補足:祝祭は娯楽に勝てるか
臆面もなく言えば、私は英雄(ヒーロー)になりたかった。悪者に虐げられている人々を悉く解放する救世主。皆から感謝されながら颯爽と去っていく正義の味方。そういう者に私はなりたいと思ったが、それはずっと憧れのままであり、その状況は今後も変わらない だろう。何故か。退治すべき悪者の姿が何だかぼやけてしまったからだ。一体、誰が悪者なのか。かつては鬼が悪者で桃太郎は文句なしの英雄だったが、今やそうした明確な二項対立は崩れている。一方で鬼だと非難されても、他方でその鬼を支持する人たちがいる。総じて誰の目にも見える悪者は警察などが取り締まってくれるが、本当の悪者は目に見えない。ほぼ毎日のように観ている刑事ドラマの主人公はいつもカッコイイが、私のなりたい英雄ではない。悪代官を懲らしめる水戸黄門のような単純明快な勧善懲悪のドラマはリアリティを失った。私はもはや英雄にはなれない。多くの人々から感謝されるような善人にはなれない。むしろ、英雄になろうとすればするほど、悪人になる決断を迫られているような気がする。悪人と悪者は質的に異なるが、一般的にその差異は無視されるに違いない。それにも拘らず、私は性懲りもなく依然として英雄になりたいと思っている。たといその英雄が大衆から石を投げられるような悪人だったとしても。娯楽に惑溺する大衆にとって、祝祭を求める者は嫌悪すべきアウトサイダーでしかない。