祝祭のユートピア(2)
『未来予測反省会』という興味深いテレビ番組がある。先日は「労働時間は1日3時間になる」という1930年の未来予測についての反省会であったが、私はうっかり見逃してしまった。従って、どんな反省がなされたのかわからないが、何となく予想はできる。予測から約百年経って、社会は明らかに便利で豊かになった。重労働は言うに及ばず、殆どの労働は機械に任せられるだろう。特にAIの進化によって、人にしかできない労働は皆無になりつつある。1日3時間どころか、労働時間0になることも夢ではない。しかし、現実にはそうならない。何故か。理由の一つは「無為へのぼんやりとした不安」だと考えられる。特に日本人には労働を美徳とする伝統があり、何もしないでいることに耐えられない傾向がある。以前に読んだ本によれば、古代において道具が発明されて労働時間が半減した時、殆どの民族はその半減した時間に昼寝をしたが、日本人は更に労働し続けて生産を倍増させたそうだ。その真偽は定かではないが、労働を原罪によってもたらされた罰だとする西洋(特にキリスト教)の伝統からすれば、労働より昼寝が歓迎されるのは当然だろう。日本でも西洋化された今時の若者たちはFIREに憧れ、可能な限り早期に労働から解放されたいと願っている。しかし、ダラダラと意味もなく長時間労働するのは論外だが、寝る間も惜しんで労働して豊かさの頂点を極めたいという人もいるに違いない。すなわち、「有為(うい)へのはっきりとした欲望」だ。これが労働時間0にならないもう一つの理由だと考えられる。とは言え、豊かさを求める労働が充実しているとしても、それは何のための豊かさなのか。限りなき欲望の充足の果てに一体何があるのか。結局、娯楽ではないか。食うための労働、すなわちゾーエーを充足するための労働は人に限らず、あらゆるイキモノがしなければならない行為だ。狩猟採集にせよ、農耕にせよ、あるいは賃労働にせよ、食うに困らぬ生活が基本となる。ただし、基本はあくまでも基本であって、それ以上のものではない。コンビニ弁当で基本を満たす人もいれば、それを不本意に思う人もいる。基本的な生活は日本国憲法に記されている「健康で文化的な最低限度の生活」を絶えず揺さぶっていく。たといベイシック・インカムというシステムが実現しても、それによって満たされる生活の基本は常にズレていくのではないか。何れにせよ、基本的な生活が安定するなら、労働時間の短縮に異を唱える人は皆無であろう。問題は「労働から解放された人は如何にして生の充実を得るか」ということになる。遊んで暮らす? それもいいだろう。新人類は余暇の過ごし方に優れており、様々な娯楽を享受していくかもしれない。しかし、私にとってはどんなに刺激的な娯楽も退屈でしかない。私は淘汰されるべき存在なのだろうか。