真理追求の悲哀(3)
「親は無くとも子は育つ」とは言うものの、通常、子は親を必要とする。親に依存する存在が子の真実だ。さりとて、子はいつまでも親の「必要」に依存してはいられない。やがて親の「必要」は不要とならねばならぬ。自転車の補助輪の「必要」が自由に乗りこなせるまでのものであるように、親の「必要」も子が自立した大人になるまでのものだ。かくして自立が大人の「必要」であり、自立した存在が大人の真実となる。子の真実から大人の真実へ。では、そうした成長において、親の「必要」は完全に消滅するのであろうか。親は自転車の補助輪と全く同じ運命を辿るしかないのか。年老いた親は逆に子に依存する存在となる。子と親のかつての関係は逆転し、不要となった親は子にとって補助輪同様に邪魔物となる。実に酷い言い方だが、「必要」に基づく真実に徹すればそうなる。「必要」がなくなったものは不用品として廃棄すべし。尤も現実には、パラサイトシングルのように大人になっても親に依存し続ける子もいれば、老齢とは別の理由で早くから子に依存している親もいる。「親は子の成長のために生き、成長した子は年老いた親のために生きる」という親の「必要」と子の「必要」が循環する理想は容易に実現しない。端的に言えば、養育の御礼を介護で返礼する互酬の理想だ。されど、「必要」の循環には限界がある。一般的には古い時代の「必要」は新しい時代の「必要」に取って代わられる。それは真実の運命だと言えるが、真理はそこに悲哀を感じる。失われた「必要」を求めて。その悲哀は単なるノスタルジアであろうか。
真理追求の悲哀(2)
「法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとり壊して停車場をつくるがいい。我が民族の光栄ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである」と安吾は喝破したが、その「必要」こそ真実だと言える。ただし、「必要」は時代と共に変遷する。法隆寺や平等院も何かしらの「必要」があって建立されたに違いない。その「必要」は今や停車場の「必要」と鬩ぎ合う。あるいは、これから食糧難の時代が到来すれば、農地の「必要」と鬩ぎ合うことも考えられる。その時代の大半の人が法隆寺や平等院の「必要」よりも停車場や農地の「必要」が優先されるべきだと判断すれば、法隆寺や平等院は容赦なく取り壊されるだろう。それは一体何を意味するか。法隆寺や平等院の「必要」が停車場や農地の「必要」に転化・発展したと私は解釈したい。それが真理の運動だと考えられる。しかし、そのように理解された真理は悲しくて遣る瀬無い。真理の名の下に実に多くのものがこの世界から姿を消してきた。奴隷制などの理不尽なものがなくなるのは当然だとしても、それは単なる合理化とは違う。便利な機械が発明されると人力の「必要」はなくなる。総じてアナログの「必要」はデジタルの「必要」に淘汰される。合理化は正しい。正しいが、真理とは言えない面もある。地下生活者によれば、二二が四は正しいが、同時に死の始まりでもある。どうも真理は二二が四では語り尽くせないようだ。真実は合理的だが、真理は非合理的だと言わざるを得ない。尤も、真理も徒に不合理なものを容認するわけではない。非合理と不合理では次元が異なる。非合理は合理性の欠如ではなく、あくまでも合理性の超越でなければならない。超現実が単なる現実からの逃避ではないように。端的に言えば、真理は合理性の正しさを超えている。そうした意味において、ニーチェの有名な次の言葉を理解すべきだろう。「真理とは、それなくして特定種の生物が生きることができない類の誤謬である。生にとっての価値が最後に決定を下す。」真理は誤謬――その逆説に真理追求の悲哀が如実に表現されている。
真理追求の悲哀
私が学んだ中学校の校長先生は書の大家で、卒業生全員にそれぞれの好きな言葉を色紙に書いて贈ってくれた。皆、「不撓不屈」などの難しい四字熟語を調べてお願いしたが、私は「真理追求」と書いて戴いた。別に当時から哲学を志していたわけではない。単にその頃の人気アイドル天地真理の熱烈なファンだったので、「いつまでも真理ちゃんを追いかけていきます」という思いを込めたにすぎない。そんな不謹慎でふざけた気持で選んだ言葉だが、今その四字に呪縛されている。真理追求。「私にとって真理であるような真理を発見し、私がそのために生き、そして死にたいと思うようなイデーを発見することが必要なのだ」とは若きキルケゴールの言葉だが、真理はいつしか私の「肉中の棘」になっていた。その棘ゆえに私は「本当」に生きることを余儀なくされている。奇妙なことだ。どうして真理を求めることが義務のように感じられるのか。おそらく、それは私が二つの「本当」に引き裂かれているからだろう。卑近な例を挙げれば、本当はエロ本が欲しいのに、いつも岩波文庫を買ってしまう。エロ本への欲望が本当だからと言って、岩波文庫を必要とする気持に偽りはない。どちらも「本当」なのだ。自然の情に素直に生きる、もしくは野性に忠実に生きる「本当」と人として生きる「本当」とでも言おうか。前者をゾーエーの真実、後者をビオスの真理、と理解してもいい。ただし、両者を截然と区別することはできない。二つは次元を異にするが無関係ではない。そして、人類の歴史は真実が真理へと転化・発展していく過程だと考えられる。例えば、奴隷制を必要とする真実から奴隷制を禁止する真理へ、「良妻賢母」に憧れる真実から「男女同権」及び「女性の自立」の真理へ。そうした流れは当然であり疑問の余地はないが、それにも拘らず、かつて自然であったことがそうでなくなることには悲哀が感じられる。伝統の喪失によるものか。悪しき伝統などなくなって当然と思いながら、そこには何か割り切れないものがある。真理を追求すればするほど悲しくなる。果たして、それは私だけであろうか。
真理をめぐる闘い
スティーヴン・スピルバーグの『リンカーン』(2012)をBSで観た。映画の中心は奴隷制を禁止した「アメリカ合衆国憲法修正第13条」をめぐる共和党と民主党の攻防のドラマだったが、今では自明の真理である「奴隷制の禁止」が僅か150年ほど前にはそうでなかったことが実感できた。奴隷制は神が定めた不変の律だと人々は本気で信じていたのだ。そのアナクロニズムを過ぎ去った昔の無知な人々の偏見だと嗤って済ますことはできない。奴隷制は廃止されても、人種や民族の差別は依然として続いているからだ。日本にだって難民などの外国人移住者に対するヘイトスピーチや様々な差別が残っている。「日本国憲法第14条」(すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない)の真理が日本に根付くには未だ相当な時間がかかりそうだ。余談ながら、もうすぐ最終回を迎える朝ドラ『風、薫る』は日本に「看護婦」という正式な職業を確立した女性たちのドラマだが、当時の「良妻賢母」という理想に対する闘いのドラマでもある。すなわち、「女性の幸福は結婚して夫にとっての良き妻となり、やがて生まれる子にとっての賢き母になることにある」という価値観に対する闘いだ。しかし、男女同権、更には女性の自立が当然の常識になっているとは言え、未だ「良妻賢母」の理想も生きているのではないか。男性がそれを望んでいるばかりでなく、女性自身もそれに憧れているのではないか。何れにせよ、かつての真実が真理に発展することは容易なことではない。かつては「女性蔑視」(女性は穢れた存在)が真実であったが、今では「男女同権」が真理になった。未だ女人禁制の風習は至る所にあるものの、「男女同権」に反対する人は皆無だ。されど、この真理を更に徹底させて、天皇制の廃止を訴えたらどうなるだろう。かつての奴隷制の真実は原理的には天皇制の真実と連動している。今や奴隷制廃止が真理になっているなら、天皇制廃止も真理になるべきではないか。しかし、現実はそうならない。国民の大半(8割前後)は天皇制を支持している。果たして、天皇制支持者は時代錯誤のバカなのか。決してそうとは言い切れない。むしろ、真理は天皇制を支持している面もある。真理をめぐる闘いは一筋縄ではいかない。
一人に訴える機会
この便りは次第に独白の様相を呈しているが、性懲りもなく書き続けている。自己満足の繰り言だと嗤われても仕方がない。それでも無駄な努力だと思いながら書くのをやめないのは何故か。多くの人に注目されたいというスケベ根性がないわけではない。いや、大いにある。しかし、私の思耕が大衆から好評を博すことなどあり得ないだろう。私はその現実を重々承知している。ただし、それは私の思耕が高尚すぎて大衆には理解できないということではない。端的に、私は大衆が求めているものとは正反対の思耕を試みているからだ。大衆はパラダイスを求める。従って、パラダイスの実現を巡る思耕に注目する。幸運に恵まれて、あるいは死ぬほど努力して勝ち組になって、自らのパラダイスを享受できている人は良い。それに対して幸運に恵まれず、あるいはどんなに努力を重ねても負け組に転落してしまう人はパラダイスを断念してアルカディアに戻ろうとする。パラダイスかアルカディアか。大衆の関心はその二つに絞られる。ところが、私の思耕はそうした大衆の関心を超えてユートピアに向かう。当然、大衆は私の思耕など歯牙にもかけない。されどユートピアは決してパラダイスやアルカディアと無関係ではない。次元は異なるが、ユートピアへの関係は大衆にとっても重要だ。私の拙い思耕は未だその関係を上手く表現できていないので偉そうなことは言えないが、私はユートピアへの関係および関心を訴えたいと思っている。でも、どうすればいいのか。一つの可能性として、次のような発言が勇気を与えてくれる。
「本が売れる売れないということ、むろん…売れた方がいいですよ。だけど、それは文学外的理由であってね、売れる売れないということは、創造の値打ちとは関係ないです。アンドレ・ジイドの『アンドレ・ワルテルの手記』というのは二冊しか売れなかったのですよ。スタンダールの『恋愛論』だって売れないんですよ。むしろですね、一人に訴える機会があるかどうか、それが文学にとっては、大変に重大なことなんです。一人に訴える機会も奪われれば、それはやはり相当に残酷な運命になりますね。誰に訴える機会もなくて葬り去られる。一人に訴える機会さえ残されれば、それでいいように私には思えるんです。未来に夢野久作の仕事が生きるかどうか、について私は関心を持っています。しかし未来に生きるというのは五十万人の読者によってではないんです。一人の力によってだと思いますね。」(鶴見俊輔「夢野久作を語る」)
一人に訴える機会。この「一人」は単独者であろう。所詮、私の思耕は大衆には無縁かもしれないが、大衆に支持されないことの正当化ではなく、せめて単独者には意味あるものにしたい。大衆は群れるだけだが、単独者は連帯する。大衆は自己否定して単独者になるべきだ。それを信じて思耕する。もとより私の思耕は未熟だが、日々少しずつ前進したい。訴える一人が二人になり、三人になり、やがて連帯の輪が広がっていく。それは取りも直さずユートピアの次元が世界に切り拓かれていくことに他ならない。
真実と真理
ゾーエーの真実に比べれば、ビオスの真理は「虚」だ。目の前の他人のために、あるいは目に見えない大義のために、自分のイノチを犠牲にするなんてキレイゴトにすぎない。自分が生きるために我が子さえ殺してしまう真実がある。泥水を啜ってまで生きていたくないと言って「美しい死」を選択するのはキレイゴトにすぎない。泥水を啜ってでも生き抜こうとする真実がある。愚かな民衆はゾーエーの真実に支配されて生きる。色と欲に塗れて生き抜こうとする。知的なインテリのみがビオスの真理を求める。民衆とインテリ、どちらが「本当」に生きているのか。この問いに「文学のふるさと」がある。真実と真理に引き裂かれて、人は人間への途上に立つ。真実だけなら人は野生のケダモノと変わりはない。なりふり構わず貪欲に生きる。しかし、その野性を真理は野蛮と見做す。野蛮な真実はイキモノの「本当」であっても人の「本当」ではない。人は野蛮ではなく「美しく生きる」真理を求める。さりとて真理だけでも人の「本当」には辿り着けない。人が人として「本当」に生きるためには真実と真理の両方が必要になる。真理を欠いた真実は単 なる野蛮であり、真実を欠いた真理は単なるキレイゴトにすぎない。穢れた娼婦でありながら同時に聖女でもあるソオニャの美しさを見よ! 穢れることを忌避して純潔のまま死んでいく乙女の美しさはキレイゴトであり、そこに人の「本当」はない。真実と真理の鬩ぎ合いは続く。
補足:trotzdemの律
医療ドラマを観ていると、懸命にイノチを救おうとする医療関係者の姿に感動する。それは大いなるゾーエーの律への感動だ。あらゆるイキモノはゾーエーの律に貫かれている。当然、人も例外ではない。何としても生き抜こうとする。ただし、ゾーエーの律はキレイゴトだけではない。自分が生きるために他のイキモノのイノチを奪う。限界状況では他人のイノチだって奪うことさえある。食わなければ食われる。殺さなければ殺される。それがゾーエーの真実だ。皆、その真実に従って生きている。空腹に耐えかねて他人のイノチを奪っても、それはゾーエーの真実に反していない。ところが、それに反して自ら死のうとする人がいる。例えば、医療関係者に何度もイノチを救われても繰り返し自殺を図る人。どうして人はゾーエーの律に反することができるのか。生きる力が未だ十分あるのに、何故イノチを断とうとするのか。そのイノチに「生きる意味」がないからだ。人は単に生きて在るだけでは満たされず、「生きる意味」を求める。すこぶる元気でも「生きる意味」がなければ死を願う。そう願わせるのがビオスの律であり、「生きる意味」が真理となる。他のイキモノに真理は不要だ。「生きる意味」などなくてもゾーエーの真実だけで生きていける。従って、他のイキモノに自殺はあり得ない。自殺に見える現象が認められても、それらは全て本能によるものにすぎない。人だけが「生きる意味」を求める。人だけが「生きる意味」のない絶望を味わう。人だけがビオスの次元に生きる。私は先に「限界状況では他人のイノチだって奪うことさえある」と述べたが、それはあくまでもゾーエーの律によるものだ。それにも拘らず(trotzdem)、人は他人のイノチを奪わず敢えて自ら死を選ぶことができる。残された一個のオニギリを食わなければ死んでしまうのに、それにも拘らず、そのオニギリを他人に譲ることができる。他にも、様々な場面で自分のイノチを犠牲にして他人のイノチを救うことができる。大義に殉じることができる。そうした行為は全て何が何でも生き抜こうとするゾーエーの律に反している。されど、ビオスの律には忠実だ。もとよりゾーエーがなければビオスはない。その意味では、ビオスの律はゾーエーの見る夢にすぎないのかもしれない。たといそうであっても、私はビオスの律に自らのイノチを懸けたい。ゾーエーの真実よりもビオスの真理を極めたい。ゾーエーの続く限り。
補足:幸福な駱駝と憂鬱な獅子
かつて吉田拓郎は「自然に生きてるってわかるなんて、なんて不自然なんだろう」と歌ったが、自由な生活も実は至る所で鎖に繋がれている不自由なものだ。ただし、鎖は不自由の象徴なれど、同時にシートベルトのように安全を保障するものでもある。マイナンバー制度による管理も然り。厳密には戸籍も同様だが、管理されることで生活が円滑化する。実際、戸籍なしの生活などあり得ないし、マイナンバー制度によって生活が不自由になることもない。むしろ、便利で快適な生活になるだろう。管理社会は駱駝にとって望ましい。「監視」カメラも「防犯」カメラとして歓迎される。もとより過度な管理は息苦しいが、適度な管理は駱駝を幸福にする。しかも現代社会の管理は実に巧妙に仕掛けられており、管理されていると意識されることなく管理する。管理は今や我々の潜在意識にまで及んでいる。駱駝は主体的に自分の意志で生活しているつもりでも、現実には踊らされているにすぎない。その自覚さえない駱駝は幸福だと言わざるを得ない。現代社会で幸福に生活する条件は駱駝に徹することだと言っても いい。万国の労働者よ、駱駝になれ!されど、駱駝になれない獅子は憂鬱になるばかりだ。駱駝になることが幸福への近道だとわかっていながら、駱駝になりきれない。獅子の今後の生き方が問われている。
補足:ゾーエーの見る夢としてのビオスの律
夢野久作の『ドグラ・マグラ』に出てくる「胎児の夢」の論理によれば、「脳髄はものを考えるところにあらず」、すなわち個々の細胞が考えているのであって、脳はその考えを中継・調整する「電話局」の如きものにすぎない。この発想に従えば、脳死は人の死ではないことになる。医学的には肺機能・心臓機能・脳機能の三機能停止を以て死と判定されるが、脳が死んでも細胞は生きている。だからこそ臓器移植が可能になるわけだが、それは脳死によって人がモノになったことを意味する。臓器に限らず、脳死以後の諸器官は全て部品(更には商品)と化す。例えば、私の眼球は私が見たいものを見ているが、私の脳が死んだ後に私の眼球を失明した誰かに移植すれば、今度はその誰かが見たいものを見始める。眼球の機能は全く変わらないのに(部品交換しただけだ)見たいものだけが変わる。見たいものを調整するのは脳機能に他ならない。この場合、眼球の機能がゾーエーの律によるものだとすれば、見たいものを調整する脳機能はビオスの律によるものだ。あらゆるイキモノのイノチを貫くゾーエーの律に比べれば、イノチの意味を問うビオスの律は氷山の一角にすぎない。ビオスの律は言わばゾーエーの見る夢だとも考えられる。二つの律は分離して機能するわけではない。繰り返し述べているように、ゾーエーが「実」でビオスは「虚」だ。されど私は「虚」としてのビオス、根源的なゾーエーが夢見るビオスの律を問題にしたい。何故か。ゾーエーの次元で「人類は皆兄弟!」と叫んでも意味はないからだ。生きて在ることの意味はビオスの「虚」に宿る。人種や民族の差別はビオスの次元に生じるが、その場所で「人類は皆兄弟!」と叫ぶことに意味が生じる。未だ主もなく客もない大いなるゾーエーにとって意味は問題にならない。律の超克に伴う「三態の変化」もビオスにおいて問題になる。
律の超克としての「三態の変化」(10)
「人は生まれながらにして自由であるが、至る所で鎖に繋がれている」とはルソーの有名な言葉だが、私はその鎖を律だと考えている。ただし、自由と鎖は対立しているように思われるが、「鎖に繋がれているから自由だ」とも言える。勿論、通常は鎖に繋がれていない状態が自由と見做されるが、その剥き出しの自由は余りにも激し過ぎて却って人を苦しめる。野性の荒馬よりも轡を嵌められた馬の方が乗りやすいのは当然だろう。しかし、それはやはり「本当」の自由ではない。たとい鎖に繋がれている状態が快適で自由感を味わえたとしても、それは言わば駱駝の自由にすぎない。現代社会では駱駝の自由を享受している人が大半かもしれないが、少なくとも獅子は違う。獅子は駱駝の生き方に反抗し、あくまでも「本当」の自由を求める。さりとて鎖を引きちぎったところで「本当」の自由が得られるわけではない。もとより錆びついた鎖は引きちぎるべきだが、鎖を律と考えれば、獅子もまた反抗の律に生きている。そもそも「人は生まれながらにして自由である」と言うが、生まれること自体が既に律によるものだ。生は常に律と共にある。その現実は「至る所で鎖に繋がれている」とも表現されるが、私はそれを二つの律に大別して考えたい。すなわち、剝き出しの生(根源的生)であるゾーエーの律と「生きる意味」を創り出すビオスの律だ。ゾーエーとビオスの関係については更に深く思耕する必要があるが、ここでは裸体と衣裳の関係に準えたい。言うまでもなく、裸体がなければ衣裳は存在できず。その意味では裸体が「実」で衣裳は「虚」だ。従って、私が身に着けるべき衣裳を決定する律は常に裸体の律に支えられていることになる。この点、裸体こそ人の「本当」の姿であり、ゾーエーの律に全面的に身を委ねることに「本当」の自由があると考えることもできる。「自然の律」、すなわち自然のありのままに生きることだ。それはアルカディアの回復に等しいが、私はそうした後向きの運動に現実性を認めない。むしろ、ビオスの律に則した前向きの運動に可能性を見出す。それは自由に自分の衣裳を選べるパラダイスを意味するが、駱駝は性懲りもなく制服に安住しようとする。それに対して獅子はあくまでも「自分の衣裳」に執著するが、そこにはゾーエーの律とビオスの律を共に超越する「新しき律」が要請されるに違いない。それは一体何か。