新・ユートピア数歩手前からの便り -3ページ目

誰が本当に生きているのか(3)

生きていることに「本当」を問うのはイキモノの「本当」を超えている。或る意味、傲慢だ。この世に生を授かり、今生きていることを神仏に感謝すべきであって、そこに意味を求めるべきではない。路傍の石にどんな意味があるのか。「ある」こと自体が意味であり、「あるべき」意味を問うのは病だ。しかし、それは確かにイキモノとしては病だが、人はその病に生きる運命から逃れられない。カント曰く、

 

人間の理性は或る種の認識において、特殊な運命を持っている。それは、理性が退けることもできず、答えることもできないような問いに煩わされるという運命だ。退けることができないのは、そのような問いが理性の本性によるからであり、答えることができないのは、そのような問いが理性能力の限界を超えているからだ。

 

「重要なのは病から癒えることではなく、病みつつ生きることだ」とはカミュの言葉だが、身体が健康で精神も健全な生活が得られるのなら、それに越したことはない。通常、問題はそうした生活が得られないことから生じる。貧困、災害、紛争など、生活を脅かす問題は山積している。しかし、それにも拘らず、生活の安定以上の「生の充実」を求める者がいる。地下生活者のような病的な存在者だ。彼にとって、生活の安定は二二が四であり、死の始まりにすぎない。狂っている。狂人のみが人生に「本当」を求め続ける。シオランの言うように人間が地球の癌であるのなら、イキモノの「本当」を超える「生の充実」の追求は癌を増殖させることなのかもしれない。癌は早期切除に如くは莫し。されど、「生命尊重以上の価値」が人を狂気に駆り立てる。

誰が本当に生きているのか(2)

自然に生きようとすることが不自然なように、本当に生きようとすることは本当ではない。本当に生きていないから本当に生きようとするのであって、本当に生きている人は「本当に生きること」など意識しないだろう。しかし、この道理に従えば、本当に生きているのは無垢な子供だけになってしまう。それは剥き出しの生(ゾーエー)に忠実であることに他ならない。子供は所構わず泣き喚く。全く自由奔放だ。その「自由」に憧れたりもするが、それはやがて我儘と見做されるようになる。実際、傍若無人な振る舞いが許容されるのは赤ん坊の時代に限られるのであって、それが過ぎれば厳しい躾の時代がやって来る。ルソーが言うように、人は生まれながらに自由かもしれないが、至る所で鉄鎖に繋がれているのも事実だ。また鉄鎖がなければ、アマラやカマラのようになってしまう。ゾーエーから生まれる欲望のままに生きることはイキモノの「本当」かもしれないが、人の「本当」ではない。人として為すべきこと、為すべきではないこと。Sollenの鉄鎖がケダモノを人にすると言ってもいい。では、鉄鎖に繋がれた品行方正な人が本当に生きているのか。家庭では厳格に躾けられ、学校では校則に縛られ、社会に出れば様々な法律に従うことが要求される。そこに「本当の生」はあるのか。幸福な生活はあるかもしれない。しかし、それが「本当の生」なのか。

誰が本当に生きているのか

プラトンの「詩人追放論」は大衆抹殺論と相即するものとして理解すべきだ。しかし、これは常識に反している。プラトンの時代とは隔世の感のある現代では、詩人と大衆は対極に位置するという理解が一般的だからだ。聖なる詩人と俗なる大衆。詩人追放と大衆抹殺は相即ではなく対立するものと理解するのが常識だろう。詩人は大衆を軽蔑し、大衆は詩人を無視する。もとより私はここでプラトンの「詩人追放論」を真正面から論じるつもりはない。そのつもりがあっても、できない。プラトンが問題にしている詩人の理解は一筋縄ではいかないし、そもそも浅学の私にそれを論じるだけの学識がないからだ。ただ私は詩人と大衆の関係について改めて考えてみたいと思うにすぎない。先に両者の関係を対立と理解するのが常識だと述べたが、実際は大衆が好む詩人もいる。詩人を広く芸術家と解するならば、大衆を楽しませ勇気づける娯楽作品をつくる大衆芸術家だ。果たして、この大衆芸術家が「詩人追放論」の対象なのだろうか。もしそうなら、娯楽に現を抜かす大衆は「本当に生きること」を忘却した存在になる。そして、そうした大衆の堕落した生活を批判する詩人こそが「本当に生きること」を自覚した存在になる。本当にそうか。十五年前に津波に呑み込まれた無数の人たちは本当に生きていなかったのか。

補足:地下生活者の本懐

初めてドストエフスキイの『地下生活者の手記』を読んだ時、似ていると思った。実にイヤな奴だ。「わたしは病的な人間だ……わたしは意地悪な人間だ。わたしは人好きのしない人間だ」と冒頭で述べているが、それは私だった。こんな奴は早くくたばってしまえ!誰もがそう思うに違いない。しかし、そんなことは百も承知で地下生活者は次のように言い放っている。

 

わたしは単に意地悪な人間ばかりでなく、結局何者にもなれなかった。悪人にも、善人にも、卑劣漢にも、正直者にも、英雄にも、虫けらにもなれなかった。今やわたしは自分の片隅に最後の日を送りながら、賢い人間は本気で何かになることはできない、ただ馬鹿が何かになるばかりだという、何の役にも立たない毒々しい気休めで、自分で自分を愚弄している為体だ。そうだ、十九世紀の人間は精神的な意味で、もっぱら無性格な存在たるべき義務がある。ところで、性格を有する人物、すなわち活動家はもっぱら浅薄な存在でなければならない。これは、わたしの四十年来の持説である。わたしはいま四十だが、しかし、四十年と言えば、これはもう人間の全生涯だ。それこそもう大変な老齢である。四十年以上も生き延びるのは無作法だ、卑劣だ、不道徳だ!一体誰が四十以上も生きている?正直に誠実に答えてみたまえ。では、わたしがそれに答えよう。馬鹿とやくざ者が四十以上も生きるのだ。わたしはありったけの老人どもに、面と向かってそう言ってやる。世の尊敬を受けている、鬢髪に霜をおいた、芳香馥郁たる老人どもに言ってやる!世間の奴等一同に、面と向かって言ってやる!わたしはこう言う権利を持っているのだ。何故なら、わたし自身、六十まで生き延びるからだ。七十までも生き通すからだ!八十までも生き続けるからだ!

 

全く同感だ。私も八十まで、いや百まで生き抜いてやる。こんな醜悪な世界には一秒たりとも生きていたくない!そう思いながら百まで生き抜いてやる。しかし、「馬鹿とやくざ者」と同じような長寿は望まない。むしろ、「馬鹿とやくざ者」が羨むような長生きをしてやる。とは言え、「賢い人間は本気で何かになることはできない、ただ馬鹿が何かになるばかりだ」という地下生活者の嘆きは残念ながら真実だろう。実際、この世界を動かしているのは馬鹿だ。馬鹿が世界を支配し、馬鹿がそれを支持している。「賢い人間」はひたすら沈黙を守るばかりだ。恰も大審問官の前で沈黙し続けるイエスのように。だけど、私はその沈黙の一線を踏み越えてやる。馬鹿が支配するこの世界を必ずディコンストラクトしてやる。では、私はテロリストになるのか。否!馬鹿を暗殺したところで世界は変わらない。次の馬鹿が出てくるだけだ。テロリズムでは馬鹿を根絶できない。「賢い人間」もただ沈黙し続けるにすぎないなら、世界を根源的に変革する力にはならない。では、どうするか。言うまでもなく、この腐敗した世界を少しでも良くしようと地道な活動を続けている人たちがいる。現代の善きサマリア人とでも言うべき「善良な人たち」だ。そうした活動家は決して浅薄な存在ではない。世の中の理不尽なシステムと真剣に闘っている。たとい蟷螂の斧だと嗤われても、私は「善良な人たち」の闘いを心から支持する。そして、可能な限り自分もその闘いの仲間でありたいと思っている。それにも拘らず、私は「善良な人たち」の完全なる同志にはなれない。何故か。それは私が悪人だからだが、「善良な人たち」の闘いの先にもう一つの究極的な闘いがあると思わずにはいられないからだ。更に言えば、「善良な人たち」の闘いを完遂するためにも究極的な闘いは不可欠になる。それは地下生活者が地上の世界へと一歩踏み出して、そこで活動する闘いでもある。ただし、「善良な人たち」の闘いが理性の限界内にとどまるとすれば、地下生活者の踏み出す一歩はその一線を越える危険性を覚悟しなければならない。果たして、一線を越える理想は本当に世界を変革することができるのか。地下生活者の思耕すべき問題は尽きることがない。

補足:相対主義の理想

山の頂上は一つだが、そこに至るルートは複数ある。宗教の多様性を説明する際によく用いられる譬喩だ。神は一つだが、そこに至る宗教は複数ある。しかし、山の頂上は一つでも、そこで見る光景はルートによって異なるのではないか。険しいルートを踏破して見る光景とロープウェイで登頂して見る光景。同じである筈がない。神は一つでも、その顔は幾つもある。どれが「本当の顔」なのか。神の幾つもの顔は現象であって、神の本質は一つだ。その認識が答えになるだろうか。目に見えない本質は頼りにならない。人は目に見える現象で判断する。かくして宗教対立はなくならない。むしろ、ますます激しくなるばかりだ。神の本質が一つであることを強調するバハイ教のような試みも結果的に一つの現象に成り果てている。こうした絶望的な現実は何も宗教に限ったことではない。山の譬喩とは視点が逆転するが、「ふるさと」と「論理」の関係も同様だ。すなわち、人類の「ふるさと」は一つだが、そこから現象するそれぞれの民族の「論理」は複数ある。その「論理」の次元で人々は対立する。君の「論理」は君の「論理」。我の「論理」は我の「論理」。されど仲良き、という相対主義の理想は有効なのか。余談ながら、先日のNHKスペシャルでは国際協調の理念で始まった核融合計画が直面している課題を報じていた。それは、この夢のようなプロジェクトが生み出す巨大な利益を独占しようとする大国の「論理」に他ならない。国際協調の理念は死んでしまうのか。相対主義の理想には何かが欠けていると思わずにはいられない。その何かを掴むために理想は一線を越える。

補足:マッサンの選択

平成二十六年(2014年)に放送された朝ドラ『マッサン』の再放送を観ている。これは造り酒屋の跡取り息子でありながらウイスキーづくりに魅せられた男(ニッカウヰスキーの創業者・竹鶴政孝氏がモデル)のドラマだ。尤も、ドラマの中心はその男(マッサンと呼ばれる)がウイスキーづくりを学ぶために単身乗り込んだスコットランドで結ばれた女性との国を超えた夫婦愛だが、私にはずっと「どうしてウイスキーなのか」という疑念があった。実際、スコットランドのウイスキー職人からは「日本人にウイスキーはつくれない」とバカにされるし、日本人からは「こんな煙臭い酒が飲めるか!ウイスキーは日本人の口に合わない」と言われる始末だ。せっかく日本に生まれ、しかも造り酒屋の跡取りという境遇で育ったのだから、ウイスキーではなく「最高の日本酒」に情熱を注ぐべきではないか。とは言え、ウイスキーに魅せられてしまったのだから仕様がない。日本人だから日本酒を最高とすべきだという「論理」は偏狭すぎる。日本人でありながらフランス料理の頂点を極めたいという情熱と同様、異文化の「論理」で勝負する人がいてもおかしくはない。余談ながら、「世界のオザワ」と称される小澤征爾氏もフランスでの修業時代には「東洋人にクラシック音楽が理解できるのか」と言われたそうだが、今やその優れた理解を疑う人は皆無だ。ただし、それはやはり東洋的、更には日本的な理解ではないか。だから駄目だと言うのではない。むしろ、西洋人にはあり得ない東洋的な理解だからこそ、それは斬新であり得ると思われる。ウイスキーも然り。日本人でもスコッチ・ウイスキーの製法に習熟すれば最高のウイスキーをつくることができるが、それはやはりジャパニーズ・ウイスキーであろう。スコッチ・ウイスキーではない。スコットランドの「論理」と日本の「論理」が衝突する。それでいいのだ。同様に、日本人がフランス人以上のフランス料理を実現しても、それは否応なくジャパニーズ・フランス料理になる。何故か。それぞれの「ふるさと」が異なるからだ。それは技術の問題ではない。技術は日進月歩で変化していく。しかし、「ふるさと」は変わらない。変わるのは「ふるさと」の表現、すなわち「ふるさと」の現象、更に言えば「ふるさと」を現象させる「論理」だ。従って、日本人であるマッサンがスコッチ・ウイスキーに挑戦してジャパニーズ・ウイスキーを実現したことによって、ウイスキーの「論理」が揺れ動く。それはスコッチ・ウイスキーの伝統的な「論理」を揺るがすものでもある。おそらく、たといジャパニーズ・ウイスキーがどんなに優れていても、伝統主義者はそこにスコッチ・ウイスキーの歪曲しか見ないだろう。そのブレない姿勢は尊重したい。しかし、伝統を蔑ろにするつもりなど全くないものの、伝統に固執しているだけでは「新しきもの」は生まれないのではないか。伝統は不変、すなわち何百年経っても微動だにしないものが伝統だという考えもあるが、私は伝統も「新しきもの」によって絶えず発展していく、あるいは「新しきもの」が積み重なって伝統になっていくと考えたい。何れにせよ、伝統の一線を越えて「新しきもの」を生み出していくべきか否か、という問題がここにはある。スコッチ・ウイスキーの伝統的な「論理」、それを日本の「論理」を駆使して新たな伝統(日本の国産ウイスキー)を生み出していく。それがマッサンの選択であり、同時に「ふるさと」の要請でもある。

一線を越える理想(10)

これまで「日本人になる」ことを中心に「民族の超越」について思耕してきたが、視点を変えてみたい。フランス文化に心酔して「フランス人になりたい」と望む日本人がいるとする。それは可能だろうか。法的にフランス国籍を得ることはできるし、フランスの文化的・社会的な「論理」に精通することでフランス人のように生活することもできる。もしかしたら、それは凡百のフランス人よりもフランス人らしい生活かもしれない。しかし、それは所詮「ように」とか「らしい」という近似値にすぎない。「フランス人」そのものに辿り着くことは不可能だ。ただし、その不可能性は単に民族の差異性に尽きるものではない。生物学的な人種の差異性もさることながら、日本人とフランス人とではそれぞれの「ふるさと」の現象は異ならねばならない。この点、未だ上手く表現できないが、「ふるさと」はあらゆる人の存在の根柢(原点)として「何処にもない場」であるものの、それが日本とかフランスという特定の場所に故郷として現象する仕方に差異が生じるのだ。言わば故郷は「ふるさと」の受肉であって、それぞれの場所で異なる国として現象する。当然、日本という現象とフランスという現象は根源的に異なる。日本という場所を理想の故郷にすることが日本人の使命だと言ってもいい。フランス人についても同様だ。では、日本人の使命とフランス人の使命は無関係(没交渉)であろうか。断じてそうではない。むしろ、両者の使命、更に言えばあらゆる国の使命は全て通底している、と私は考えている。そこには「人が人間になる」という理想が究極的な使命としてある。日本人は自らの使命を果たすことで人間になる。「本当の日本人」になることで人間になる。フランス人も然り。そして、「本当の日本人」と「本当のフランス人」は民族の一線を越えて共働し、世界全体を「祝祭の故郷」にしていく。果たして、こうした理想は荒唐無稽であろうか。確かに、それぞれの民族の「論理」にとどまる生活の方が安定しているに違いない。適度なナショナリズム(排外主義とは無縁のナショナリズム)は幸福をもたらす。その上で、諸民族の「論理」を尊重して「仲良き関係」を築いていけばいい。どうしてその一線を越えていく必要があるのか。インターナショナルな「仲良き関係」で十分ではないか。しかし、そうした「仲良き関係」を実現するためにも、ナショナリズム(民族主義)を超越して、それぞれの「ふるさと」の次元を切り拓いていかねばならない。相対的な「仲良き関係」も一つの理想ではあるが、やはり「関係の理想」はその一線を踏み越える。相対的なものの安定から絶対的なものへと敢えて危険な一歩を踏み出さざるを得ない。

一線を越える理想(9)

「坩堝」が同一性の器だとすれば、「サラダボウル」は差異性の器だと言える。ただし、後者を一つの料理とするならば、そこには何らかの統一性がなければならない。では、同一性と統一性の差異は何か。それは多様性における統一性、ヘーゲルを援用すれば、同一性と差異性の同一性だ。しかし、そんな理屈だけでは埒が明かない。例えば、「日本は日本人の国だ」という時、同一性と差異性の同一性はどのように機能するのか。そもそも日本人とは何か。これは浅学の私には大きすぎる問いだが、ここでは単純に法的な国籍とそれ以外の主に文化的・社会的な民族(生物学的な人種も含む)に大別して考えてみたい。前者の場合、「日本は日本国籍を有する人の国だ」という主張は当然であり、同一性だけで何ら問題はない。これは他の国についても同様であり、「ドイツはドイツ国籍を有する人の国だ」とか「イタリアはイタリア国籍を有する人の国だ」という法的な同一性の言説に疑問を懐く人は皆無だ。問題は後者の場合、すなわち「日本は日本民族の国だ」という文化的・社会的な主張において生じる。法的に日本国籍が認められても日本民族になるわけではない。法的な日本国籍という同一性と日本民族との差異性が問題になる。勿論、日本国籍を希望する外国人にとっても必要なのは主に法的権利であって、日本民族との同一性ではないだろう。ましてや日本人の血とかDNAといった生物学的レヴェル(人種)での同一性など不可能だ。それでも日本の歴史と伝統などに魅せられて可能な限り日本民族との同一性を求める奇特な外国人はいるに違いない。そのような稀有な外国人、日本語がペラペラで日本の文化的・社会的習俗にも精通している外国人には日本民族との実質的な同一性が認められるかもしれない。しかし、それにも拘らず、そうした日本の文化的・社会的な「論理」を更に超越する何かがあるような気がしてならない。それは日本という場所を日本足らしめる何か、もしくは日本人を日本人足らしめる何かだ。その何かを表現する適切な言葉が未だ見つからないので、取り敢えず「ふるさと」としておく。「ふるさと」は言わば日本という場所を超越する場であり、日本人という存在者を超越する存在の根柢に他ならない。外国人は法的に日本国籍を取得できる。日本の文化的・社会的な「論理」に精通することで日本民族との同一性を或る程度獲得することもできる。しかし、「ふるさと」は国籍や「論理」とは質的に異なっている。国籍や「論理」の水平の次元で日本人になることと「ふるさと」の垂直の次元において日本人になることは全く違う。これは外国人に限らず、私を含む偶々日本という場所に出生しただけの凡百の日本人についても言えることだ。民族は国籍を超えていると私は述べたが、「ふるさと」は国籍も民族も超越している。私は未だ「本当の日本人」になっていない。では、「本当の日本人」とは何か。繰り返しになるが、それは「人が人間になる」理想と密接に関係している。国籍や民族を超えることは所謂「世界人」もしくは「国際人」になることではない。私は「本当の日本人」を通じて人間になる。どうも問題が錯綜するばかりだが、「ふるさと」に論点を絞って迷走し続ける思耕を整理したい。

一線を越える理想(8)

醜いアヒルの子が差別されるのは当然だ。自然は同一性を好む。異物は排除される。日本人は日本人のコミュニティの中で安定して生活できる。そこに外見も言葉も生活習慣も異なる外国人が入ってくれば、一時的な観光客や仕事上の滞在者以外は排除される。それが自然の対応だ。しかし、理性は自然の一線を越えて排外主義に違和感を懐く。外国人とも仲良くすべきだと思う。「日本人は日本人、外国人は外国人也。されど仲良き。」ただし、仲良きことは美しいが、それは未だ外国人との「関係の理想」にまで達していない。誤解を恐れずに言えば、それは仲良き関係という一線を越えた次元にある。ここで確認しておきたいことは、「関係の理想」は同一性を求めるものではない、ということだ。とは言え、同一者とのみ仲良くできると思うのは自然の情であり、むしろ同一性にこそ最も親密な関係が成立すると考えることもできる。その場合、日本人と親密な関係になりたい外国人は可能な限り日本の「論理」に同化しようとするに違いない。すなわち、日本人になろうとする。そのようにして日本に帰化した外国人は少なくないが、外国人にはそれぞれの祖国の「論理」がある。それを放棄して日本人になったわけではないだろう。日本は重国籍を認めていないが、法律上の国籍は二次的な問題にすぎない。以前に述べたように、民族は国籍を超えている。法的に日本国籍を得たからと言って、日本人であるとは限らない。これは逆の立場でも同じことであり、先の大戦下のアメリカにおいて日系人(二世)はアメリカ国籍でありながらアメリカ人とは認められず強制的に収容所に送られた。周知のように、今ではその措置は誤りであったと日系人に謝罪もされているが、国籍と民族の区別そのものは極めて自然だと言える。実際、移民の国アメリカには様々な民族系のアメリカ人がいるわけで、非難されるべき問題はその中で日系だけが差別された点に見出されるにすぎない。今のアメリカは移民を排除する国に成り果てているものの、アメリカ本来の「論理」は様々な民族の共存にあったと思われる。では、アメリカが理想の国だとして、アメリカ国民(国籍)という共通の地平の下での諸民族の共存が「関係の理想」なのだろうか。確かに、それは理性の限界内の理想ではある。しかし、「関係の理想」はその限界を超えようとする。「民族の超越」への一歩を踏み出そうとする。

一線を越える理想(7)

ローザ・ルクセンブルクも祖国ポーランドの独立に批判的であった。何故か。ネットの情報によれば、理由は次の二点が考えられる。

 

1. ローザは、ポーランドの独立はドイツ、オーストリアおよびロシアでの革命を通してのみ可能であると考えており、闘争はポーランド独立を目標とするものではなく、資本主義そのものに対するものでなければならないと主張した。

2. ポーランド独立に反対したのは、彼女が「少数民族は支配階級をもたないため反動的に機能する。少数民族は支配民族に同化するべきである。」というエンゲルスのテーゼに忠実であり、カウツキーの「民族融合論」に賛同して、レーニンらの唱える社会主義の下での民族自決権を否定したためである。

 

要するに、革命の目標は民族の独立に尽きるものではなく、最終的には資本主義の打倒とそれに伴う民族の超越にまで辿り着かねばならない、ということだろう。カウツキーの「民族融合論」については不勉強でよくわからないが、単純に「民族を超えた次元を切り拓く」と解するならば、極めて重要な問題が浮かび上がってくる。それは「人が人間になる」という理想と密接に関係している。言うまでもなく、「民族を超える」とは優秀な民族が混血を繰り返して超民族になるというようなおぞましい優生学的SFではない。ニーチェのÜbermensch(超人)がSFの「スーパー・マン」とは無縁であるように、「民族の超越」はあくまでも哲学の問題であるべきだ。それは水平の次元から垂直の次元への超越でもある。鄙見によれば、ザメンホフのhomaranismo(人類人主義)もヴィクトール・フランクルのMonanthropismus(一人類主義)も「水平の理想」としては限界があると言わざるを得ない。どちらもヤスパースの言うdas Umgreifende(包括者)と人が関係する「垂直の理想」として成就する。私はその方向に「民族の超越」の可能性を摸索しているが、依然として民族もしくはナショナリズムの一線を越えることには根強い抵抗があるに違いない。その点について更なる思耕を深めたい。