理想主義に徹する覚悟(6)
古より人は不老不死に憧れてきた。不死は不可能だとしても、不老長寿は今でも追い求められている。所謂アンチエイジングの薬剤や化粧品、更には手術などによって老化を防ぎ、極力若さを保とうとしている人は少なくない。正に不老長寿の実現は夢だ。しかし、理想ではない。理想はむしろ夭折にある。若くして生を完全燃焼させる――これ以上の理想はない。ただし、それは天才にのみ許された理想にすぎない。私の如き凡人は百歳生きても、いや二百歳生きても理想実現には程遠い。その意味において、できるだけ健康で長く生きること、すなわち不老長寿は私にとっても夢だ。しかし、理想ではない。不老長寿は理想を実現するための夢であっても、それ自体は理想ではない。この差異は何を意味するか。余談ながら、「国別100年人生意向」調査によれば、「人生100年時代において、あなたは100歳まで生きたいと思いますか?」という問いに対して、日本人は80%近くが「そう思わない」と答えている。これは他の国に比べて圧倒的な数字であり、例えばアメリカでは逆に60%以上が百歳まで生きたいと思っている。おそらく、これは日本が超高齢化社会だからであろう。総じて若い世代が主流の国は長生きしたい割合が高くなり、平均寿命が伸びて高齢者が大半を占める国では低くなる。当然のことだ。もし高齢になっても若い時のようにバリバリ活動できるならば、長寿を望む人は格段に増えるに違いない。しかし、現実は異なる。頭も体も思うように働かなくなり、やがて歩けなくなって寝たきりになる。そんな不自由な状態で長生きして何の意味があるのか。高齢者が長寿を望まない理由は明白であり、ピンピンしているうちにコロリと往くのが最高の望みとなる。実に寂しい話ではないか。絶望的でさえある。そこで先進国は科学の粋を結集して不老長寿の夢を実現しようとする。それは百歳になっても心身共に健康な生活の実現だ。確かに、そうした夢の実現は多くの人を幸福にするだろう。いつまでも元気で娯楽を享受できる生活。しかし、それは新たなニヒリズムの始まりではないか。何故か。不老長寿の夢が実現しても、そこには理想が欠けているからだ。
理想主義に徹する覚悟(5)
私はキリスト教徒ではないが、踏絵という試練には戦慄せざるを得ない。同様の戦慄は忠臣蔵のドラマにも感じられる。その状況に置かれたら、私は義士の同志になれるだろうか。甚だ心許ない。早野勘平は例外だとしても、忠義を貫く理想よりも愛する人と幸福に暮らす現実を選ぶ人は少なくないだろう。信仰を貫く理想と死ぬのが怖いという現実に引き裂かれる場合も然り。そこでは人として生きることの決定的に重要な何かが試されている。尤も、世俗化された現代社会において、そのような戦慄すべき試練は既に陳腐なものに成り果てたのかもしれない。それでも皆無ではない。いや、考えようによっては、些細な日常生活にも溢れている。屈強な不良に誰かが虐められている現場を目撃した時や会社の不正を見つけた時など…。見て見ぬふりをすれば取り敢えず自分の平穏な日常は保たれる。しかし、それでいいのか。されど正義を貫こうとすれば自分も無傷ではいられない。理想と現実の「あれか、これか」という試練は未だ世俗社会にも生きている。十中八九現実主義に流れるとしても、心の奥底に理想を貫きたいという思いが沈殿しているのではないか。そこに微かな希望がある。私自身、弱い自分の現実と強くありたいという理想との間で日々揺れ動いている。ただし、実に厄介なことに、弱い自分を肯定(認容)する理想主義もある。むしろ、殉教できる強さを誇ることは理想主義の真理から遠ざかっていく。踏絵を拒絶して堂々と殉教できる強さには憧れる。しかし、私の求める理想主義に徹する覚悟はどうもそのようなものとは違う気がしてならない。
理想主義に徹する覚悟(4)
通常、水平的現実主義が一般的な現実主義であり、垂直的現実主義は理想主義と見做される。しかし、私が問題にしている区別は少し違う。余談ながら、ウクライナの選手がロシア国籍を取得したというニュースがあった。「裏切り者!」などと非難されているが、ウクライナ国籍のままでは十分な練習ができず、オリンピックで活躍するためにはロシア国籍になった方が有利だと判断したのであろう。自分のスポーツ選手としての将来を見据えた妥当な判断だとも言える。国籍なんか関係ない。スポーツを生き甲斐とする個人としての問題のみが重要なのだ。多くの人はこの判断に現実主義を見出す。これに対して、個人の問題を超える何か、例えば自分が生まれ育った祖国の意味を重視して、たといスポーツ選手としてのキャリアを犠牲にする結果になったとしても、決然と祖国への愛を貫く――そうした判断をするならば、人はそこに理想主義を見出すに違いない。個人の利害のみを問題にする現実主義と個人を超える全体を問題にする理想主義、それが通常の区別だと言ってもいい。この区別に従えば、「理想主義に徹する覚悟」は陳腐なものと思われても仕方がない。殊に「身捨つるほどの祖国」が失われた戦後の日本では、個人の幸福のみに拘泥する生き方が現実主義と見做されている。神の死と共に、理想主義も死んだ。もし本当にそうなら、私の覚悟は理想主義の復活、すなわち「身捨つるほどの祖国」とそれを可能にする神の復活を要請するのか。確かに、その危険性を常に胚胎している。しかし、私の求める理想主義はそれを克服するものでなければならない。個人の幸福のみに拘泥する現実主義でもなければ、それを犠牲にして世界全体の幸福を実現しようとする理想主義でもない。前者は現実主義の堕落態、後者は理想主義の堕落態にすぎない。それらは二つの現実主義、すなわち水平的現実主義と垂直的現実主義によって真実に近づいていく。理想主義の真理はその先にある。
理想主義に徹する覚悟(3)
現実を凝視せよ!私はいつもそうしてきたつもりだ。しかし、一体どんな現実を私は見てきたのか。大金持の現実も、赤貧の現実も無縁であった。世の中には様々な現実がある。私の知らない現実があるのは当然だが、おそらく凝視すべき現実は社会の底辺での生活を余儀なくされる者の不幸であろう。「世界がぜんたい幸福にならなければ、個人の幸福はあり得ない」という賢治の言葉が人々の魂を貫く。そして、最も不幸な者の現実に我が身を置くというシモーヌ・ヴェイユのような生き方を生む。それは水平的な現実に基づく生き方だ。実際、ウクライナやガザなど、世界の紛争地で生活する不幸な現実を我が事として生きている人は少なくない。私はそうした水平的現実主義を実に尊いと思う。しかし、それだけでは「世界全体の幸福」は実現できないのではないか。私は決して水平的現実主義を回避するつもりはないが、もう一つの現実主義があると考えている。それは垂直的現実主義だ。水平的現実主義と垂直的現実主義。両者の差異は何か。
理想主義に徹する覚悟(2)
貧困に喘ぐ民衆。「この悲惨な現実を何とかしてくれ!」という叫びにトランプが応える。MAGA. しかし、自国の繁栄を第一とする現実主義はアメリカの理想に救いを求める民衆(移民)を排除しようとしている。理想に対するこうした現実の優先はやむを得ないことなのか。トロッコ問題のように、両者を救うことが不可能な状況に直面すれば、どちらかを選ばねばならない。しかし、理想と現実の「あれか、これか」はトロッコ問題とは質的に異なっている。究極的には「理想の現実化」が問題になる。私はそう思わずにはいられない。理想を見失った現実は、たとい大衆の熱い支持を獲得しても、やはり虚しい。とは言え、大衆がそれだけ支持するからには、それなりの理由がある。簡単には無視できない。余談ながら、立川で長きに亘って基地反対闘争を展開している加藤克子さんのドキュメンタリイを観たが、それは戦争放棄・武力不保持という理想を求め続ける運動だと言える。これに対して、加藤さんたちを「非国民!国賊!」と罵る右翼の運動がある。それは国防の必要性もしくは不可避性という現実に基づいた運動だ。ここでも理想と現実が激しく鬩ぎ合っているが、両者に和解はあり得ないのか。今のところ、右翼の人たちは加藤さんたちに自分たちと対立する「左翼」しか見ず、その理想を理解しようとする気配は全くない。右翼にとって左翼は打倒すべきものでしかなく、そこに和解はあり得ない。また加藤さんたちにしても、「基地をなくせ!自衛隊は去れ!」と叫んでいるものの、もし侵略されたらどうするのか。否応なく自衛隊の戦力に縋りつくしかないのではないか。理想は現実をエポケーし、現実は理想を無視している。こうした不毛な対立を一刻も早く終わらせねばならない。もはや右翼だの左翼だのと言っている場合ではない。改めて「理想の現実化」が要請される。おそらく、それは「現実の理想化」との二重運動として理解されるべきだろう。
理想主義に徹する覚悟
理想か、現実か。我々はその都度、どちらかを選択する決断に迫られる。大抵は現実が優先される。生きるか死ぬかという緊急時に、理想など問題にしていられないからだ。然り、理想は一般的に不要不急だと見做される。しかし、だからと言って、理想なしで生きられるだろうか。そもそも理想とは何か。私は繰り返し理想と夢の区別を問題にしてきた。鄙見によれば、人々が日常的に口にする理想は夢にすぎない。誰にも夢があり、夢のある人生を望んでいる。なりたい者になる。したいことをする。夢は十人十色、それぞれの夢を実現していくことが生き甲斐になる。たとい一つの夢に挫折しても、新たな夢が必ず生まれる。勿論、現実の人生はそんなに甘いものではない。貧困や戦争(不慮の事故なども含む)によって夢のない人生を余儀なくされる場合がある。従って、そのような不幸な場合を皆無にすべく、誰もが自由かつ平等にそれぞれの夢を追求できる社会の実現が望まれる。そして、その実現を阻む現実が問題となる。しかし、そこでは夢を叶える現実が問題にされても、夢を超越する理想が問題になることはない。理想は殆どの人にとって余計なものであり、理想か、現実か、と問うこと自体が今や陳腐と化している。私はここに水平の次元における現実主義の圧倒的な勝利を見出す。それは個々の夢を核とするパラダイスの優位でもある。私は人々がそれぞれのパラダイスを求めて生活している現実を否定するつもりはない。しかし、パラダイスには夢はあっても理想がない。理想なき現実。そのことをこそ問題にしたいのだ。
理想の試金石としての憲法第九条
改めて第九条を読んでみる。
第1項: 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
第2項: 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
素直に読めば、戦争の放棄と戦力の不保持は明白だ。戦力は英語ではforcesであり、ここでは「無力の力」の理想が謳われていると理解することができる。しかし、平和は誠実に希求するだけでは達成されない。それが現実だ。そして、この現実が第九条の理想をなし崩しにして、日本は事実上かなりの戦力を保持するに至った。これを理想の挫折と考えるべきか否か。たとい理想の挫折だとしても、国民の大半はそれを支持するだろう。理想より現実が大切なのだ。理想を貫くために命が失われては元も子もない。誰もがそう考えてその正しさを疑わないが、それは命を懸けるに値する理想が失われているからにすぎない。確かに、家庭の幸福を核とするパラダイスの理想が至上のものなら、それを死守するための戦力は必要になるだろう。放棄すべきは侵略戦争であって、自衛戦争まで放棄することは不可能だ。第九条をそう解釈すれば、理想の挫折は回避できるかもしれない。しかし、本当にそうだろうか。私には理想の妥協としか思えない。少なくとも私にとって、パラダイスは究極的な理想ではない。パラダイスを超える理想が必ずある。ただし、究極的な理想を求めることが正しいかどうかは問題にしなければならない。周知のように、第九条の理想はアメリカによってもたらされた。そのせいで押し付け憲法とか何とか言われているが、当のアメリカが理想を見失っている今、日本は第九条の理想を本当に自分のものにすべきか否かを決断しなければならない。そして、大国が「力の支配」という現実に流されていくなら、日本こそが本当の理想を追求していかねばならない。その覚悟があるか。
現実主義者の苛立ち
「無力の力」、すなわち非暴力による徹底的な抵抗を熱く語る理想主義者に対して、現実主義者は激しい苛立ちに駆られるに違いない。そんな詭弁を弄しているうちに侵略されたらどうするのか。自分の愛する家族や恋人が殺されそうになっても非暴力を貫けるのか。当然の苛立ちだ。実際、クマに襲われたら何らかの武器で戦うしかない。大山倍達以外に素手でクマに勝てる者はいないだろう。しかし、問題は武器をとること自体にはない。クマと人は違う。そもそもクマの人を襲う力は暴力ではない。どんなに強大で、たとい人を食い殺したとしても、その恐るべき力は暴力ではない。自然の力だ。同様に、津波や台風が猛威を振るって多くの人を殺したとしても、それは暴力ではない。自然の力だ。自然の罪を問うことはできない。自然の力は暴力ではないからだ。野犬が赤ん坊を食い殺しても、法的な罪は成立しない。その野犬が殺処分されたとしても、それは法的な罰ではない。罪と罰は人においてのみ問題となる。人においてのみ力は暴力に転化するからだ。従って、少年法や刑法39条に明記されているように、未だ人ではない少年やもはや人ではない心神喪失者の凶悪な犯行は罪と罰の対象から外される。それはクマや野犬の蛮行と同等のものと見做される。ただし、責任能力を問えない点では同じでも、未成年や精神障害者とクマや野犬との間には決定的な差異がある。それは前者には「人になる可能性」が残されているという差異だ。その差異において、人デナシの凶行は暴力として問題にできる。現実主義者は人デナシの暴力に対しては暴力で対抗するしかないと考える。それに対して、理想主義者は人デナシの暴力にさえ人間性回復の可能性を見出そうとする。やはり和解は不可能だろうか。
力(Macht)への意志
私は以前に「無力の力」について思耕したが、大国による「力の支配」という横暴が憂慮される今、改めて考えてみたい。「無力の力」とは何か。無力とは言え、それはやはり力だ。人間にとっては真の力だと言ってもいい。あらゆるイキモノと同様、人も生きていくのに力を必要とする。力がなければ生きていけない。生きる力、ゾーエーの根源的な力。だから人は力をつけようとする。体力、知力、そして総合的な生活力。大きな力をつければ、それだけ大きな仕事ができる。強大な力を得ることの価値を人は疑わない。しかし、それは往々にして暴力(Gewalt)に転化する。それは力の堕落に他ならない。そうした暴力の支配に我々はどう立ち向かえばいいのか。周知のように、偉大なる魂(マハトマ)のガンディーは非暴力で不服従を貫いた。非暴力は無抵抗ではない。「無力の力」でラディカルに抵抗する力だ。その力にこそ暴力を無化する可能性がある。しかし、それは本当に現実的な力になり得るだろうか。余談ながら、『プロパガンダゲーム』というドラマを観ていたら、「悪い人が武器を持ったら、善い人も武器を持って対抗しなければなりません」というセリフに出くわした。全く現実的な意見であり、ガンディーのような偉大なる魂以外に殆ど誰も反論できない。実際、ガンディーが命を懸けた理想に反して、インドもパキスタンも核武装してしまった。相手が武器を持ったら、こちらも武器を持つべし!これが今や現実的な常識と化している。この常識を粉砕する道はあるのか。暴力に対抗する力が暴力に堕さない道だ。「無力の力」による祝祭共働への道しか考えられない。
合法的な犯罪
明らかに矛盾している。合法的な犯罪など論理的にあり得ない。しかし、戦争はどうか。戦争ではいくら人を殺しても殺人罪に問われることはない。それどころか、たくさん殺すと勲章を授与されたりする。勿論、戦争犯罪というものはあるものの、それは勝者による一方的な裁きにすぎない。敗者の虐殺が罰せられても、勝者のヒロシマやナガサキでの所業が犯罪として裁かれることはない。法律は無力だ。結局、力が支配する。国際法であれ何であれ、それが実行されるためには後ろ盾となる絶大な力を必要とする。国連軍の力がどんな大国の軍事力をも凌駕するものなら少しは良くなるかもしれないが、それでも力が大きく支配していることに変わりはない。最近、アメリカの横暴が目に余るが、これを法的に犯罪と見做すことは不可能だ。では、何がそれを止められるのか。中国やロシアか。しかし、彼等もまた横暴を繰り返していることからすれば、横暴と横暴の泥仕合、延いては世界を分断して第三次大戦という最悪のシナリオになりかねない。EUの理性に期待するにしても、強国同士の横暴を止めるためにはそれを抑え込むだけの力が要請さ れるだろう。力、力、力!力以外にこの世界を良くする術はないのか。