新・ユートピア数歩手前からの便り -226ページ目
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労働の芸術化

人は食うために生きているのではありませんが、生きるためには食うことが必要不可欠です。この現実において食うものの生産が人間の基本的な労働となります。しかし、これを食うための労働と見なしては面白くありません。少なくとも労働が楽しきものであるためには、食うものの生産が一つの芸術活動となる必要があるでしょう。すなわち米や野菜などを芸術作品として作ることが求められるのです。勿論それは食うものの生産=農業に限られたことではなく、あらゆる労働について留意されるべきことです。

新しき村における労働は食うための労働を超えて行かねばなりません。そして食うための労働の超越こそ「労働の芸術化」なのです。労働が生み出すものはお金などではなく、あくまでも自己の生の表現としての芸術作品であるべきだと思います。それは基本的に所謂職業芸術家の生活に等しいと言えますが、全ての労働が芸術の域に達する時、もはや芸術を特別な職業と見なす意味(必要)はなくなるでしょう。農民はその労働においてすでに芸術家なのです。

言うまでもなく、労働の芸術化は一つの理想であって未だ現実にはなっていません。そもそも労働が芸術になる時、それはもはや労働ではなく、むしろ仕事と言うべきでしょう。労働は肉体の糧を得るための活動であり、仕事は魂の糧を求める活動に他なりません。こうした対比において芸術こそ仕事の本質であり、労働の芸術化とはその実「労働の仕事化」だと言えるでしょう。勿論、その逆に「仕事の労働化」という理想を考えることもできます。すなわち「労働の仕事化」とは肉体の糧を得るための活動がそのまま魂の糧になることであり、「仕事の労働化」とは魂の糧を求める活動で肉体の糧も得られるようになることを意味します。例えば、前者の具体例は篤農家や職人であり、後者のそれは職業芸術家もしくは真の意味での出家者でしょう。何れにせよ、現実の人間には労働と仕事という二つの活動が必要です。そして「労働の仕事化」にせよ「仕事の労働化」にせよ、労働と仕事の大調和にこそ人間の理想の生活があると思われます。新しき村は農耕者と思耕者の共働による「祝祭空間」に他なりません。

「新生会」について

村の閉塞状況を打破するために「新しき生活を実現する会」(略称:新生会)というものを村内・村外の有志とともにつくりました。そして昨年末の評議員会でその設立を諮りましたが、色々と批判が多く、結局認められませんでした。先駆的に「新しきこと」に挑戦しないで何が「新しき村」か!と憤懣やるかたありませんが、これが村の偽らざる現実です。しかし我々はこの現実の壁の前で尻尾を巻くつもりはありません。再度「新生会」を村の新事業として認めさせる努力をするか、それとも村を見限って新たな道(NPO法人化など)を摸索するか、今はその両面を考慮中ですが、できるでけ早く「新生会」の具体的な活動を始めたいと思っています。その意味でも「新しき村の精神」並びに「新生会の趣旨」に共鳴して下さる方々との連帯を切に望む次第です。とまれ、本日は「新生会」についての拙文をお読み下さい。


「新生会」について
日比野英次


 私は今、村に来て三年目の冬を迎えようとしている。この二年間、私はそれまで頭の中だけで考えてきた「理想社会」の在り方を根源的に問い直し、併せて新しき村の現状およびその可能性について吟味する作業を進めてきた。そしていよいよ具体的な活動を始めようと思っている。

 尤も私の活動に対しては少なからぬ反発があり、私に不信感を抱く向きもあるだろう。例えば私は折に触れて現在の村は「食うための労働」(経済的自立を維持するための労働)に追われて村本来の活動が疎かになっているという見解を表明してきたが、これなども現在の村の基礎を築き、そして維持せんと懸命に汗を流してきた兄弟姉妹たちの努力を私が無視しているかのような印象を与えているようだ。そのような誤解を招くことは私の不徳の致すところではあるが、勿論それは私の本意ではなく、私は決してこれまで村の発展に尽くされてきた人々の歴史を軽視するつもりはない。

 しかし問題は「これまでの村」ではなく、あくまでも「これからの村」だと思われる。村は現在高齢化が進む一方、若い人の入村は思うように進まないというのが実情だ。一体何故か。新しき村にはもはや若い人を惹きつけるだけの魅力がないのか。決してそんなことはないと私は思う。新しき村の「真の新しさ」が理解されれば、必ずや若い人たちの主体的情熱を掻き立てるに違いない。その意味において、潜在的には「新しき村の精神」に共鳴する者は若い人に限らず無数に存在すると思われる。

 実際、何らかの形で村を知り、或る情熱を抱いて村を訪れてくる者は決して少なくない。しかし残念乍ら、今の村の体制はそうした人々の情熱に充分応えられないでいる。一体何が問題なのか。それは本来「新しきこと」に先駆的に挑戦していくべき村がその使命を果していないことだと思う。ただし、ここで注意すべきことは「新しきこと」は単に「古きこと」を否定することで得られるような単純なものではないということだ。少なくとも「古きこと」の単なるアンチテーゼである近代主義のもたらす「新しさ」は新しき村が挑戦すべき「新しきこと」ではない。

 私はこれまで繰り返し近代主義の「新しさ」と新しき村の「真の新しさ」の相違について述べてきたが、それはその点にこそ新しき村の核心があると確信しているからだ。とは言うものの、今の村にはなかなか「新しきこと」に挑戦するだけの余裕が(精神的にも経済的にも)ないというのが現実であろう。しかし、このままの体制では村の将来が切り開けないというのも現実だと思われる。それ故、こうした二つの現実の狭間で身動きできなくなっている村の閉塞状況を打開するために、新しい組織を設立することを土曜会で検討を重ねてきた。その結果、「新しき生活を実現する会」(略称・新生会)を立ち上げようということになった。先ずはその「趣意書」をお読み戴きたい。


「新しき生活を実現する会」(新生会)趣意書

設立目的

 新しき村の理想実現というプロジェクトを具体的に進めていくに当って、早急に必要とされるのは経済的な構造改革だと思われる。一体何が問題なのか。それは生産活動のみで村の経済を維持していこうとしている現体制に他ならない。もし生産活動だけで村の経済を支えていこうとするなら単品の大量生産しかないが、それは明らかに村らしくない。では、如何なる体制が村に相応しいか。それは生産(一次産業)のみならず、加工(二次産業)・販売およびサービス(三次産業)をも含めた所謂六次産業化(一次+二次+三次)した体制であろう。すなわち多品目の農産物を基本にして、それを加工して村独自の方法で販売していく真に自立した体制だ。更に言えば、そのような生産・加工・販売が三位一体になった体制においてこそ、多くの「新しき会員」を迎えられるものと我々は信じている。

 しかし、言うまでもなく、そうした体制を直ちに実現することは難しい。それ故、現状におけるアポリア(根源的課題)を打開する第一歩として、新しい組織の設立を提案したい。名付けて「新しき生活を実現する会」(略称:新生会)、その主な目的は真に循環的な六次産業化した「新しき体制」(村で生産したものを、村で加工し、村で販売する)を準備・実現していくことにある。

 とまれ、現状では村本来の活動が十全に果せず、さりとてラディカル(急進的)な変革を直ちに実行することもできない以上、暫定的にそれを担う新たな組織が必要とされると思われる。しかしこれは本来、村内における所謂「義務労働」の範囲内の活動であることを改めて強調しておきたい。従って「新生会」の活動は、ゆくゆくは発展的に解消し、最終的には村内の主たる活動になっていくことが望まれる。その意味において、「新生会」の役割は自転車の補助輪の如きものと言えるかもしれない。

活動内容

 「新生会」の活動としては、「財団法人 新しき村 寄付行為」に記された事業内容に即して、次のような基本方針で進めていく。

・ 近代農業のあり方を根本的に問い直し、真に持続可能な農の営みを摸索していく。(「新しき村農法」の確立) 併せて自然エネルギーの活用を積極的に進めていく。

・ 「完全協同経営」という理想についても改めて問い直し、各自が「真に喜びに満ちた労働」に従事できる道を追求する。言うまでもなく、「真に喜びに満ちた労働」は農業に限定されるものではない。すなわち、それぞれが「村の経済を支え、しかも自らが喜びをもって行うことのできる労働とは何か」という問いを深め、その理想が実現できるように皆で考えていきたいと思う。

・機関誌及びホームページの充実によって「新しき村の精神」を普及宣伝し、多くの同志を募っていく。

 具体的な活動内容としては次の六点を考えている。

1. 売店の充実および独自の販路開拓
2. 飲食業の展開(蕎麦屋、喫茶店など)
3. 広報活動(機関誌・ホームページの作成)
4. 加工分野の確立(製パンなど)
5. 教育活動(主に精神的に自立できない若者を対象)
6. 福祉活動(老人グループホームなど)

当面は1から4に焦点を絞り、その活動拠点となるコミュニティセンターの建設を目指す。
 
コミュニティセンターの建設計画は未定であるが、ログハウス(十五坪程度)の新築もしくは生活館の改装などを考えている。

組織

 「新生会」の組織としては「財団法人 新しき村」の新事業として展開することを希望しているが、新事業が軌道に乗るまでは独立採算で運営するものとする。新事業への参画メンバーの候補者は次のとおりである。

   運営責任者   日比野英次(村内会員)
   会計担当者   浅岡 伴夫(村外会員)
   監査担当者   倉敷 幸児(村内会員)
   事業企画委員長 未定
   事業企画委員  未定
 ただし、新事業の会計は全体としては村の会計に組み入れるものとする。

資金

 コミュニティセンターの建設も含めた「新生会」の立上げ資金(八百万円程度を予定)は、全て「新しき村 会員」からの借入金(無利子)によって賄う。借入金は返済猶予期間を五年間とし、その後は返還請求時点から六ヵ月以内に返済するものとする。借入者の名義は「財団法人 新しき村」とするが、借入金の返済に関して何らかの支障が生じた場合には日比野・浅岡が誠意を持って対処するものとする。
 
以上


 さて、この「趣意書」の内容について特に強調したいことは、「新生会」の活動は「理想的な労働の在り方」を摸索する一つの試みであるということだ。それは活動方針に明記してあるように、「完全協同経営」という新しき村の理想を改めて問い直すことを意味する。そもそも「完全協同経営」とは何か。それは雇用・被雇用という関係を超越し、全ての人が経営者であると同時に労働者でもあるような「共働態」に他ならない。実際、村内で義務労働を果している兄弟姉妹たちは村に雇用されているわけではなく、月々支給される「個人費」もその労働に対する報酬(給料)ではない筈だ。しかし全ての人が村の経営者であるという意識は未だ確立されておらず、結果的に普通の賃金労働者と外見上大差ないものとなっているのが現実だろう。我々はそうした現状をこそ「新生会」の活動によって打破したいのだ。

 私はその点に関連して、「割り算の分業」と「掛け算の共働」ということを考えている。何れも「自他共生」を目指していることに違いはないが、その在り方は質的に全く異なっている。すなわち前者においては全体が優先され、その全体を分割した部分を担うことが個人の役割となる。それは言わばジグソーパズルの各ピースをそれぞれの個が嵌めていくような共生だ。それに対して後者では個が優先され、それぞれの個の自己実現が全体を完成していくような共生だと言えよう。すなわち全体として一つの花を咲かせるための分業ではなく、個々の花が咲き誇る共働――そこに我々の目指すべき「新しき生活」があると思われる。

 確かに皆で一つの大きな花を咲かせるという喜びはある。私はそれを無下に否定するつもりはない。ただ、その喜びが滅私奉公的なものに流れていくのなら、そこには「新しき生活」はないと思う。むしろ個々の花が咲き誇る光景こそ、一つの大きな花に優る美を生み出すものと信じたい。

 何れにせよ、「新生会」の活動は個々の人間の主体的情熱が中心となる。言い換えれば、それぞれの「生の充実」に対する主体的情熱なくして「新生会」の活動は成り立たないということだ。その意味において、「新しき村の精神」並びに「新生会」の趣旨に共鳴する人々の積極的な参加を呼びかけたい。それは資金面での協力もさること乍ら、むしろ「新しき村」という場を通じて「如何に自己を活かすか」ということの表明に他ならない。各自の主体的情熱が掛け合わされて成長していく魂の饗宴――そこに祝祭的共働を目指す「新生会」の本質があると私は思っている。

新しき村の義務労働について

私は「理想社会」の基盤は農業だと思っています。そして所謂「篤農的生活」は「人間として本当に生きること」の基本だとも思っています。現在埼玉県は毛呂山町にある村の生活も基本的にはそうしたものだと言えるでしょう(尤も私自身は篤農的生活を送っているわけではありませんが…)。しかし私の目指す「新しき村」は決して「篤農的生活」に尽きるものではありません。その点を私は村内でも繰り返し主張しているのですが、なかなか理解されず、むしろ逆に様々な批判を受ける結果になっています。そのような批判に対して書いたのが、本日お送りする拙論です。御笑覧下さい。


新しき村の義務労働について
日比野英次

はじめに

 先月の機関誌の中でY兄は「あまり積極的に労働していない、義務時間を村のために有効に使っていない、と思われる人」について書いている。名前は挙げられていないが、そこに引用されている文などから、私のことを指しているのは明らかだ。村の同志にそのように思われることは実に悲しいことだが、彼には彼の考えがあってのことだろう。少なくとも彼の私に対する非難は単なる誹謗中傷(個人攻撃)ではなく、あくまでも彼の理想とする「新しき村の生活」に基くものだと信じたい。尤も彼はその理想を未だ明確に示していないので、私としても彼の非難には理解に苦しむ点が少なからず見出される。また彼にしても、おそらく私の書いたものなど読んではいないと思われるので、私の活動の真意を充分理解できていないであろう。それ故、私はここで彼の非難に対して反論を試みるつもりはない。率直に言って、彼の言葉は批判の域に達しておらず、反論の対象にはならないからだ。しかし私はY兄の言葉の誠実さを疑うものではない。また批判にはなっていないとは言え、彼があのように書かざるを得なかった気持は充分察することができる。更に言えば、彼のような不満を他の人達も潜在的に抱いているかもしれない。もしそうだとすれば、彼の非難を黙殺することは適切ではないだろう。何れにせよ、売られた喧嘩は買わねばならぬ。私はこの喧嘩が、新しき村における本来の活動を闡明にするという意味において、一つの契機になることを願いたい。

 では、Y兄の私に対する非難を分析することから始めたいと思う。

一、非難の分析

 Y兄の私に対する非難は次の三つの命題にまとめられる。

命題一、日比野はあまり積極的に労働せず、義務時間を村の
    ために有効に使っていない。  
命題二、そのような人間に「今の村は食うための労働に追わ
    れ、村本来の仕事が疎かになっている」などと言う
    資格はない。
命題三、「食うための労働」は他人に任せ、自分は「理想を実
    現するための仕事」だけをしていたいなどと考えて
    いる虫のいい人間は新しき村には全く必要がない。

 もしこうした命題が全て真実なら、私は離村する他はないだろう。果して本当にそうか。言うまでもなく、私自身にはそれらが真実だとは思えない。しかし三つの命題を構成している論理自体には何ら異議を唱える必要を認めない。すなわち「義務労働を果さず、理想ばかり口にしている人間は新しき村に必要ない」という論理には私も賛成する。問題はその論理が私に適用されるか否かであろう。この点について少し考えてみたい。

 そもそも私は理想だけを追求する研究生活に疑問を感じ、これまで自分が思耕してきた理想を実現する実践の場を求めて村に来たつもりだ。また併せて私は、「食うための労働」を超越して自らは所謂「悟り」を開くことだけに没頭するような坊主ども(出家者)の生活の在り方も批判してきた。たといどんなに純粋な理想追求(求道)であっても、「食うための労働」を他人にゆだねていては画龍点睛を欠くものとなるだろう。その意味において、殊に命題三は全くその通りだと思っている。むしろ私は一貫してこの命題(労働と仕事の関係)について思耕を深めてきたとさえ言える。そのような思いで二年間村で生活してきた私が、言わば「民衆からの布施で食っていながら、その民衆の俗的な生活を批判する坊主」と同列に非難されるのは実に残念、と言うよりも非常に悔しい思いがする。しかしY兄が私を「悟り澄ました坊主」の如き人間と見做しているのは厳然たる事実だ。それは一体何故か。その理由は結局、命題一に見出されるだろう。それ故、次にその真偽について考えてみたい。

二、新しき村の活動

 私は義務労働を果している(勿論、完全にとは言えないが)と思っているが、Y兄はそうではないと見做す――こうしたズレは一体何に由来するものか。おそらくそれは「義務労働」についての見解の相違だと思われる。今回の「記録」の冒頭でY兄は「農業というものが人間が本当に人間らしく生きるために最も適した仕事の一つである」として「農業が正しい仕事で、新しき村に最も相応しいことは間違いない」と断言している。私も農業が基本となることに異論はないが、新しき村の生活はそれに尽きるものではないと思う。尤もY兄も「農業以外の仕事では人間らしく生きられない、とは言いませんが」と断っているが、彼が私の生活を非難する論調からすれば、「農作業以外は義務労働とは認められない」と主張しているように見受けられる。また、仄聞すれば、Y兄は「村に外部の人間が入って来られないように閉鎖すべきだ」と或る人に言ったそうだが、そうしたことから判断すると、「閉じられた純粋空間の中で、ただ黙々と農作業に勤しむこと」のみがY兄の理解する義務労働なのだろう。

 確かにそうした義務労働観からすれば、私は自らの時間を全て農業労働に費やしてはおらず、その意味では積極的に労働していないと言えるかもしれない。しかし単に農作業に従事することだけが義務労働ではないだろう。これは決して「労働を忌避するための口実」として言うのではない。私は自分に与えられた洗卵所での労働を責任を以て果たしているつもりだ。つまり私がここで「単に農作業に従事することだけが義務労働ではない」ということで強調したいことは、「財団法人 新しき村 寄付行為」によれば、新しき村の事業には次の如き二つの大きな柱があるという客観的事実に他ならない。

一、 完全協同経営による近代農業を基幹とする「新しき村」の建設経営(便宜上、A事業とする)
二、 「新しき村精神」の普及宣伝(便宜上、B事業とする)

 こうした二つの事業が恰も車の両輪の如く機能していくところに新しき村の活動が成立すると思われる。すなわちA事業において人間が本当に人間らしく生きられる「新しき村」の実現を目指し、同時にB事業においてそれを可能にする精神並びに理論の研究・普及を機関誌等によって行っていくということだ。ただし、A事業にせよB事業にせよ、その活動内容は常に更新していく必要があるだろう。例えば、現行のA事業においては「近代農業を基幹とする」とあるが、この点は根本的に問い直し、真に持続可能な農の営み(「新しき村農業」の確立)を摸索していくべきだと思う。また「完全協同経営」という理想についても改めて問い直し、各自が「真に喜びに満ちた労働」に従事できる道を追求すべきだろう。言うまでもなく、「真に喜びに満ちた労働」は農業に限定されるものではない。すなわち、それぞれが「村の経済を支え、しかも自らが喜びをもって行うことのできる労働とは何か」という問いを深め、その理想が実現できるように皆で考えていくということだ。

 やや横道に逸れた嫌いがあるが、新しき村の活動はAB 両事業から成り立っており、決して農作業だけが義務労働ではないことをここで確認しておきたい。勿論、私はこの確認によって自分がB事業のみに集中することを正当化するつもりはない。そもそも二つの事業は密接に関連しており、何れか一方だけに従事するということはあり得ないだろう。また先述したように、私の入村目的はあくまでも研究(思耕)と実践(農耕)の両立にある。ただし現実にそうした両立を実現することは難しく、結果的には何れか一方に重心を置かざるを得ないということはある。しかし、これは過渡期には不可避のことだ。確かに洗卵所での労働は農耕とは言い難いかもしれないが、「食うための労働」の一端であるとは言えるのではないか。少なくとも私自身は「食うための労働」を他人任せにしているつもりはない。

 何れにせよ、「今の村は食うための労働に追われ、村本来の仕事が疎かになっている」という私の言葉はあくまでも新しき村の主要な二つの事業を問い直すことを意図したものであり、決して「食うための労働」を忌避するためのものではない。少なくともその点をY兄には理解して戴きたいと思う。

おわりに

 言うまでもなく、私は自分の「新しき村」理解が絶対的に正しいなどとは思っていない。その意味において、今回Y兄から異論が表明されたことを(決して皮肉ではなく)心から有難く思っている。こうして様々な考えが真摯にぶつかりあってこそ、「新しき村」も前進していくに違いない。今後も様々な議論ができるのを期待したいと思う。

新しき村の精神について

本日は「新しき村の精神について」です。私の文章は生硬で読み難いとは思いますが、率直なご感想などをお寄せ戴ければ幸いに存じます。


新しき村の精神について
日比野英次


はじめに
 
 新しき村の精神とは何か。言うまでもなく、それは「全世界の人間が天命を全うし各個人の内にすむ自我を完全に生長させる事を理想とする」精神に他ならない。この点に関して疑問の余地はないだろう。問題はその解釈であり、その理想を如何にして実現するか、ということにある。
 
 私はそれを全体的課題(全世界の人間が天命を全うする事)と個人的課題(各個人の内にすむ自我を完全に生長させる事)の二つに分けて理解し、前者は肉体の糧、後者は魂の糧によって、それぞれ満たされるものと考えている。ただし、そうした二つの課題は本来次元を異にするものであり、それらを共に実現しようとする理想は絶対的な逆説に他ならない。しかし、この一見不条理な試みとしか思えないような理想にこそ、新しき村の精神の「真の新しさ」があると思っている。
 
 もしこの逆説的理想の実現を断念するならば、それはもはや「新しき村」の名に値しないだろう。そもそも単なる共同体主義の理想を追求するのであれば、他の凡百のコミューン運動で事足りる。何も苦労して新しき村を実現しようとする必要はないのだ。
 
 新しき村は単なる共同体主義を超えている。いや、端的に共同体を止揚するものだと言ってもいい。では、一体何か。それは共働態に他ならない。共同体と共働態――先ずその差異について述べたいと思う。

一、 共同体と共働態
 
 私はかつて共同体と共働態の差異を、前者においては「個が全体に束縛される」のに対して、後者では「個が真に生きる全体を目指していく」という視点から論じた。ここでは「主体性」の観点から考えてみたいと思う。すなわち自立ということにそれほど意識的ではない人々が相互扶助して生活を維持していくのが共同体だとすれば、主体性の確立した独立人が相互承認して生活していくのが共働態なのだ。
 
 ここで問題になるのは、自立せる主体的人間が何故共働態を必要とするか、ということだろう。それは生活に関する必要ではない。あくまでも「生の充実」のための必要なのだ。すなわち自立人が自らの生を主体的に表現する場――そこに共働態の本質がある。
 
 ところで、私はこれまで「共働体」という言葉を用いてきたが、問題がここまで煮詰まってくると、もはや「体」(body)という語は共働に相応しくないことが明らかになる。何故なら、共働する各個人は全体の手足の如きものではないからだ。共働態は実体(substance)ではない。それはむしろ関係態(network)だと言うべきだろう。
 
 何れにせよ、共同は生活のためにあり、共働は生の充実のためにある。自立せる人間は共同などする必要はない。しかし自らの生を真に輝かせるためには共働が不可欠だと私は思う。そして共働の本質は祝祭に他ならない。それに対して共同体は或る特定の場所で生活を共にすることを本質とする。先述したように共働態はそのような実体ではなく、祝祭を核とした関係態なのだ。従って実体ではない共働態では或る特定の場所で共に生活する(住む)ことは必要条件にはならない。別に特定の場所に集うことは否定されないが、その集いの本質はあくまでも自立(主体性)であって、生活を共にすることではない。各個人の自給自足こそが共働態の大前提なのだ。ただし、それぞれの自給自足をより合理的なものにするための分業もしくは協業というものは考えられる。しかし基本はあくまでも「真に主体的に生きる」というライフスタイルの確立にある。自立した人達の連帯=祝祭――ここに共働態の究極的な理想がある。
 
 では次に、こうした共働態の理想から村の現状を検討してみたいと思う。


二、 現状の批判的考察
 
 言うまでもなく、現在の村は共働態の域に達していない。単なる農業生産共同体にすぎず、或る意味では生活共同体ですらないと言えるだろう。確かに村人は同じ敷地内に住み、同じ釜の飯を食べている。しかし、単にそれだけのことだ。それは言わば農業生産という同一労働に従事する人々の寮の如きものだ。各自に割り当てられた義務労働を果し、それが終わればそれぞれの生活に戻っていく。年間行事(労働祭、創立記念祭など)以外に村全体で活動することはなく、それにさえ参加しない人も少なくない。総じて村人は個々の生活に閉じこもる傾向にあり、「義務労働さえ果せば、あとは個人の生活に干渉されたくない」というのが村全体の支配的な雰囲気だと思われる。果してこれで生活共同体だと言えるだろうか。百歩譲って生活共同体であるとしても、それは農業という食うための労働における共同生活にすぎない。

 しかし単に農業で生計を立てていくことだけが目的なら、何も新しき村でなくてもいいだろう。そもそも農業で生活していくこと自体に何ら新しさはない。新しき村の「新しさ」は真に人間らしい生活を実現することにこそ見出されるのであり、そうした生活の追求において所謂「農的暮らし」(持続的循環生活)が注目されるにすぎない。つまり、農業はあくまでも手段であって、農業で生活しているからといって、それが即「新しき村の生活」を意味するわけではないのだ。 この点に関して、今の村には少し誤解があるように思われる。確かに村は昭和三十年代の半ばに農業、具体的には養鶏事業の成功によって経済的自立を達成した。それは事実だ。しかし、それと同時に村の本質が歪んでしまったというのも事実だと思われる。

 勿論、私は経済的自立そのものが悪いと言うのではない。実篤の言わば「臑齧り」の状態から曲がりなりにも脱却したことには大きな意義がある。しかし問題はその脱却の仕方だ。率直に言って、その養鶏ビジネスの成功によって達成された経済的自立は単に高度経済成長の波にうまく乗れたということにすぎない。つまり、その時村の自活を可能にしたものは富の蓄積に他ならず、それは単なる資本主義経済の好況が一時的にもたらしたものにすぎないということだ。従って現在のように不況になれば、村の自活はたちまち揺らぐことになる。果してこのように好不況の波に翻弄されるような状態が村の理想とする自立の在り方だと言えるだろうか。私は甚だ疑問に思わざるを得ない。

 しかし、誤解のないように断っておくが、私はここで「村の理想は経済を超越(もしくは無視)すべきだ」と言おうとしているのではない。新しき村(理想的社会)といえども、経済は必要不可欠だ。では昭和三十年代の半ばに達成された村の経済的自立の一体何が問題なのか。簡単に言えば、それはお金を稼ぐことを主たる目的とする経済だったことだと私は思う。確かに一般に経済的に自立するとは生活を維持するに充分なお金を稼げるようになることを意味する。村の場合、それは養鶏事業の成功によって可能になった。しかし、そうした経済的自立には真の新しさはない。別に新しき村でなくとも、それは他の一般社会においても常識的に成し遂げられているものにすぎない。

 では、村の理想とする自立の在り方とは一体如何なるものか。重要なことは、その自立を可能にする労働の在り方に他ならない。すなわち単にお金を稼ぐことだけを目的とする労働ではなく、喜びに満ちた労働によって自活していくことにこそ、村の理想とする「新しき生活」があるのだ。おそらく「喜びに満ちた労働」などと言えば、「労働はそんなに甘いものじゃない」という反論が直ちになされるだろう。現実に食っていくためには嫌な事もしなければならず、むしろ労働は苦痛に満ちているというわけだ。しかし果して本当にそうだろうか。

 「喜びに満ちた労働」とは単に「楽な労働」ということではない。そもそも楽なことで人間として生きる真の喜びを得ることはできないと思われる。楽にお金を稼ぐ道はあるかもしれないが、「生の充実」への楽な道はあり得ない。ただし、「喜びに満ちた労働」は、たとい苦しみ多きものであっても、決して嫌々なされるものではないだろう。あくまでも主体的な情熱を以て取り組める労働にこそ喜びがあり、そのような労働によって肉体の糧を得ていくことこそ「新しき生活」の名に値する。そして「新しき生活」が「新しき経済」によって成立することは言うまでもない。では、「新しき経済」とは一体何か。

 残念乍ら、今それについて詳述する余裕はないが、例えばスローフードもしくはスローライフ、またはエコマネー(地域通貨)の試みなどに象徴されるオルタナティヴな社会を求める動きに「新しき経済」への可能性が感じ取られるだろう。そこに展望される「新しき生活」は決して富の蓄積によって実現されるものではない。

 何れにせよ、現在の村は依然として富の蓄積によって豊かになろうとする「古き経済」に囚われたままだ。これでは、たとい再び好況に恵まれて村の財産が飛躍的に増えたとしても、それは決して新しき村の実現を意味しないだろう。新しき村の実現とは、新しき経済による新しき生活の確立、すなわち祝祭共働態を成就することに他ならない。


おわりに

 東京など、都会から来村される方々の多くは「村はとても良い所だ」とおっしゃる。確かに村は都会に比べれば自然に恵まれ、その環境を羨ましく思われる気持に偽りはないだろう。しかし、今の私は心から「村はとても良い所だ」と言うことができない。率直に言って、村は未だ新しき村になっておらず、その生活も理想的と言うには程遠いと思っているからだ。それはむしろ当然のことであり、そう簡単に新しき村(=理想的生活)が実現できる筈はない。

 とまれ、こうした思いから私が問題にしたいことは、今の村には「新しき村の精神」が冀求する理想的生活のヴィジョンが欠けており、従ってそれを実現するための議論が殆どなされていない点だ。勿論、村の経済的自立を維持するために村人は精一杯頑張っている。それぞれの農作業に汗を流し、その義務労働を怠ける者など一人もいない。その日々の生活は間違いなく誠実なものだ。

 しかし乍ら、私は敢えて問いたい。我々は農業だけをするためにここに集っているのか。新しき村は単なる農業共同体ではなく、あくまでも「新しき生活」を実現せんとする魂の共働態ではないか。少なくとも私は「新しき村の精神」への共鳴を全世界の人間の魂が「新しき生活」に向けて共働することだと理解している。果してどれだけの方がこうした私の理解に共感して下さるだろうか。それぞれの方の意思表示を期待したい。
                     

ラディカル実篤

新しき村は大正7年(1918)武者小路実篤によって創立されたものですが、実篤は決して教祖的な存在ではありませんでした。勿論、実篤に対する尊敬・敬愛といったものはありますが、彼を教祖的存在に祭り上げなかったところに新しき村の「新しさ」があると私は思っています。禅の教えに「殺仏殺祖」というものがありますが、正にそれは村の精神でもあるのです。そうした観点から書いたのが、下記の拙論です。御笑覧下さい。


ラディカル実篤
日比野英次

はじめに
 実篤は『理想的社会』の「緒」で次のように述べている。

 現在の社会に満足出来ないとすれば、どう云ふ社会を我々は望むべきであるか、そしてその我々が望む社会に生活するにはどう云ふ方法をとったらいいか、それを自分はここで考へられるだけ考へて見たい。

 しかし傲慢だとの非難を恐れずに言えば、その「考へ」は未だ充分な「思耕」を尽くしていない。殊に「どう云ふ社会を我々は望むべきであるか」という問題について、実篤のヴィジョンは未だ究極的なものではないと思われる。実篤はいみじくも「我々は目指す世界をはっきり知ることが必要と思ふ。それがはっ切りすれば、それに到達する道がわかる」と述べているが、実篤の目指す世界=理想的社会は未だ真に新しいものを表現し得ていないのだ。そこに新しき村について多くの人々が未だに抱いている誤解もしくは諸問題の根があると私は思う。その点について少し考えてみたい。

一、 実篤のヴィジョン

 実篤は理想的社会の要件として次の三点を挙げている。

 一、すべての人が、人力で得られる限りにおいて長生きするやうに十分注意されてゐること。
 一、各個人が、出来るだけ自己の趣味、自己の正しき要求、天職、個性を発揮出来るやうに注意されてゐること。
 一、すべての人が出来るだけ多くの喜びを感じて生きられるやうに注意されてゐること。

 こうした「注意が十分に実行されてゐる社会は、理想的な社会である」と実篤は言っているが、それは結局、「新しき村の精神」の第一、すなわち「全世界の人間が天命を全うし、各個人の内にすむ自我を完全に生長させる」という理想に集約されるだろう。更にこの理想を私なりに具体化して言えば、「全世界の人間が天命を全うする」という理想は肉体の糧をめぐる水平的問題であり、「各個人の内にすむ自我を完全に生長させる」という理想は魂の糧をめぐる垂直的問題に他ならない。従って新しき村という理想的社会は、水平と垂直という本来次元を異にする問題を同時に解決するものだと言えよう。これは人間の実存構造に対応する実にラディカルな理想であり、おそらくこれ以上の社会的理想を考えることはできないと思われる。

 しかし乍ら、多くの人々は未だそのラディカルな理想を真に理解していないのではないか。例えば「理想的社会では、すべての人が生きるために必要なものは、義務労働で解決し、その他は全然、自由を尊重することで解決したい」という実篤の言葉を、単に「義務労働さえ果せば、後は自分の好きなことができる」という程度に理解している人が多いのではないか。もし我々の目指す世界=新しき村がその程度のものなら、そのヴィジョンは何らラディカルなものではない。少なくとも私自身はそのように中途半端なものを「新しき村」と見做したくはないと思う。

 では、何が問題なのか。それは肉体の糧を満たす水平的理想と魂の糧を満たす垂直的理想の関係に他ならない。前者をパンの理想、後者をパン以上の理想と言ってもいい。人はパンのみにて生くるにあらず、さりとてパンなしではパン以上の理想を追求することも叶わないという現実において、一般的にはパンの理想の実現、すなわち「すべての人間が食うに困らぬ社会の実現」を以て理想的社会の成就と見做されるだろう。実篤のヴィジョンでは、それは義務労働によって解決されることが目指される。しかし、そうした水平的理想の実現は真に理想的な社会に至る道の半分にすぎない。勿論、この半分の道でさえ極めて困難なものではあるが、ここで問題にしたいことはもう半分の道、つまり垂直的理想を実現する道との関係に他ならない。

 残念乍ら、実篤のヴィジョンにおいて、その関係は根源的には問われていない。と言うより、それは問うべきではないとされているようにも見える。常識的に言えば、人々が共同の理想となし得るのは水平的理想に限られ、垂直的理想は各個人の魂の問題とされることだろう。実篤の基本的ヴィジョンもこの常識を超えるものではない。しかし、もしその常識に止まるならば、新しき村の理想は個人の垂直的理想追求を最大限に可能にする水平的理想、言わば個人主義を最大限に生かす共同体の理想にすぎないものと言わざるを得ない。それで何が悪いのか、と少なからぬ人は思うかもしれない。悪いわけではない。ただ、その理想は未だ究極的なものではないだけだ。

 もしかしたら、殆どの人は水平的理想の共同体(全ての人が食うに困らぬ社会)の実現を以て満足し、垂直的理想の共働体を蛇足だと思うかもしれない。全ての人が究極的理想の実現を望むわけではないのだ。しかし「理想的社会」についてラディカルに「考へられるだけ考へる」ことを目指すならば、道は垂直的理想の共働体に辿りつく他はないと思われる。私はそのヴィジョンを祝祭共働体に見る。

二、祝祭共働体というヴィジョン

 祝祭共働体とは何か。それは古き村の全体主義(統一体)と近代都市の個人主義(バラバラの個)の両者を止揚する個即全・全即個の統合体に他ならない。水平的理想と垂直的理想の関係に即して言えば、それは「個人の自我の完全なる生長」という垂直的理想が水平の次元において具体化することを意味する。更に宗教的な比喩を用いれば、水平的理想に受肉した垂直的理想が祝祭共働体を形成すると言えるだろう。こうした祝祭共働体が一般に理解され難いとすれば、おそらくそれはこの「受肉」のヴィジョンのせいだと思われる。と言うのは、先述したように、一般的には水平的理想と垂直的理想は断絶しているとするのが常識だからだ。

 確かに水平的理想が共同のものであり、垂直的理想が個人のものであることは間違いない。従って理想の共同体はあくまでも水平的理想が実現された状態を意味し、そこにおいて個人は自由に(もはや肉体の糧=パンの問題に煩わされることなく)魂の糧を求めることができるだろう。しかし魂の糧は個人のもの(実存的なもの)であるが、それを満たす垂直的理想は個人主義によっては到底実現され得ないと私は思う。その意味において、「理想的社会」の極北に位置すべき「新しき村」は水平的理想が満たされただけの共同体を超えていく必要がある。すなわち「新しき村」は水平的理想の共同体であると同時に、垂直的理想の共働体でなければならないのだ。ここに「新しき村」の問題中の問題がある。

 しかし率直に言って、私は未だ問題中の問題としての「祝祭共働体」について説得的に語り得る言葉を持っていない。また紙数の都合上からも、ここではその要点だけを記すに止めたい。

(1) 祝祭共働体は全世界の人間が幸福になるシステムの実現を目指す。それは決して抽象的なものであってはならない。基本はあくまでも各個人が現実に幸福になることであって、それを無視した全体の幸福などというものを考えることはできない。その意味において「滅私奉公」という古き理想は原理的に無に帰したと思い知るべきだ。少なくとも新しき村において、個人は如何なるものの犠牲にもなってはならない。しかし自立は孤立ではない。個人は個人主義によっては真に幸福になることはできないだろう。勿論、全体主義によってもなれない。重要なことは各個人の幸福がそのまま全体の幸福でもあるような現実だ。そのような現実を私は「祝祭」に見る。それは個即全・全即個という統合の現実であり、その現実において祝祭共働体は古き村のゲマインシャフト(Gemeinschaft=共同社会)と近代都市のゲゼルシャフト(Gesellschaft=利益社会)を共に止揚するポスト・モダンの「新しきゲマインシャフト」だと言えるかもしれない。

(2) 祝祭共働体はアウタルキー(Autarkie=自給自足)の精神に基く個人の連帯によって形成される。私はかつて人間生活の理想は完全なるアウタルキーにこそあると思っていた。しかしそれはどう考えてみても原理的に不可能であるし、またたとい可能であったとしても余り面白い生き方とは言えないだろう。やはり人間として生きることの真の喜びは他者との共働にこそあるのではないか。それは他者に依存して生きることとは全く異なる次元のことだ。それぞれの個人が人間生活に必要なものを生産して分かち合う――言わば自立した人間同士のコミュニケーションが共働の本質だと思われる。小田実の言葉を借りれば、それは決して「われら」とはならぬ「われ=われ」の連帯に他ならない。彼がいみじくも言っているように、自立と連帯は同時にかたちづくられるものであって、それ以外のものではない。

(3) 祝祭共働体は「労働の芸術化」(ウィリアム・モリスが言うような意味における)を目的とする。肉体の糧を得るための活動を「労働」、魂の糧を得るための活動を「仕事」とするならば、両者の一致にこそ真の理想的生活がある。その一致の形態としては、「労働の仕事化」(例えば、篤農家)と「仕事の労働化」(例えば、職業芸術家)の二種が考えられるが、それらを総合して「労働の芸術化」と称したいと思う。勿論、「労働」と「仕事」を二元論的に分離し、義務「労働」を果した後にのみ「仕事」の自由が得られるというのが現実であろう。新しき村における現実の生活も、その例外ではない。しかしその現実に止まるならば、村の生活に「新しさ」など全くなく、それは基本的にサラリーマンの生活(九時から五時まで生活のために労働して、それ以後自分の好きなことを楽しむ)と大差ないものと言わざるを得ない。それで悪いわけではないが、真に理想的な生活とは言えないだろう。

 結局、新しき村を真に必要とする者は誰か。それは現代社会に絶望している者だろう。論理的にはそうなる。しかし実際には現代社会に対する絶望がそのまま新しき村の必要にはなっていない。何故か。それは新しき村のヴィジョンが現代社会の絶望を真に克服し得るものになっていないからだ。つまり誰もがそこで生活したくなるような社会のあり方――それを新しき村は未だ示すことができないでいる、ということだ。では如何なる社会が我々にとって真に理想的なもの足り得るのか。問題の核心は個人生活の捉え方にあると思われる。理想的社会においては先ず個人の自由が最大限に尊重されなければならない。それは実篤のヴィジョンの核心でもある。しかし、それだけではないと思う。確かに個々の自由な生活が完全に保障されれば、多くの人々はそこに理想的社会の実現を見ることだろう。他人に一切煩わされることのない生活。しかし私はそれ以上の生活を望みたい。また、そう望むところにこそ真の「新しさ」があると思う。それは他者と共働する祝祭の生活だ。尤も他者との関係には微妙な問題がある。しかし人間として生きることの実存的な喜びは、やはり他者との関係から生まれてくるのではないか。少なくとも究極的な「理想的社会」としての新しき村のヴィジョンは、自立した自由人としての個人が他者との共生(もしくは連帯)に生きる喜びを見出す祝祭共働体に辿り着くものと思っている。

おわりに

 若き実篤は「理想的社会」の実現を望んだ。単に望んだだけではなく、実際に「新しき村」としてその実現の第一歩を踏み出した。これは誰にでもできることではない。若きマルクスも言うように、世界を様々に解釈する哲学者の仕事もさること乍ら、重要なことはやはり世界の変革なのだ。実篤は間違いなくその一歩を踏み出した。しかしそれが真に「新しき一歩」となるためには、更にラディカルなヴィジョン(祝祭共働体)が必要になるだろう。真の実篤はラディカルな実篤だと私は確信している。
                     

新しき村は共同体にあらず!

世界には「理想社会」の実現を目指した様々な共同体があります。その中には「洗脳集団」と称されるものもあり、共同体運動は何か胡散臭いものだというのが一般的な印象だと思われます。すなわち共同体では個々の自由が抑圧され、全体主義的な雰囲気が支配的だとの印象です。それは強ち間違った印象ではないと思いますが、私の目指している「新しき村」は全く異なります。その点から書いたのが下記の論考です。御笑覧下さい。


新しき村は共同体にあらず!
日比野英次                   

はじめに

 昨年或る女子大生が卒論の調査ということで来村された際、半ば冗談に「新しき村にあなたのような若い女性がどんどん入ってくれるようになるためにはどうしたらいいでしょうね?」と問うたところ、「今時そんな物好きな人はいないんじゃないですか」とあっさり言われてしまった。私はその余りに率直な応えに愕然としたが、よく考えてみれば、この彼女のような反応こそ世の人々の新しき村に対する一般的な印象なのだろう。すなわち、新しき村の理想は理想として、それを実現しようと本気で考えている人は「物好きな人」にすぎないということだ。

 勿論、こうした印象は誤解に他ならない。私はそれが誤解であることを明らかにするために、これも昨年来村されたサイデンステッカー氏(「源氏物語」や谷崎・川端の英訳で高名な日本文学研究家)との一エピソードを紹介したいと思う。

1.犬と猫

 私はサイデンステッカー氏に問うた――「あなたはコミューンに関心がありますか?」すると氏は即座に「関心はあるが、自分がコミューンに住もうとは思わない」と答えられた。そこで更にその理由を尋ねると、氏は暫し黙考の末、「それは犬が好きか、猫が好きかの違いです。犬はコミューンに住めるが、猫は住めません。私は猫のように生きたいと思っています」と言われた。

 氏の言わんとされていることは明らかであろう。鎖に繋がれているような束縛された生活を意に介さぬ犬ならコミューンに住めるが、自由に動きまわることを尊ぶ猫には堪えられないというわけだ。(余談ながら、或る作家によれば「犬は自分を人間だと思い、猫は自分を神だと思っている」そうだ。)

 おそらく、こうしたコミューン観は多くの人々に共通するものであり、冒頭に述べた女子大生の新しき村に対する反応もこれに基くものだろう。しかし、言うまでもなく、このコミューン観は新しき村には当てはまらない。それ故、私はサイデンステッカー氏に対して、「新しき村は猫の村を目指している。自由に生きる個人が自己を真に活かすことのできる共働体こそ必要なのだ」と反論した。この反論に対して氏はもはや何も言わず、ただ苦笑されるだけであった。 

2.「猫の村」

 サイデンステッカー氏との束の間の対話はそれで終わったが、問題は「猫の村」とは具体的に如何なるものか、ということだろう。私はサイデンステッカー氏に「新しき村は猫の村を目指している」と言ったが、後でよく考えてみると、それは少し違うように思えてきた。

 確かに独立自尊の猫が他律的な「古き村」に住めぬことは言うまでもない。その意味において新しき村こそ猫に相応しいものだと私は思った。しかし、もし猫が自律を真に実現した存在なら、如何なる村も必要とはしないのではないか。すなわち個人主義的な「近代都市」こそ理想であって、それを超えて「新しき村」を求める必然性はないのではないか。おそらく、勝手気儘に生きることだけを望む猫レベルの存在なら、それで問題はないだろう。しかし、人間は違う。ただ生きて在ることだけでは満足できぬ人間にとって、「新しき村」を求めざるを得ぬ必然性は厳然として存在する。少なくとも人生の意味をあくまでも究極的に問うならば、他律のみならず自律さえも真の理想とするに値しないだろう。何故か。それらは何れも人間に真の自由をもたらさないからだ。

 ヘーゲルによれば、他律と自律の違いは「主人が外にいるか内にいるか」ということにすぎない。つまり他律は他者の奴隷になることであり、自律は自分自身の奴隷(!)になることなのだ。何れにも真の自由はない。他律も自律も奴隷的生き方であることに変わりはないのだ。では、真の自由は如何なる生き方にあるのか。

 他律、自律、とくれば次は神律となる。しかし問題は神律のリアリティであろう。それを真に理解するためには、神律における神=絶対者をラディカルに把握する必要がある。さもなければ、他律と自律を超える神律の真意を理解できないと思われる。すなわち、神律における神を超越神だと解すれば、それは実質的に他律と変わらない。また、内在神と解すれば、自律と大差ないものとなる他はない。超越神も内在神も神律のリアリティを語るに相応しくないものだ。

 では、如何なる神観もしくは絶対者観が神律のリアリティを語り得るのか。今ここで、その議論に深入りすることは自重したい。ただ、それを語ろうとすれば、「対立者の一致」(クザーヌス)、「同一性と差異性の同一性」(ヘーゲル)、あるいは「絶対矛盾的自己同一」(西田幾多郎)といった逆説的表現にならざるを得ず、神律のリアリティはその実「律」(ノモス)の止揚にあることだけを指摘するに止める。すなわち神律とは絶対的な逆説であり、真の絶対者としての神に律されることは、その神も含めた何者にも律されることのない絶対的自由の実現を意味するのだ。結論だけを言えば、神律とは祝祭であり、そのリアリティは神と遊ぶことに他ならない。

 何れにせよ、新しき村を「猫の村」だと主張したのは早計であった。勿論、新しき村はあくまでも自由な生活を求める。しかし、それは猫のような自由ではない。他律の束縛(犬の生活)から自律の自由(猫の生活)を経て、神律の自由(祝祭的生活)へ――ここに新しき村が求める究極の理想があると私は思う。

おわりに

 もしコミューン=共同体が「犬の村」に限定されるのなら、新しき村は共同体ではない。では一体何かと言えば、今の私は「祝祭共働体」と答えるしかない。「祝祭共働体」こそ人間の自由が真に実現される場なのだ。個が全体に束縛される「共同体」は古き村の構造であり、新しき村はその構造をディコンストラクトすることによって個が真に生きる全体(個即全・全即個の統合体)を実現しなければならない。それが「祝祭共働体」なのだが、こう言ってみたところで多くの人は納得しないだろう。「祝祭共働体」の具体的なヴィジョンを示さなければ誰一人として説得できないことは重々承知しているつもりだ。

 ただ、それにも拘らず、ここで言っておきたいことは、新しき村は決して一部の「物好きな人」のみが住める特殊な場所ではないということだ。そもそも一般の普通の人にとって息が詰まるような生活がどうして新しき村の理想になり得ようか。新しき村はあくまでも、我々が本当に人間らしく生きられる生活を実現しようと思っている。その意味において、本当に生きようとしている全ての人にとって、新しき村は不可避であり、その実現は人類の使命だとさえ言えるだろう。

 既存の社会でそれなりに幸福に生活できる人はそれでいい。しかし現実の社会に絶望している人、この社会ではとても人間らしく生きられないと切実に感じている人、そうした人々は新しき村に無縁でいることはできないと思われる。勿論、現実の村は未だ新しき村になっていない。その理想を実現する道は遥かに遠いと言わざるを得ない。だからこそ、多くの人々(特に若者、更に言えば若い女性!)の力が必要なのだ。一人でも多くの人が新しき村に積極的な関心を寄せてくれることを心から願っている。
                   

新しき村の使命について

私は恰も「新しき村」の代表であるかのような調子でこの便りを書いておりますが、事実は全く違います。むしろ村の中では異端的存在であり、私が進めようとしている活動に対しては少なからぬ抵抗があるというのが実情です。

しかし乍ら、私の考えに共鳴して下さる人もいます。そうした人達と最近、「新生会」(新しき生活を実現する会)というものを設立しました。ゆくゆくはNPO法人として組織化して、様々な事業を展開してゆく予定です。これは「新しき村」とは一線を画した活動ですが、現実の村が新しい活動に対して閉鎖的である以上、我々としては自分達の理想とする「新しき村」を独自につくっていくしかないと思っています。

何れにせよ、「新生会」については後日詳しくお知らせしますが、今は私の構想する「新しき村」について述べたいと思います。本日は「新しき村の使命について」です。


「新しき村」の使命について                      
日比野 英次
 

 新しき村の使命とは何か。この問いに対する答え方は十人十色であろう。それぞれの答え方にその人の新しき村に対する主体的な関係が表現されるに違いない。そうした主体性は勿論重要なことではあるが、往々にして主観的な議論に流れる嫌いがある。そこで新しき村の使命を客観的に議論できる何か良い方策はないものかと考えていたところ、関口弥重吉兄より「財団法人『新しき村』寄付行為」なるものがあることを教えて戴いた。一読、この言わば「新しき村の憲法」とでも言うべき文書こそ真に実のある議論を生む土壌ではないかという印象を持った。尤も客観的な条文だけに立脚して物事を判断する律法主義は本来新しき村らしからぬことではあるが、新しき村の使命について考える一つの試みとして大方の御笑覧に供したいと思う。

 では早速、「財団法人『新しき村』寄付行為」に基いて新しき村の使命について考えてみることにしたい。その第三条(目的)、第四条(事業)は次のように記されている。 

(目的)

第三条 この法人は全ての人間が天命を全うし、その個性を完全に成長させることを理想とし、この理想を実現できる社会を、人間の自発的な正しい協力によって建設することを目的とする。

(事業)

第四条 この法人は前記の目的を達成するため次の事業を行う。

完全協同経営による近代農業を基幹とする「新しき村」の建設経営
「新しき村」精神の普及宣伝
出版その他の文化事業
その他「新しき村」の目的達成上必要な事業

 言うまでもなく、第三条は「新しき村の精神」の第一に基いたものであり、これを新しき村の目的とすることには全く問題はない。我々の問題とすべきは「その目的を如何にして達成するか」であり、具体的には第四条をつぶさに吟味することが必要となる。そこで第四条を改めて見ると、第三条の目的を達成するための事業として四つ挙げられているが、第四点は「その他」であるし、第三点の「出版その他の文化事業」は内容的に第二点に含まれるので、結局新しき村の事業としては第一点と第二点に収斂されるだろう。すなわち内の充実と外への働きかけだ。

さて、こうした第四条の理解に基いて、ここで私が問題にしたいことは二点ある。第一点は新しき村の使命には内に向かうものと外に向かうもの、言わば求心的なものと遠心的なものの二つ存在するということであり、第二点はそうした二つの使命の関係についてだ。

 先ず第一点についてであるが、何故この点を問題にするかと言えば、農業労働のみが所謂「村の仕事」(義務労働)だと限定するような謬見を正したいからだ。しかし誤解のないように断っておくが、私は決して農業を軽視するつもりはない。むしろ農業はあくまでも新しき村の建設経営の基幹であり、それが第四条(事業)の筆頭に掲げられていることは無限に正しいものと信じている。と言うのも、全ての人間が天命を全うできる社会は循環的に持続=永続する農業によってのみ可能となるからだ。(少し横道に逸れるが、そうした農業が「近代的農業」であるかどうかには疑問の余地がある。もし農薬・化学肥料に依存する工業的農業を「近代的農業」と解するならば、それは新しき村の基幹とすべき農業ではないだろう。そうかと言って、無益な重労働を強いる「前近代的農業」に戻ることは論外だ。それ故我々はそうしたアポリアを克服する「新しき村農法」とでも言うべきものを考える必要があるが、今はそれを問題にすることは自重したい。)しかしたとえ農業がどんなに重要でも、それだけに集中することでは新しき村の使命を果たすことにはならない。また、たとえ農業経営においてどんなに成功しても、それは新しき村の目的を達成することを意味しないと私は思う。新しき村は単なる「農業生産共同体」ではなく、あくまでも人間の究極的な理想を実現するという使命をもつ「精神の共働体」なのだ。その点を見失うと、新しき村における農業労働の意味そのものが宙に迷うことになる。そもそも新しき村は財団法人であって農業法人ではない。尤も外見上は農業法人と何ら変わるところがないように見えるが、実質上は全く次元を異にしている。例えば各個人の義務労働は雇用関係に基くものではないから、月々支払われる「個人費」を給料と見なすことはできない。言い換えれば、村内会員は報酬を得るために(金を稼ぐために)労働をしているのではない。では一体何のために働いているのか。言うまでもなく、新しき村をこの地上に実現させるという使命のためであり、「寄付行為」によれば、それは先に述べたような二つの事業を行うことに他ならない。

 次に、第二点についてであるが、新しき村の建設とその精神の普及宣伝という二つの使命は恰も車の両輪の如く機能すべきだと思われる。しかし、これまでの村はともすると後者の使命に余り熱心ではなかったような気がする。むしろ二つの使命の関係を二段階的に捉え、例えば商品開発とその販売のように、先ず理想的な村の建設に全力を尽し、それを実現した後に初めてその普及宣伝の事業に着手できるものと理解されてきたのではないか。確かに未完成なものを普及宣伝できないと考えるのは当然であり、真の完成はその普及宣伝を無用のものとするとさえ考えられるだろう。新しき村が真に完成すれば、それを普及宣伝する必要もなく自然に全世界に広がっていくという風に。しかしそれは幻想でしかないと思う。新しき村の完成は、その精神を不断に普及宣伝していくことなくしてあり得ない。成程、家を建てなければ、そこに住むことはできない。しかし新しき村という家は、それを建てることの意義・必要性を全世界に訴えて、それに共鳴する人の参加を得なければ到底完成できるものではないと思われる。すなわち家を建てた後、「理想的な家が完成しました。どうぞ住んで下さい」と普及宣伝することは不可能、と言うよりも無意味であり、現実的な道としては「全世界の人間が本当に生きるためには新しい家が必要だ」という新しき村の精神を普及宣伝することで同志を結集し、それによって新しい家の完成を目指すしかないのだ。従って新しき村の建設からその普及宣伝へと移行するのではなく、新しき村の精神の普及宣伝によって村の建設を推進していくことになる。もはや「一国社会主義」のように「先ず限られた一地域で理想的なモデルを実現して、それからそのモデルを全世界に広めていく」という二段階的発想は古き村のものだと言わざるを得ない。新しき村の建設は一握りの限られたエリートたちによって先導されるべきものではなく、それを必要とする全ての人によって共働されるべきものだ。村内の充実と村外への働きかけは相即している。どちらが欠けても空虚なものとなる。私は先に「新しき村の使命は二つある」と述べたが、厳密に言えば一つの使命に二つの面があると言うべきだろう。瀧澤克己の言葉を借りて言えば、それは不可分・不可同・不可逆の二面だ。

 結論。「寄付行為」第三条に明記された目的を達成するために、我々は第四条に見られるような内的事業と外的事業を行わねばならない。すなわち、前者は全ての人間が天命を全うできる農業を基幹とした新しき村の建設経営(蛇足ながら、新しき村は農業を基幹とした上で他の様々な産業を発展させる可能性をもっていることを指摘しておきたい。つまり新しき村を農村に限定して考える必要はないということだ)であり、後者はそうした村においてこそ各人の個性を完全に成長させることができるという新しき村精神の普及宣伝に他ならない。誤解を恐れずに言えば、人間は新しき村の実現なくして本当に生きることはできないと思われる。言い換えれば、人間が本当に生きることを実現できる場こそ新しき村なのだ。古い世界に絶望した者のみが新しい世界を求める。少しでも古い世界に希望があれば、そのまま古い世界にとどまった方が賢明だろう。わざわざ苦労して新しい世界をつくろうとする必要はない。ただ古い世界のどこにも生きる場所のなくなった者だけが新しい世界を必要とするのだ。新しき村も然り。新しき村を必要としているにも拘らず未だ新しき村を知らないでいる人々は世界にたくさん潜在するだろう。新しき村の真の実現はそうした「未知の兄弟姉妹たち」への呼びかけなくしてあり得ない。その意味においても、私は新しき村の内なる充実とともに外への働きかけが我々の使命だと思っている。

新しき村の実現について

「ユートピア数歩手前からの便り」とは、言うまでもなくウィリアム・モリスの「ユートピア便り」(News from Nowhere)に準じたものです。ただモリスの場合は自分の理想とする社会をファンタジーとして作品化したわけですが、私は敢えてユートピアを現実のものとするという目的でこの便りをお送りしたいと思っています。勿論「ユートピア」の語源からすれば、それは「どこにもないところ」ですから、それを現実のものにしようとすることは実に馬鹿馬鹿しく無駄なことかもしれません。しかし私は決して無意味なことだとは思っておりません。そこで私が現実化しようとしている所謂「理想社会」の在り方について、本日から数回に渡って述べたいと思います。それらは全て「新しき村」の機関誌に掲載したものですが、私の今後の便りの序章として御笑覧下さい。


新しき村の実現について 
日比野英次

はじめに  

私は「新しき村」を武者小路実篤の村に限定して考えていない。古今東西の所謂ユートピア思想が「新しき村」の土台となっている。しかし、その中で武者小路氏の構想を中心に考えるべきだとすれば、それは氏があくまでも「個を活かす」ということを目的とされた点に見出されるだろう。

武者小路氏はあくまでも個人の魂の糧を問題にする芸術家であった。確かに氏には社会全体の改革という関心もあり、それなくして「新しき村」の活動もあり得ないが、氏はついに実際的な社会運動家ではなかったと思われる。そこに氏の限界を見出す人も多いが(特に現実的な共産主義者などは、氏の試みを「空想的」の一言で片付けてしまうに違いない)、見方を変えれば、そこに氏の大きさがあるとも言えるだろう。

何れにせよ、私は個人としての人間(単独者)が本当に生きることを求める――これが全てのユートピア思想の出発点でなければならぬと思っている。従って「新しき村」は個人としての人間が本当に生きることを実現できる場でなければならない。これこそユートピアを求める様々な試みの原点であるべきだろう。言わば個を真に活かす全体の実現だ。それは全体のために生きる(犠牲となる)個の止揚であることは当然であるが、同時に個のために存在する全体の止揚でもあることも忘れてはならない。すなわち私の目的地は、個即全・全即個の成就としての「新しき村」なのだ。私は、こうしたユートピアの究極とも言うべき「新しき村」の具体的内容を、その真の新しさについて考えることで明らかにしていきたいと思う。


   「新しき村」の新しさについて

五月の連休中に村を訪れた観光客の一人が「新しい村なんて言うけど、古い建物ばかりでちっとも新しくないじゃないか」と呟いていたそうであるが、「新しき村」を「新しくつくられた村」だと思う誤解には単なる笑い話では済まされぬ或る根源的な問題が潜んでいるように思われる。すなわち「新しき村」は「新しい村」ではないのだ。

では「新しき村」の本当の新しさとは一体何か。それは「昨年つくられたものよりも今年つくられたものの方が新しい」というような水平的時間の流れにおける新しさではなく、あくまでも垂直的な時間における新しさであろう。尤も我々が日常生活において感じているのは水平に流れている時間なので、垂直的な時間はむしろ永遠と言った方がいいかもしれない。ただし、それは悪無限としての「永久」とは異なり、或る理想の時熟(カイロス)として水平的な時間(クロノス)に突入してくる「永遠の今」なのだ。従って、それは決して抽象的なものではない。私はそうした垂直的な新しさを、「古き村―近代都市―新しき村」という弁証法において明らかにしたいと思う。


   (1)古き村―近代都市―新しき村

先に述べたように、「新しき村」の魅力は自己(個人としての人間=単独者)を真に活かすことを主たる目的とする共同体という点にある。これを個と全体の関係で言えば、全体のために個があるという構造をもつのが封建主義的な「古き村」であるのに対し、「新しき村」は個を真に活かすための全体(これは後述するように単に個のために全体があるという構造ではない。その微妙な差異が問題なのだ)の実現を目指していると言えよう。こうした「新しき村」の理想は実に魅力的なものであるが、ここには根本的かつ構造的な矛盾がある。それは自己を真に活かすということと共同体の関係だ。前者は垂直的の次元における主体的な事柄であるのに対し、後者は水平の次元における社会的な事柄に他ならない。果して自己を真に活かそうとすることは共同体を必要とするだろうか。我々は先ず、この根本的な問題に立ち返らねばならない。さもなければ、「新しき村」に幻滅する者の後を絶てないだろう。

そこで、改めて問う。理想の共同体とは何か。しかし、私の考える理想が他者の理想と同一であるとは限らない。してみると理想の共同体というのは一つの矛盾ではないか。先ずこの矛盾について考えてみる必要がある。もし唯一の理想を追求する共同体を考えてみれば、それは抑圧以外の何ものでもないだろう。と言うのは、理想は個人によって種々雑多であるのが当然であるからだ。それ故、唯一の理想によって統一される共同体は何ら理想的ではないと言えよう。実際、共同体の生活と聞くと顔を顰める人が多いのは、そこでは個人の自由が制限されるという印象のせいだと思われる。残念なことに、現にある殆どの共同体はその印象が正しいことを証明しているが、理想の共同体とは決してそういうものではない筈だ。では、理想の共同体の真の姿とは如何なるものか。

私は理想の共同体というものを一応「様々な個人の理想が統合される共同体」だと理解している。そこでは個人の理想が自由に、何に妨げられることもなく追求される。もはや経済的な問題を気にする必要はない。個人は自らの理想追求に最大限集中することができるのだ。このように重要なことはあくまでも個人の理想追求だが、それは個人だけでは決して達成できないだろう。これは経済的な理由によるだけではなく、むしろ人間存在の原理によるものだ。尤も「個人の理想追求に共同体など関係ない。むしろ邪魔なだけだ」と考える人も多いかもしれない。しかし私はそうは思わない。そもそも個人の理想というものは個人だけでは成就することは原理的に不可能であり、否応なく他者との関係を必要とするものだろう。人間の原点は単独者であるが、単独者のままで本当に生きることはできない。それが人間の現実だ。山奥で修行していたツァラトゥストラも里に下りて来ることを余儀なくされた。それは「十牛図」の示しているものと基本的に同じであり、孤独な哲学(修行)の往相は社会的実践の還相によって完成すると言えよう。すなわち人間が本当に生きることを成就できる場(自己完成の場)は孤独な山奥ではなく、あくまでも人々が生活する里であり、そこにこそ「新しき村」は実現するのだ。個人の理想は不可避的に共同体を必要とする。共同体においてこそ個人の理想は成就するのだ。私はこの点を、個人の理想と全体の理想の関係において更に考えてみたいと思う。  

個人の理想と全体の理想――前者の集合が後者になることはないし、後者が前者に口出しすることもできない。両者は質的に異なったものであり、全く次元が違っている。そこで取り敢えず「個人の理想は魂の糧に関するものであり、全体の理想は肉体の糧に関するものである」と考えてみる。言うまでもなく、人間にはその両方の糧が必要だが、それは人間が個人的な存在であると同時に全体的(社会的、と言った方がいいかもしれない)存在であることを意味している。すなわち、たとい自らの個人的な理想だけを追求して生きていきたいと願っても、他者との関係を否定することはできないということだ。むしろ個人の理想は、それを可能にするために否応なく全体の理想を必要とする。具体的に言えば、肉体の糧を得るための労働を最小限に、魂の糧を得るための仕事を最大限にすることを可能にする全体(社会)――これこそ理想的なものと言えるだろう。すなわち理想の共同体とは、個人の理想が最大限に生かされる全体に他ならない。しかし、それは個人が勝手なことをしてもいい社会とは根本的に異なる。そのような個々バラバラの状態を招いたのが、「古き村」のアンチ・テーゼとして実現した「近代都市」であると言えよう。

確かに「近代都市」は、全体のために個があるという「古き村」の封建主義的構造を否定し、個のためにこそ全体があるという新しい構造を実現した。しかし、その結果、「近代都市」における人間は個々バラバラのアトムとしての個人と化してしまった。私はこのようなアトムとしての個人では、人間として本当に生きることなど到底できないと思う。個人の「本当の生」は原理的に個人だけでは実現しない。「今、この瞬間に生きている私は本当の私である」と言うことができる時、主語の私が確認する述語の私=本当の私は「私」を超越している。それは、ヘーゲル的に言えば、「我である我々・我々である我」の実現に他ならない。こうして個人の「私」が「我である我々・我々である我」という全一的意識に辿り着く時、個人は人間として本当に生きていることを実感できるに違いない。具体的に言えば、それは「全ての人が自分の兄弟姉妹である」という実感であり、ここに「新しき村」の基礎があることは言うまでもない。そして、そうした全一的意識が求める理想の共同体は個の問題からの逃避(もしくは個が逃避する場)では決してなく、あくまでも個の問題の成就もしくは個が自らを真に生かせる場)でなければならない。従って、全体のために個が奉仕せねばならぬ「古き村」が問題外であるのは当然であるが、個のために全体が奉仕することだけを望む「近代都市」も理想的とは言えない。人間が本当に生きることにおいて、個人は決してバラバラな存在ではあり得ないからだ。そこには統一は必要ないが、統合は不可欠だと思われる。

統一体と統合体――この差異にこそ理想の共同体をめぐる問題の核心がある。「古き村が統一体であるのに対し、新しき村は統合体であるべきだ」と言う時、その相違は偏に個人を真に活かすことができるかどうかという点にあるだろう。「古き村」は全体の意志によって統一され、個人はそれに従うことを求められる。言わば「全体のために個がある」というのが「古き村」の本質に他ならない。それに対して「新しき村」では個が中心となる。ただし、それは「近代都市」における個々バラバラのアトムとしての個ではなく、それぞれの個が全体を反映しているモナドとしての個だ。すなわち、村の一人一人の「私」が「新しき村」でなくてはならない。これは「古き村」の常識からすれば、もはや共同体とは言えぬものかもしれない。然り、「新しき村」はその究極の理想において共同体を超えていくものと思われる。「古き村」(全体のために個がある)を超えたのは「近代都市」(個のために全体がある)だが、「新しき村」はそれさえも超える後―近代(ポスト・モダン)のX共同体(X印つきの共同体は、従来の共同体概念の止揚を意味する)であるべきだ。

古き村―近代都市―新しき村。人間は原理的に何らかの共同体を求めざるを得ぬ存在だ。しかし現代人はもはや統一体としての共同体(古き村)に生きることはできず、さりとてその否定による個々バラバラの状態(近代都市)にも堪えられない。この窮境を打開するものこそ統合体としてのX共同体であり、「新しき村」はそれを実現しなければならない。しかし「古き村」の共同体と「新しき村」のX共同体は具体的にどう異なるのか。それについて述べるに当り、私は今後、「新しき村」のX共同体を「共働態」と記し、次のように「古き村」の共同体と区別したいと思う。

古き村―唯一の理想によって統一される共同体(「全体のために個がある」統一体)
新しき村―様々な個人の理想が統合される共働態(「個即全・全即個」の統合体)


   (2)祝祭共働態としての「新しき村」

「新しき村」の精神の第一は、「全世界の人間が天命を全うし各個人の内にすむ自我を完全に生長させることを理想とする」ことにある。私はこの理想を、「人間の天命を全うする事」は肉体の糧によって可能となり、「各個人の内にすむ自我を完全に生長させる事」は魂の糧によって可能になるというように理解している。従って、「新しき村」は肉体の糧と魂の糧を同時に無理なく満たすことのできる共働体でなければならない。しかし先にも少し問題にしたが、常識的に考えれば、共働できるのは肉体の糧に関してだけであり、各個人の魂の糧については共働などできないだろう。確かに「近代都市」の構造においてはそう言う他はない。しかし「新しき村」の共働態では全く事情が異なる。この点について改めて考えてみたい。

私は先に「個人の理想は魂の糧に関するものであり、全体の理想は肉体の糧に関するものである」とした。言うまでもなく、この区別では肉体の糧を求めることにおいてしか人間の共働は成立せず、全体の理想は「全ての人が食うに困らぬ社会の実現」に限定されることになる。確かに「この世の中に食うために働く人が一人でもいれば、その世の中は未だ完全ではない」と言われる武者小路氏の言葉に明らかなように、それが「新しき村」の目指す理想の一つであることは間違いない。しかし乍ら、肉体の糧については共働し(六時間の義務労働)、魂の糧については孤独に、などという生活の在り方が人間の究極の理想であるとは到底思えないし、また思いたくもない。とは言え、それぞれの人間の魂の糧は純粋に主体的・個人的なものであり、そこには本来共働はあり得ない。それ故、魂の糧の追求は原理的に孤独なものだ、ということになる。

しかし、それにも拘らず、私は敢えて魂の糧についても共働を求めたいと思う。それは単なる芸術の共同制作の如き最大公約数的なものではなく、それぞれの魂の糧が舞い踊る最大公倍数的なものを目指す。勿論、そこにはもはや先に述べたような個人の理想と全体の理想の区別はない。すなわち、究極的な全体の理想は、「全ての人が食うに困らぬ社会の実現」という肉体の糧だけに限定された理想を超え、「全ての人の魂の糧が最大公倍数的に統合される祝祭空間の実現」という段階にまで達しなければならないのだ。私はそうした言わば魂の祝祭共働体こそ、個即全・全即個の成就を目指す「新しき村」の究極態だと思っている。それは存在の祭り、と言ってもいい。自己を真に活かす場である「新しき村」は毎日がお祭りであるような生活を実現すべきだ。自他共生という理想も祝祭共働態においてこそ実現できるものと信じている。宮澤賢治曰く、「おお朋だちよ、いっしょに正しい力を併せ、われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようではないか」(「農民芸術概論綱要」)

祝祭共働態としての「新しき村」――私はここにユートピアの究極態を見る。勿論、現にある新しき村がこの最終段階に辿り着くまでには、未だいくつもの段階を経なければならない。その第一はやはり肉体の糧をめぐる水平的問題、すなわち「全ての人が食うに困らぬ社会を如何に実現するか」という経済問題であろう。「新しき村」といえども肉体の糧を得るための経済なくしては成り立たない。さもなければ、布施で肉体の糧を得て魂の糧を追求している出家者集団と大差ないものに堕してしまうだろう。「新しき村」に経済は不可欠だ。ただし、それは古い経済(特に資本主義経済)であってはならない。「新しき村」には新しい経済が必要なのだ。それは近代農業を超える農業の在り方を様々な形で摸索している多くの先進的な農民たちが求めているものでもある。残念乍ら今の私にはそれについて具体的に述べられるだけの力はないが、新しい農業の在り方、そしてそれを可能にする新しき経済を求める運動が徐々に世界的なうねりとなりつつあることは間違いない。日本におけるユートピア(もしくはコミューン)運動の草分け的存在である「新しき村」がこの流れを無視することはできないだろう。むしろ先頭に立って新しき経済を追求し、それによって祝祭共働態を実現しなければならない。そして全世界に向かって叫ぶのだ、「全ての農業労働を、舞踏の範囲まで高めよ」(宮澤賢治)と。   


 おわりに

ヒトが人間として生きる。それは垂直の次元における魂の糧と水平の次元における肉体の糧を満たすことを意味する。私はこうした人間観に基いて、魂の糧を求める活動を「仕事」、肉体の糧を求める活動を「労働」としたいと思う。もし人間の本来的な生を「仕事」に見るならば、「労働」を最小限に、いや将来的には無に帰することこそ人生の理想だと言えるだろう。そして、その理想を実現するものこそ「新しき村」でなければならない。昔から「働かざる者食うべからず」というのが常識であるが、「働く」を「労働」と見なすならば、この常識はもはや「新しき村」では通用しない(勿論、これはあくまでも理想を実現した究極態においてのことだ)。「新しき村」では「働かなくても食うことができる」からだ。しかし、これは決して「新しき村」を怠け者の村にすることではない。尤も怠けることが自分の魂の糧だという人は怠けてもいいだろう。怠けることが彼の「仕事」になるからだ。それで自分が人間として本当に生きているという実感が得られるならば、他人がとやかく言う筋合いはない。しかし現実にそういうことはあり得ないと思う。「怠ける」という状態は「労働」の拒否ではあり得ても、決して「仕事」の否定にはなり得ない。「仕事」の否定は人間として生きることの否定に他ならないからだ。それに「労働」を無に帰することは水平の次元を否定するものではない。たとい垂直の次元に人間本来の生があるにせよ、それは主体的なもの(神的なものと私の絶対的関係)であって、それ自体が共同体を成すことはあり得ない。「新しき村」はあくまでも水平の次元において形を成す。すなわち、それぞれの主体がその垂直の次元において収穫した魂の糧による饗宴こそ「新しき村」の究極態なのだ。私はそうした祝祭共働態の実現こそ我々の「仕事」だと思っている。

自己紹介に代えて

私は数年前まで岐阜県の小さな短大で宗教哲学を教えておりましたが、自らの「思耕」の成果を実践するために、意を決して新しき村にやって来ました。ずっとキリスト教を中心にした宗教思想を研究してきたわけですが(とはいえ私はキリスト教徒ではありません)、1989年にPh.Dを取得してアメリカから帰国する頃から「これからは研究よりも実践だ」と思い始めました。勿論、宗教について全てを研究し尽くしたわけではありませんが、宗教もしくは哲学の本質は結局「人間が本当に生きるとはどういうことか」という問いの解明であり、それは私自身が本当に生きてみせることでのみ成就されると思ったのです。マルクスも言っております――「哲学者はこれまで世界を様々に解釈してきた。しかし、重要なことは世界を変革することだ」と。少なくとも私は様々な宗教や哲学の思想をただ講義するだけの人間にはなりたくありません。そんなわけで、帰国以来、実に滑稽な試行錯誤を繰り返してきましたが、不登校の高校生を対象にした学校で教えたのを切掛に「人間の真の自立」ということを中心に考え始め、それはやがて農の実践、更には理想的なコミューンの実現というヴィジョンにまで発展しました。その過程で、オーエン、フーリエといった所謂ユートピア思想、ソローの「森の生活」、日本では安藤昌益、宮澤賢治、そして武者小路実篤の新しき村などに関心を持った次第です。


新しき村については、その名前だけは昔から知っておりましたが、それが現在も続いていることを比較的最近知り、村のHPを通じて2001年の5月に村を初めて訪れました。それ以来、折に触れて村を訪れたのですが、その回数を重ねる度に、新しき村を実現することの困難さを思い知らされました。「村は絶望的に停滞している」というのが私の偽らざる印象でした。実際、新しき村に関心を持って入村しても、やがて幻滅して離村してしまう者の後が絶えません。おそらく皆さんが来村されても、その理想と現実の余りのギャップに幻滅されることでしょう。かく言う私も幻滅を余儀なくされた者の一人でした。その時の村には武者小路実篤の精神が息づいているのを実感できる所が殆どなく、そもそも村の理想について熱く議論できる雰囲気がなかったのです。むしろ、それを求めると嫌がられる傾向さえありました。何故こんなことになってしまったのか、それを詳しく分析している暇はありませんが、ただ村には日向の時代から「農業現実派」と「芸術理想派」の対立という問題があったようです。すなわち、新しき村は決して単なる農業生産共同体ではない筈ですが、さりとて農業による経済的自立なくして「自己を真に活かす生き方」もあり得ない、というディレンマです。それ故、「人はパンのみにて生くるにあらず」と思って新しき村での生活を始めようとした人がパンの生産だけをしているように見える村の現状に幻滅するのは当然でしょう。重要なことは「パン以上の理想」(魂の糧)と「パンの現実」(肉体の糧)のバランスであり、新しき村にはその両者が必要不可欠であるにもかかわらず、今の村は「パンの現実」に囚われ過ぎているように思われたのです。


とまれ、私はこうした村の現状に幻滅し、入村を諦めかけました。しかし今は、その幻滅にもかかわらず、敢えて入村し、そこに踏みとどまるべきだという思いを次第に強くして、現在に至っております。と言うのも、今の新しき村を断念して、私自身の新しき村を一から創ろうとしたところで、結局同じようなディレンマに直面するのは明白だからです。とすれば、たとえ現状がどんなに停滞していても、今の村に踏みとどまって、少しずつその理想実現に努めていくべきでしょう。幸いなことに、今の村でもその改革の可能性が皆無だというわけではありません。村内の若い人や村外会員の中にも、村の改革を望む声は次第に大きくなりつつあります。大袈裟に言えば、新しき村の実現は人類の理想だと私は思っています。そして、その理想を全世界に広めていくことが村の使命だと思います。残念ながら、今の新しき村は未だその理想を実現しておりませんが、多くの「同志」が共働すれば必ず実現できるものと信じております。その意味において、多くの方々との出会いを心から求める次第です。
                                                                                                                                    

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