と適度な娯楽の調和が幸福な生活を可能にする。そこに水平的幸福があり、多くの人はそれを実現してくれる社会を理想とする。勿論、その理想は未だ実現していない。それどころか、娯楽を享受する余裕のない過酷な労働を余儀なくされる者と贅沢な娯楽に明け暮れる者との分断はますますひどくなっている。「世界の水平化」、すなわち水平革命が待望される所以だが、それは如何にして実現するのか。平等主義は世界を閉塞させ、自由主義は世界に格差をもたらす。自由と平等は原理的に両立しないが、「世界の水平化」はその不可能な両立を要請する。それは祝祭の要請でもある。祝祭は世界そのものを舞台とし、労働と娯楽の循環を超えていく。と同時に、水平的幸福も止揚される。この世界は幸福を目指す場所ではない。もはや娯楽は二次的な意味しか持たなくなる。労働が遊びとなり、遊びが労働となる。これは今のところ荒唐無稽な戯言でしかないが、私は万難を排してその祝祭劇を書きたいと思う。当然、私一人だけで書けるものではなく、祝祭劇には単独者の連帯が不可欠だ。そのような連帯を求めて、性懲りもなく、殆ど誰にも読まれぬ便りをこれからも書き続けることにしたい。
補足:祝祭への飛躍
サルがヒトに進化し、ヒトはやがて人になる。サルとヒトとの生物学的差異は明らかだが、ヒトと人との差異は何だろう。色々と考えられる中で、ここでは娯楽の享受に注目したい。食うための労働に忙殺されていたのが、道具や技術の発展によって生活に余裕が生まれてくる。人生はパンの追求に尽きるものではない。パン以上にこそ人生の意味はある。そう考え始める余裕だ。では、パン以上にどんな意味があるのか。生を楽しむこと、すなわち娯楽だと多くの人は考えた。他のイキモノはゾーエーの循環、すなわち生まれて、成長して、婚姻によって家族をなし、やがて老いて死んでいくという過程に徹している。選択の余地はない。そこに生の悦びがあるとしても、それは本能的なものにすぎない。とは言え、人生に本能的な悦び(快楽)以上の楽しみがあるだろうか。以前にカイラクとケラクの差異について考えたが、イキモノのカイラクを超えるケラクとは何か。例えば、我が子の成長を楽しむというカイラクがある。それは「家庭の幸福」の最たるものだろう。親は子のためなら命を投げ出せる。子もまた然り。こうした親子愛のカイラク以上のケラクはあるのか。多くの人はカイラクに充足するかもしれない。しかし、「親は子のために生き、その子もまた親になり自分の子のために生きる。一体、人はいつになったら本当に生き始めるのか」と嘆くゴーギャンのような人もいる。私はゾーエーのカイラクを否定するつもりはないが、ビオスのケラクにより関心がある。そして、娯楽はケラクの一つだと思う。しかし、それはケラクとしては不十分だ。人は更に人間となり、娯楽は祝祭へと飛躍しなければならない。
補足:娯楽の力
私はこの世界が祝祭の場となることを求めているが、娯楽(エンタテインメント)を否定しているわけではない。日々の生活に娯楽は不可欠だ。現実の世界には苦しみが溢れている。理不尽なことが多すぎる。娯楽なしにはこの生き辛い世の中を生き抜くことなどできない。よく芸能人やスポーツ選手が「自分たちのパフォーマンスが苦しんでいる人たちにとって少しでも明るく生きていく力になれば嬉しい」というような趣旨の発言をしていることがある。結構な趣旨だが、多くの人に生きる勇気を与えるようなパフォーマンスは並大抵の努力でできるものではない。しかし、厳しい精進を積み重ねて芸の道を極めれば、その娯楽は確かにそれを観る人たちの生きる力になることは間違いない。余談ながら、最近のニュースでスポーツ選手の桁違いの年俸を知って驚いたが、それだけそのスポーツという娯楽が一般大衆に注目されているのだろう。大勢が必要とするから、そこに富が集中する。プロスポーツも含めたエンタメ業界は世界を華やかなものにする。勿論、そうした華やかな世界を享受するためには或る程度の富を要する。一流の料亭で一流の料理を味わい、一流の劇場で一流の芸を味わう。その一流の生活は正にパラダイスだ。多くの人はそれぞれのパラダイスを目指して頑張っている。食うためだけに生きているのではない。その基本の上でそれぞれの生き甲斐となる娯楽を求めて生きている。そうした娯楽中心の人生観に生きて何が悪いのか。悪いと言う資格も権利も私にはない。ただ、娯楽への埋没はこの世界の根源的変革への意志を埋没させるものでもある。おそらく、今やそうした意志は娯楽を享受できない窮民のみにしか見出せないだろう。とは言え、窮民革命によって或る程度の豊かさが実現されると、その窮民も娯楽の力に囚われることになる。娯楽の力から一歩踏み出すことは難しい。
祝祭のユートピア(10)
とかくに人の世は住みにくい。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画が出来る。漱石の有名な言葉だが、この場合の詩や画とは何だろうか。「あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である」と漱石は続けている。私は途方に暮れてしまう。住みにくき世から住みにくき煩いを引き抜いて写す「ありがたい世界」とは何か。それは有難い=何処にもない世界、すなわちユートピアなのか。嫌な事も嫌な奴も存在しない世界があれば、確かにそこは長閑であり、人の心も豊かになるに違いない。しかし、それは現実には存在しない世界なのだ。ニヒリズムは避けられない。「ニヒリストとは、現実の世界については、それはあるべきではないと判断し、あるべき世界については、それは現実的に存在しないと判断する人間である。そこから生存は如何なる意味も持たぬことになる」とはニーチェの言葉だが、現実にある世界とあるべき世界の二つに引き裂かれているのが我々の実存だ。この如何なる意味も持たぬ実存から我々はどう生きればいいのか。現実には存在しないあるべき世界(ありがたい世界)を夢見させてくれる詩や画を楽しむのも一つの道だが、漱石も言うように、それは「余裕のある第三者の地位」に立つことのできる人に限られる。余談ながら、昨年末の紅白歌合戦を先程二倍速でザッと観たが、殆ど知らない歌手ばかりであったものの、そこには曲がりなりにも「ありがたい世界」があった。年に一度、国民の大多数が「余裕のある第三者の地位」に立ってお祭り騒ぎを楽しめることは貴重なことだと思う。しかし、そんな騒ぎとは無縁の人もいるし、やがて新年が明けても、正月気分はいつまでも続かない。所詮「ありがたい世界」は娯楽であって、我々はそこに住むことはできない。勿論、現実には住めなくても、「ありがたい世界」に遊ぶことはできる。娯楽が生き甲斐になる。実際、詩でも画でも音楽でもスポーツでも何でもいい、娯楽があるからこそ、この生き辛い世界に生きていられるという人は少なくないだろう。娯楽の力は侮れない。しかし、私自身は娯楽とは別の道を摸索している。言うまでもなく、祝祭への道だ。祝祭もまた「ありがたい世界」=ユートピアを求めるが、それは娯楽が夢見させてくれる「ありがたい世界」とは質的に全く異なっている。どう違うのか。娯楽は大衆の生き甲斐にはなるものの、ニヒリズムを根源的に克服することはできない。現実の醜悪な世界から単に逃避しているにすぎないからだ。逃避できる場所があるなら結構という人もいるだろうが、祝祭は現実の世界から逃げることなくニヒリズムを根源的に克服する道を求める。そのことの意味について更に思耕を続けたい。
祝祭のユートピア(9)
私が武者小路実篤の「新しき村」に関心を懐いたのは、そこに祝祭への可能性があると思ったからだ。その期待は決して私の勝手な思い込みではなかったと思う。しかし、結果的に私の思いは理解されなかった。今では誰も見向きもしない。それは理解されるような表現ができなかった私に責任があるものの、最初から根源的なズレがあった。私はこの世界に垂直の次元を取り戻したいと願った。単なる社会運動以上の何かを望んだのだ。殆どの人はその何かを宗教運動と理解した。それは強ち誤解ではないが、私の求める「宗教」は常に実定宗教をディコンストラクトするような力だ。その力が祝祭を生み出すと言ってもいい。垂直の次元は宗教的次元とは異なる。同じように見えるが、質的には全く違う。とは言え、大小を問わず、どんな宗教でもその始まりは垂直の次元にあるだろう。オウム真理教のようなカルト宗教も例外ではない。それが教団として発展していくにつれて、やがて垂直の次元は宗教的次元へと変質=堕落していく。おそらく、私の求めた祝祭への可能性は多くの人にとって宗教的堕落への危険性としか解さ れなかっただろう。だから、村人は皆、平穏無事な生活を約束してくれるような社会運動に閉じ籠ろうとした。勿論、平穏無事な生活にも祭りはある。例えば、収穫祭や大漁祭のような自然の恵みに感謝するお祭りだ。それは重要な祭りであり、私は蔑ろにするつもりはない。しかし、そうした水平的祭りとは別に、垂直的祭りがあるのではないか。それが祝祭に他ならない。
祝祭のユートピア(8)
私は精神的に強いのか弱いのか、自分でもよくわからなくなった。人として生きる自然の道を外れているという自覚はある。外れたのは自分の意志だ。そこに何の疑いもなく意志の強さを見出してきたが、自然の道に辛抱できなかった弱さとも解することができる。どちらにせよ、今私の生きている現実は寂しくて堪らない。こんな愚痴を漏らしているのはやはり弱さのせいだろうか。しかし、ここで負けるわけにはいかないという根強い思いもある。ラスコオリニコフの苦悩は自分を社会からハサミでジョキンと切り離してしまったことから発しているが、孤独に引き籠ることは本意ではないだろう。彼は社会との新たな関係を求めている。そのた めには単独者として生きることが不可避であり不可欠だ。当然、寂しい生活を余儀なくされる。その寂しさ故に娯楽に逃げようとする誘惑に駆られるが、たとい娯楽で繋がる関係がどんなに賑やかでも、生きることの寂しさはそこではなくならない。むしろ、社会が賑やかであればあるほど、寂しさは募っていく。寂しさをその根源から克服できるのは単独者だけだ。そして、単独者はその可能性を祝祭の実現に求める。
祝祭のユートピア(7)
Wagagotoki
Yonotsunebito wa modaesezu,
Metorite, umite, oite, shinubeshi!
高校教科書の「日本文学史」の中に、土岐哀果(後に善麿)のこのローマ字短歌に出遭った時の衝撃は今でも忘れられない。何がそんなに衝撃だったのか。それはおそらく「同じ問題に苦悩している人がいる!」という衝撃だったと思われる。愛する人と結婚し、子供が生まれ、やがて老いて死を迎える。世の常人はそこに幸福を見出すに違いない。しかし、世の中には「人生とはそれだけのものなのか」と苦悩するAusnahmeがいる。あらゆるイキモノには寿命がある。何百年も生きる動物もいれば、数か月しか生きられない動物もいる。人の寿命は今や百歳に届かんとする勢いだが、自然寿命は三十八歳だと言われている。私はそれをゾーエーの基本的過程だと理解しているが、正に「生まれて、性的に成熟して、子をなし、やがて老いて死んでいく」期間と一致するのではないか。すなわち、そうした基本的過程にのみ人生の意味はあるのであって、それ以上の意味を求めることは自然に反する、ということだ。人は余りにも寿命を人工的に伸ばし過ぎたのかもしれない。実際、結婚して子供をもうけ、老いて死んでいくだけの人生なら、四十年程度で十分だろう。しかし、罰当りな私は若い頃からそんな自然の人生に我慢ならなかった。そして、ゾーエーの基本的過程以上の意味を人生に求めた。結果、結婚もせず、自分の家庭を築くこともなく、ただ老いさらばえるだけの人生を辿っている。