補足:祝祭のユートピアに向けて
幼い頃から何もしない人は怠け者で愚かだと教えられてきた。だから、偉大な何かを成し遂げる人になりたいと思った。しかし、何をすればいいのか。何ができるのか。映画やテレビの影響で様々な偉人たちの輝かしい業績に魅せられはしたものの、凡庸な自分にそんな大それたことなどできる道理がない。早々に諦めた。私は何もできないデクノボーだ。それでも生きていかねばならないので、自分にできることはしようと思った。日本国憲法には「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と明記されているが、この権利を享受するためには国民としての義務を果たす必要がある。所謂三大義務の中でも主に勤労さえしていれば、人は健康で文化的な生活を営むことができる。健康は肉体の糧、文化的な生活は魂の糧によって、それぞれ得られるとすれば、人はそうした二つの糧のために生きているとも言える。だから、原理的には何もしないことはあり得ない。生きることは何かをすることだと言ってもいい。問題は、その何かによって人生の価値が決められることにある。当然、そこには格差が生じてくる。天才的能力の持ち主は偉業を成し、平凡な一般大衆は代わり映えしない日常生活を繰り返す。格差は天才と凡人の間に限らず、凡人たちの間にも生じるだろう。能力の多寡に関係なく、努力して大きなことを成し遂げた人はより高く評価される。こうした成果主義によって生まれる格差に異議を唱える人は殆どいない。それは正当な格差であり、むしろ成果も出さずに、あるいは不正による成果で評価されることの方が非難される。水平革命は格差をなくすことではない。世界の水平化と世界の平等(平均)化は全く異なる。格差を撤廃して、能力のある人もない人も、成果を出した人も出せない人も、皆一律に評価する平等主義の世界はディストピアだ。親ガチャに悩むことなく、誰もが同じ出発点から始める正当な競争の結果として生まれる格差は世界をパラダイスと化す。現代社会では、大半の人がパラダイスを目指している。学歴で格差をつけ、就職すれば昇進で格差をつけ、それが年収の格差に結実して「健康で文化的に最高の生活」に人生の幸福を見出していく。勿論、その裏側には格差をつけられた人たちがいるが、それでも「健康で文化的な最低限度の生活」を営む権利はある。「健康で文化的に最高の生活」と「健康で文化的な最低限度の生活」との格差は水平革命においても正当なものとして認めざるを得ない。しかし、それでいいのだろうか。成果主義は絶対的な正義なのか。才覚のある者はどんどんお金を稼いで豊かになっていく。お金さえあれば、貧乏人には受けられない高額治療も可能となり、健康もより盤石になる。文化的な生活もより洗練されるに違いない。パラダイスに必然的に伴う格差は「必要悪」として諦めるしかないのか。貧乏人が一斉に蜂起して、今の富裕層を皆殺しにしても問題の解決にならないことは明白だ。格差そのものは死なない。また、先述したように、格差を殺して平等主義を徹底させてもディストピアに転落するだけだ。では、どうすべきか。目に見える何かをすることで人生を評価する次元を超越するしかない。私はそう考えている。