新・ユートピア数歩手前からの便り -3ページ目

ナディアの懸念(10)

改めてナディアの懸念を振り返れば、それは「機械化=自動化は人を怠け者にする」と要約できる。確かに、人がしてきたことを機械がするようになれば人のすることはなくなっていく。論理的にはそうだが、駅の自動改札機は駅員を怠け者にしたか。合理化とは人員整理の別名でもあるが、駅員は単に改札の労働を機械に奪われただけではないか。ここにラッダイト運動が生じた理由がある。自動改札機は駅員を怠け者にではなく失業者にした。怠け者も失業者も何もしていないことにおいて同じだが、怠け者が「何もしたくない」と思っているのに対し、失業者は「為すべきことをしたい」と思っている。しかし、改札の単純労働が為すべきことなのか。自動改札機にはむしろ駅員を単純労働から解放して、駅員本来の仕事に向かわせる可能性が見出せるのではないか。その仕事が何かは別として、機械にできる労働あるいは機械の方が優れている(正確で迅速)労働は人の「為すべきこと」(本来の仕事)ではない。これは優劣の問題ではなく、生の輝きの問題だ。そもそも優劣を競えば、もはや人は機械に勝てないだろう。体力勝負は言うに及ばす、囲碁将棋などの頭脳勝負でも人は機械(AI)に勝てなくなっている。今後、ヒューマノイドが進化して機械の人格に違和感がなくなれば、感動を生み出すドラマにさえ人の出る幕はなくなるかもしれない。例えば、オリンピックやワールドカップには文字通り超人的なヒューマノイドばかりが出場して、人は恰も競馬を観戦するようにそのハイレヴェルな勝負に熱狂する。つまり、優劣だけが問題なら、人は観客に成り下がるしかない、ということだ。自分たちは一切プレイすることなく、ただ観戦する。もとより観客としての生の輝きもあるが、私はあくまでもプレイヤーとしての生の輝きを求めたい。されど労働の次元に人がプレイヤーとして活躍できる可能性は失われ続けている。機械の方が優れているからだが、機械に労働を奪われることは逆に歓迎すべきではないか。人がプレイヤーとして生きるべきは仕事の次元であって労働の次元ではない。とは言え、労働とは次元を異にする仕事の次元を確立するのは至難の業だ。その困難さ故に、労働にしがみつかざるを得ない人も未だ少なくない。また今のところ、労働にしがみつかなければ食っていけない現実も否定できない。ナディアの懸念を完全に払拭することはできないものの、人は怠け者になることなく「労働の廃絶」を目指すべきだ。「怠ける権利」は蠱惑的ではあるが、それによって人の生が「本当」に輝くことはない。

ナディアの懸念(9)

『銀二貫』というドラマの中で、或る寒天職人が「生きるというのは、シンドイけれど、楽しいなぁ!」と話していた。苦しきことのみ多かりき人生なれど、それでもその苦しさを経て「人生は楽しい」と感じる。他のイキモノにも生きていることの快感はあるだろうが、「生を楽しむこと」を意識するのは人だけではないか。ゾーエーの充足による快感はあらゆるイキモノに共通しているが、人はそれ以上の楽しさを求める。つまり、ただ生きて在るだけでは満足できない。この不満足がビオスの次元を切り拓く。これは生きて在ることが危機に瀕する限界状況では戯言にしか聞こえないだろう。実際、被災地ではビオスなど不要不急の次元にすぎない。そこでは「ただ生きて在ること」がどれほど有難い幸福かを身に染みて実感する。されど、それはあくまでも限界状況の真実であって、人生の真理はやはりビオスの充実にあると私は思う。ただし、ビオスの充実は単に娯楽や趣味で余暇を楽しむことでは得られない。それも人生を楽しむことには違いないが、その楽しみは依然としてゾーエーの充足にとどまる。ゾーエーの充足としての労働とビオスの充実としての仕事。労働した後の一杯の生ビールはゾーエーの充足であり、その楽しみはビオスの充実には至らない。そもそも余暇の楽しみは労働を前提にしており、ビオスの次元とは関係がない。誤解を恐れずに言えば、私は全世界の人が仕事に集中できる社会を求めているが、それは余計なお世話であろうか。人は仕事によるビオスの充実よりも労働後の一杯の生ビールの快楽を選ぶのか。

ナディアの懸念(8)

書けば書くほど書きたいことからズレていく。生きるためには労働しなければならない。働かざる者食うべからず。しかし、人は古来「働かなくても食える社会」を夢見てきた。それは怠け者の夢だろうか。もとより労働が生き甲斐だと言う人もいるが、それは「食うための労働」が「自己を生かす仕事」と一致している場合に限られる。つまり、厳密に言えば、生き甲斐になっているのは労働ではなく仕事に他ならない。その意味において、「労働の廃絶」に異を唱える人は少ないと思われる。ブラックも「労働の廃絶」は「何かを為すことをやめるべきだという意味ではない」と明言している。何もしない怠け者になるために労働を廃絶するのではない。では、人は労働から解放されて何をするのか。「遊びに基づいた新しい生き方」だとブラックは述べている。ただし、その「遊び」は娯楽や趣味を超えたものであり、単に遊んで暮らすことではない。遊蕩は「新しい生き方」にはなり得ない。ブラックは「遊び心(ludic)の革命」とも言っており、そこには祝祭性、創造性、友好性、共同性が意図されている。更には、「遊び」は受動的ではなく、満ち溢れた喜びや自由で相互依存的な活気の中にある「集団的冒険」とまで言われているが、それは実質的に「自己を生かす仕事」に等しい。仕事が遊びになり、遊びが仕事になる。私はそれを祝祭共働と称しているが、残念ながら、その具体相を未だ十分に理解できていない。実際、労働から解放された人は遊び呆けるか、遊び続けることの虚しさに耐え切れず再び労働を求めるかの何れかであろう。祝祭共働が「新しい生き方」だと万人に認知されるためには究極的な何かが欠落している。その何かが理解されないうちは「労働の廃絶」もしくは「労働からの解放」から大衆は逃走し続けるに違いない。

ナディアの懸念(7)

労働は大いなるゾーエーの循環に不可欠だ。生来の病や不慮の事故などでイノチの危機に瀕している人にとっては労働できること自体が幸せであろう。勿論、健康な人にとっても快い労働は幸福をもたらしてくれる。しかし、「こころよく 我にはたらく仕事あれ それを仕遂げて死なむと思ふ」と啄木は歌っている。この仕事は労働と同じであろうか。今や過酷な重労働が忌避されるべきは当然であり、人々は「快い労働」を求めて労働条件の改善に取り組んできた。「労働時間の短縮」もその一つだが、機械化=自動化によって人の労働が失われている。ナディアが懸念しているように、この流れは人を怠け者にするだけなのか。「快い労働」が単に楽な労働であるなら、それは労働の無化に極まり、怠け者になることが理想となる。それを望む人もいるだろうが、大半の人は怠け者として生活する無為に耐えられないと私は思う。人々は労働からの解放ではなく、やり甲斐のある労働を求めているのではないか。誰にでもできる楽な労働ではなく、自分にしかできない意味のある労働を。たとい過酷な重労働であっても、それに自分の情熱を懸けられるなら意に介さない。『プロジェクトX』で紹介されるような人の労働は全てそうではないか。お金は必要だが、お金のためにしているのではない。そこには労働以上の何かがある。それを私は「自己を生かす仕事」と称したい。啄木の歌にあるような、そのために生きかつ死ぬことができる仕事だ。ただし、それは天才にしか許されない偉業ではないし、単に好きなことを職業にしている人の仕事に限られるものでもない。「自己を生かす仕事」には垂直の次元が必要となる。

ナディアの懸念(6)

誰かが必ずしなければならない労働がある。それはゾーエーの充足(維持管理)に関する労働だ。例えば、食糧生産や医療などのイノチを支える労働だが、誰もができるわけではなく、それなりの能力と覚悟が必要になる。そこには他者のため、社会のために生きているという誇りも生まれ、「食うための労働」と「自己を生かす仕事」が一致している。つまり、自己のために生きることが他者のために生きることになり、他者のために生きることが自己のために生きることになる。こうした自他共生の幸福は生き甲斐となり、人生は大いなるゾーエーの循環として満たされていく。問題は「食うための労働」が人の根源的な必要と切り離されて単なる金儲けの手段に堕すことから生じる。その場合、「自己を生かす仕事」は見失われ、嫌々従事する「食うための労働」の後の束の間の娯楽や趣味が生き甲斐となる。侘しい生き甲斐だが、これと言った特性のない凡人にはそれが一般的な生活ではないか。医師や弁護士など、他者のイノチを救う能力に恵まれた人はその労働がそのまま「自己を生かす仕事」になるが、凡人はそうはいかない。自分と家族のゾーエーを充足させることが精一杯で、到底「自己を生かす仕事」にまで思いが及ばない。むしろ、「自己を生かす仕事」などは才能に恵まれた立派な人たちだけのものだと考え、凡庸な自分たちには娯楽や趣味があればいいと開き直っている。鄙見によれば、そうした凡人が大半を占めるのが大衆社会であり、そこでは賃上げと共に「労働時間の短縮」が政治的課題となる。それは大衆も歓迎するだろうが、何か違和感を覚える。求めるべきは「労働時間の短縮」ではなく、やはり「労働の廃絶」ではないか。冒頭に述べたように、誰かが必ずしなければならない労働があるのは厳然たる事実だ。その根源的な労働を取り戻すことがナディアの願いだとしても、人生の「本当」は労働に尽きるものではないと私は考えている。それはどういうことか。

ナディアの懸念(5)

アーレントに学んで、私は自分なりに労働と仕事を区別している。既に何度も述べたことだが、「食うための労働」と「自己を生かす仕事」だ。前者はゾーエーを充足させる行為、後者はビオスを充実させる行為と考えることもできる。ただし、ゾーエーとビオスを二元論的に理解するのは間違っている。そもそもゾーエーなくしてビオスはないが、両者の関係については改めて考えることにして、ここでは「食うための労働」に集中したい。人に限らず、イキモノは生きるために食わなければならない。食うために生きていると言っても過言ではない。従って、イキモノの生は「食うための労働」が中心となる。すなわち、食べ物の獲得だ。しかし、生産性の向上に伴って、全ての人が自給自足の生活をする必要はなくなった。日本における第一次産業従事者の割合は現在約3パーセントだと言われているが、今後ますます減少していくことが懸念されている。それはナディアの懸念にも通じているが、殆どの人にとって「食うための労働」は誰かが生産した食べ物を買うお金を稼ぐ労働、すなわち賃労働を意味することになっている。更に言えば、食べ物を生産する労働さえ賃労働以外のものではない。根源的な労働ではあるものの、生活に必要な他のものを買うお金が不可欠だからだ。直接的な「食うための労働」もお金を介した間接的な「食うための労働」も共に賃労働であることに変わりはない。実際、今やお金を稼ぐことが労働の主たる目的と化している。どんなに立派なことをしても、タダ働きでは労働にはならない。逆にどんなに下らないこと(ブルシットジョブ)でもお金が稼げるなら労働になる。しかも稼げるお金が多ければ多いほど、その労働は意味あるものとされる。言うまでもなく、その有意味性は本末転倒だ。現代社会ではお金がなければ生きていけない。そして、お金を得るためなら何でもしなければならない。それが労働の真実だが、明らかに理不尽だ。さりとて理不尽な労働の廃絶が問題の解決になるだろうか。ゾーエーに根差した根源的な「食うための労働」が単なる「お金を稼ぐための労働」に堕したことが問題だとすれば、前者への回帰が一つの解決になるかもしれない。狩猟採集でも農耕でもいい。純粋な「食うための労働」に徹する生活に憧れる人は少なくない。そんな怠けている暇などない生活にナディアもまた憧れているのだろうか。

ナディアの懸念(4)

一口に「労働の廃絶」と言っても、廃絶すべき労働は所謂「3K」(キツイ、キタナイ、キケン)の労働に限られる。因みに、最近は「給与が良い、休暇が多い、希望が持てる」という「新3K」の労働があるそうだが、それなら廃絶の必要はないだろう。つまり、「労働の廃絶」とは厳密には「過酷な重労働の廃絶」にすぎない。それが一般的な見解ではないか。そもそも自分の好きなことを職業にしている人にとっては労働が生き甲斐となっている場合もある。農作物を育てることが好きな人に農作業を禁ずることは生き甲斐を奪うことに等しい。ただし、農作物を育てることと農業で食っていくことは違う。農業は労働であり、単に好きなだけではやっていけない。例えば、自然に即した農法が好きでも、それで採算が合わなければ農薬や化学肥料に依存した慣行農法に転換せざるを得ない。更に「儲かる農業」を求めて完全に機械化=自動化されたスマート農業にまで行き着けば、もはや農作業の楽しみなど雲散霧消するに違いない。それは明らかに本末転倒だ。「労働の廃絶」とは農作業を禁ずることではなく、好きな農作業を苦しい「食うための労働」から解放することでなければならない。さりとて、それは農作業を趣味にすることではない、と私は思う。趣味では食っていけない。それ故、農作業に限らず、何らかの「食うための労働」に従事して、その余暇に好きな趣味を楽しむというライフスタイルが求められる。そして、労働を最小限に、余暇を最大限にすることが理想となる。大半の人はその理想を目指しているのが現実であるものの、それはやはり中途半端な理想ではないか。食うに困らぬ生活を確立して、その上で農作業などの好きな趣味に没頭することが悪いわけではない。むしろ、幸福なことだ。されど、その幸福に人として生きる「本当」があるとはどうしても思えない。「本当」は否応なく「労働の廃絶」を問題にする。単に「過酷な重労働の廃絶」ばかりではなく、「労働そのものの廃絶」を要請する。それは一体如何なる意味か。

ナディアの懸念(3)

人生は楽しむためではなく、苦しむためにある。その苦しみに耐え抜いてこそ人としての成長があり、それは神の祝福に値する。そのように説く聖職者をラファルグは資本家階級の倫理を支持するものだと揶揄している。確かに、そういう面はあるに違いない。その倫理の御蔭で、人は苦しい労働に耐えることができる。勤労もしくは忍従の倫理。しかし、それでは余りにも資本家に都合が良すぎる。そもそも資本家が労働者を苦しめて自分は楽しんでいるとすれば、その楽しみは「人生は苦しむためにある」という倫理に反している。また労働者にしても、その苦しみの先に昇進や昇給の楽しみがなければ到底頑張れないだろう。とすれば、「人生は苦しむためにある」という倫理はやはり不自然だと言わざるを得ない。だから、ラファルグもブラックも「人生は楽しむためにある」という自然に忠実な生き方を勧めている。そして、苦しみに満ちた労働は直ちにやめるべきだという結論に至る。されど、労働の廃絶もさることながら、苦しむことの拒絶は果たして「人生を楽しむこと」に繋がるだろうか。言うまでもなく、楽しいことと楽なことは違う。楽なことばかりしていても楽しくない。苦あれば楽あり、楽あれば苦あり。労働者を酷使して楽をしている資本家は「本当」に人生を楽しんでいるか。むしろ、過酷な労働に耐え抜いた達成感や充実感のある人生の方が楽しいのではないか。さりとて私は奴隷の如き労働者の方が人生を楽しんでいると言うつもりはない。ここで留意すべきは「主人と奴隷の弁証法」だ。奴隷は奴隷であることに安住すべきではなく、自ら奴隷であることを否定しなければならない。では、奴隷は自己否定して何になるべきか。当然、主人ではない。古き主人を倒して自ら新しき主人なれば苦しい労働から解放されて楽になるかもしれないが、それでは主人と奴隷が入れ替わったにすぎず、何ら楽しくない。主人が資本家で奴隷が労働者であるなら、その関係そのもののディコンストラクションが要請される。すなわち、それは「主人-資本家」の廃棄であると同時に「奴隷-労働者」の廃棄でもある。その意味での「労働廃絶」なら少しは理解されるかもしれない。それはナディアが懸念するような怠け者になることではない。

ナディアの懸念(2)

マルクスの娘婿であるポール・ラファルグに『怠ける権利』と題するエッセイがあることはよく知られている。その主張はボブ・ブラックの『労働廃絶論』において更に鮮明化されているが、私はそこに水平革命の神髄を見出す。ブラックは次のように言い切っている。

 

労働はこの世界における殆ど全ての惨状の源泉である。あなたが思い浮かべる殆ど如何なる悪も、労働することに、あるいは労働のためにデザインされた世界に住むことに由来する。苦しみを止めるためには、我々は労働をやめなければならない。

 

一般的に革命と言えば、それは労働者のための革命、すなわち資本家に搾取されない労働の実現として理解されている。しかし、それは不十分な革命にすぎない。理不尽な労働だけではなく、労働そのものの廃絶が実現してこそ革命は徹底される。とは言え、これは容易に共感されない主張であろう。殊に「働かざる者食うべからず」といった勤勉を美徳とする文化に育まれた者には全く怠け者の口実にしか聞こえない。ナディアにも叱責されそうだが、「本当」にそうだろうか。食うために額に汗して労働することは決して悪ではない。むしろ、美しい。悪は「はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る」しかない社会の歪んだ構造にある。正にその構造改革こそを労働者は望んでいるのであって、労働の廃絶などは有難迷惑でしかない。快く労働した後の一杯の生ビール!それ以上の幸福はない。それが一般大衆の共通感覚(常識)だと思われる。されど、実篤も「食うために労働する者が一人でもいる限り、その社会は未だ理想ではない」と述べている。これもまた怠け者の戯言にすぎないのだろうか。

ナディアの懸念

『ふしぎの海のナディア』というアニメを観ていたら、ノーチラス号の最先端の科学技術に驚いて「何でも機械で出来るなんて凄いなぁ!」と感心するジャンに対して、「機械が何もかもするようになったら、人間は怠け者になってしまうわ」とナディアが反論する場面があった。ナディアはヒネクレ者なのか。大半の人はジャンと共に科学技術の発展を歓迎するだろう。それは人を重労働から解放すると同時に、人にはできない作業を可能にする。危険な重労働からの解放はおろか、労働そのものからの解放も夢ではない。科学技術はこの世界をパラダイスにする。しかし、そのパラダイスで人は何をすればいいのか。遊んで暮らせばいいのだ。ナディアは「人間は怠け者になってしまう」と心配しているが、怠け者で結構ではないか。全世界の人が怠け者として暮らせるなら、それ以上の楽園はない。そもそも始源のアルカディアは無為自然の楽園であり、そこでは皆が例外なく怠け者として暮らしていたに違いない。食うために、生きていくために、殊更何かをする必要などないからだ。怠け者の楽園は素晴らしい。ところが、人はその素晴らしい無為自然の楽園を失ってしまった。無為に耐えられず、食って寝る以上の何かをしたいと思ったからだ。無為から有為へ。その選択は正しかったのか。無為が幸福だとしても、それは家畜やペットの幸福にすぎない。それでもいい、誰かのペットとして安穏に暮らしたい。そう願う人が大勢を占めるのなら仕方ないが、ヘーゲルは「ケダモノのみが楽園に安住できる」と述べている。とは言え、楽園を後にした人にケダモノ以上の何ができるのか。それが科学技術に結晶しているとも考えられるが、その発展が人を怠け者にしているとすれば、人の「本当」に為すべきこととは到底思えない。それとも人は科学技術によって再び無為自然の楽園に回帰しようとしているのであろうか。もしそうなら、人工楽園のパラダイスはその極北において自然楽園のアルカディアを回復せんとしていることになる。ナディアの懸念は尽きない。