祝祭のユートピア(9)
私が武者小路実篤の「新しき村」に関心を懐いたのは、そこに祝祭への可能性があると思ったからだ。その期待は決して私の勝手な思い込みではなかったと思う。しかし、結果的に私の思いは理解されなかった。今では誰も見向きもしない。それは理解されるような表現ができ なかった私に責任があるものの、最初から根源的なズレがあった。私はこの世界に垂直の次元を取り戻したいと願った。単なる社会運動以上の何かを望んだのだ。殆どの人はその何かを宗教運動と理解した。それは強ち誤解ではないが、私の求める「宗教」は常に実定宗教をディコンストラクトするような力だ。その力が祝祭を生み出すと言ってもいい。垂直の次元は宗教的次元とは異なる。同じように見えるが、質的には全く違う。とは言え、大小を問わず、どんな宗教でもその始まりは垂直の次元にあるだろう。オウム真理教のようなカルト宗教も例外ではない。それが教団として発展していくにつれて、やがて垂直の次元は宗教的次元へと変質=堕落していく。おそらく、私の求めた祝祭への可能性は多くの人にとって宗教的堕落への危険性としか解されなかっただろう。だから、村人は皆、平穏無事な生活を約束してくれるような社会運動に閉じ籠ろうとした。勿論、平穏無事な生活にも祭りはある。例えば、収穫祭や大漁祭のような自然の恵みに感謝するお祭りだ。それは重要な祭りであり、私は蔑ろにするつもりはない。しかし、そうした水平的祭りとは別に、垂直的祭りがあるのではないか。それが祝祭に他ならない。