理想主義に徹する覚悟(4)
通常、水平的現実主義が一般的な現実主義であり、垂直的現実主義は理想主義と見做される。しかし、私が問題にしている区別は少し違う。余談ながら、ウクライナの選手がロシア国籍を取得したというニュースがあった。「裏切り者!」などと非難されているが、ウクライナ国籍のままでは十分な練習ができず、オリンピックで活躍するためにはロシア国籍になった方が有利だと判断したのであろう。自分のスポーツ選手としての将来を見据えた妥当な判断だとも言える。国籍なんか関係ない。スポーツを生き甲斐とする個人としての問題のみが重要なのだ。多くの人はこの判断に現実主義を見出す。これに対して、個人の問題を超える何か、例えば自分が生まれ育った祖国の意味を重視して、たといスポーツ選手としてのキャリアを犠牲にする結果になったとしても、決然と祖国への愛を貫く――そうした判断をするならば、人はそこに理想主義を見出すに違いない。個人の利害のみを問題にする現実主義と個人を超える全体を問題にする理想主義、それが通常の区別だと言ってもいい。この区別に従えば、「理想主義に徹する覚悟」は陳腐なものと思われても仕方がない。殊に「身捨つるほどの祖国」が失われた戦後の日本では、個人の幸福のみに拘泥する生き方が現実主義と見做されている。神の死と共に、理想主義も死んだ。もし本当にそうなら、私の覚悟は理想主義の復活、すなわち「身捨つるほどの祖国」とそれを可能にする神の復活を要請するのか。確かに、その危険性を常に胚胎している。しかし、私の求める理想主義はそれを克服するものでなければならない。個人の幸福のみに拘泥する現実主義でもなければ、それを犠牲にして世界全体の幸福を実現しようとする理想主義でもない。前者は現実主義の堕落態、後者は理想主義の堕落態にすぎない。それらは二つの現実主義、すなわち水平的現実主義と垂直的現実主義によって真実に近づいていく。理想主義の真理はその先にある。