「新生会」について | 新・ユートピア数歩手前からの便り

「新生会」について

村の閉塞状況を打破するために「新しき生活を実現する会」(略称:新生会)というものを村内・村外の有志とともにつくりました。そして昨年末の評議員会でその設立を諮りましたが、色々と批判が多く、結局認められませんでした。先駆的に「新しきこと」に挑戦しないで何が「新しき村」か!と憤懣やるかたありませんが、これが村の偽らざる現実です。しかし我々はこの現実の壁の前で尻尾を巻くつもりはありません。再度「新生会」を村の新事業として認めさせる努力をするか、それとも村を見限って新たな道(NPO法人化など)を摸索するか、今はその両面を考慮中ですが、できるでけ早く「新生会」の具体的な活動を始めたいと思っています。その意味でも「新しき村の精神」並びに「新生会の趣旨」に共鳴して下さる方々との連帯を切に望む次第です。とまれ、本日は「新生会」についての拙文をお読み下さい。


「新生会」について
日比野英次


 私は今、村に来て三年目の冬を迎えようとしている。この二年間、私はそれまで頭の中だけで考えてきた「理想社会」の在り方を根源的に問い直し、併せて新しき村の現状およびその可能性について吟味する作業を進めてきた。そしていよいよ具体的な活動を始めようと思っている。

 尤も私の活動に対しては少なからぬ反発があり、私に不信感を抱く向きもあるだろう。例えば私は折に触れて現在の村は「食うための労働」(経済的自立を維持するための労働)に追われて村本来の活動が疎かになっているという見解を表明してきたが、これなども現在の村の基礎を築き、そして維持せんと懸命に汗を流してきた兄弟姉妹たちの努力を私が無視しているかのような印象を与えているようだ。そのような誤解を招くことは私の不徳の致すところではあるが、勿論それは私の本意ではなく、私は決してこれまで村の発展に尽くされてきた人々の歴史を軽視するつもりはない。

 しかし問題は「これまでの村」ではなく、あくまでも「これからの村」だと思われる。村は現在高齢化が進む一方、若い人の入村は思うように進まないというのが実情だ。一体何故か。新しき村にはもはや若い人を惹きつけるだけの魅力がないのか。決してそんなことはないと私は思う。新しき村の「真の新しさ」が理解されれば、必ずや若い人たちの主体的情熱を掻き立てるに違いない。その意味において、潜在的には「新しき村の精神」に共鳴する者は若い人に限らず無数に存在すると思われる。

 実際、何らかの形で村を知り、或る情熱を抱いて村を訪れてくる者は決して少なくない。しかし残念乍ら、今の村の体制はそうした人々の情熱に充分応えられないでいる。一体何が問題なのか。それは本来「新しきこと」に先駆的に挑戦していくべき村がその使命を果していないことだと思う。ただし、ここで注意すべきことは「新しきこと」は単に「古きこと」を否定することで得られるような単純なものではないということだ。少なくとも「古きこと」の単なるアンチテーゼである近代主義のもたらす「新しさ」は新しき村が挑戦すべき「新しきこと」ではない。

 私はこれまで繰り返し近代主義の「新しさ」と新しき村の「真の新しさ」の相違について述べてきたが、それはその点にこそ新しき村の核心があると確信しているからだ。とは言うものの、今の村にはなかなか「新しきこと」に挑戦するだけの余裕が(精神的にも経済的にも)ないというのが現実であろう。しかし、このままの体制では村の将来が切り開けないというのも現実だと思われる。それ故、こうした二つの現実の狭間で身動きできなくなっている村の閉塞状況を打開するために、新しい組織を設立することを土曜会で検討を重ねてきた。その結果、「新しき生活を実現する会」(略称・新生会)を立ち上げようということになった。先ずはその「趣意書」をお読み戴きたい。


「新しき生活を実現する会」(新生会)趣意書

設立目的

 新しき村の理想実現というプロジェクトを具体的に進めていくに当って、早急に必要とされるのは経済的な構造改革だと思われる。一体何が問題なのか。それは生産活動のみで村の経済を維持していこうとしている現体制に他ならない。もし生産活動だけで村の経済を支えていこうとするなら単品の大量生産しかないが、それは明らかに村らしくない。では、如何なる体制が村に相応しいか。それは生産(一次産業)のみならず、加工(二次産業)・販売およびサービス(三次産業)をも含めた所謂六次産業化(一次+二次+三次)した体制であろう。すなわち多品目の農産物を基本にして、それを加工して村独自の方法で販売していく真に自立した体制だ。更に言えば、そのような生産・加工・販売が三位一体になった体制においてこそ、多くの「新しき会員」を迎えられるものと我々は信じている。

 しかし、言うまでもなく、そうした体制を直ちに実現することは難しい。それ故、現状におけるアポリア(根源的課題)を打開する第一歩として、新しい組織の設立を提案したい。名付けて「新しき生活を実現する会」(略称:新生会)、その主な目的は真に循環的な六次産業化した「新しき体制」(村で生産したものを、村で加工し、村で販売する)を準備・実現していくことにある。

 とまれ、現状では村本来の活動が十全に果せず、さりとてラディカル(急進的)な変革を直ちに実行することもできない以上、暫定的にそれを担う新たな組織が必要とされると思われる。しかしこれは本来、村内における所謂「義務労働」の範囲内の活動であることを改めて強調しておきたい。従って「新生会」の活動は、ゆくゆくは発展的に解消し、最終的には村内の主たる活動になっていくことが望まれる。その意味において、「新生会」の役割は自転車の補助輪の如きものと言えるかもしれない。

活動内容

 「新生会」の活動としては、「財団法人 新しき村 寄付行為」に記された事業内容に即して、次のような基本方針で進めていく。

・ 近代農業のあり方を根本的に問い直し、真に持続可能な農の営みを摸索していく。(「新しき村農法」の確立) 併せて自然エネルギーの活用を積極的に進めていく。

・ 「完全協同経営」という理想についても改めて問い直し、各自が「真に喜びに満ちた労働」に従事できる道を追求する。言うまでもなく、「真に喜びに満ちた労働」は農業に限定されるものではない。すなわち、それぞれが「村の経済を支え、しかも自らが喜びをもって行うことのできる労働とは何か」という問いを深め、その理想が実現できるように皆で考えていきたいと思う。

・機関誌及びホームページの充実によって「新しき村の精神」を普及宣伝し、多くの同志を募っていく。

 具体的な活動内容としては次の六点を考えている。

1. 売店の充実および独自の販路開拓
2. 飲食業の展開(蕎麦屋、喫茶店など)
3. 広報活動(機関誌・ホームページの作成)
4. 加工分野の確立(製パンなど)
5. 教育活動(主に精神的に自立できない若者を対象)
6. 福祉活動(老人グループホームなど)

当面は1から4に焦点を絞り、その活動拠点となるコミュニティセンターの建設を目指す。
 
コミュニティセンターの建設計画は未定であるが、ログハウス(十五坪程度)の新築もしくは生活館の改装などを考えている。

組織

 「新生会」の組織としては「財団法人 新しき村」の新事業として展開することを希望しているが、新事業が軌道に乗るまでは独立採算で運営するものとする。新事業への参画メンバーの候補者は次のとおりである。

   運営責任者   日比野英次(村内会員)
   会計担当者   浅岡 伴夫(村外会員)
   監査担当者   倉敷 幸児(村内会員)
   事業企画委員長 未定
   事業企画委員  未定
 ただし、新事業の会計は全体としては村の会計に組み入れるものとする。

資金

 コミュニティセンターの建設も含めた「新生会」の立上げ資金(八百万円程度を予定)は、全て「新しき村 会員」からの借入金(無利子)によって賄う。借入金は返済猶予期間を五年間とし、その後は返還請求時点から六ヵ月以内に返済するものとする。借入者の名義は「財団法人 新しき村」とするが、借入金の返済に関して何らかの支障が生じた場合には日比野・浅岡が誠意を持って対処するものとする。
 
以上


 さて、この「趣意書」の内容について特に強調したいことは、「新生会」の活動は「理想的な労働の在り方」を摸索する一つの試みであるということだ。それは活動方針に明記してあるように、「完全協同経営」という新しき村の理想を改めて問い直すことを意味する。そもそも「完全協同経営」とは何か。それは雇用・被雇用という関係を超越し、全ての人が経営者であると同時に労働者でもあるような「共働態」に他ならない。実際、村内で義務労働を果している兄弟姉妹たちは村に雇用されているわけではなく、月々支給される「個人費」もその労働に対する報酬(給料)ではない筈だ。しかし全ての人が村の経営者であるという意識は未だ確立されておらず、結果的に普通の賃金労働者と外見上大差ないものとなっているのが現実だろう。我々はそうした現状をこそ「新生会」の活動によって打破したいのだ。

 私はその点に関連して、「割り算の分業」と「掛け算の共働」ということを考えている。何れも「自他共生」を目指していることに違いはないが、その在り方は質的に全く異なっている。すなわち前者においては全体が優先され、その全体を分割した部分を担うことが個人の役割となる。それは言わばジグソーパズルの各ピースをそれぞれの個が嵌めていくような共生だ。それに対して後者では個が優先され、それぞれの個の自己実現が全体を完成していくような共生だと言えよう。すなわち全体として一つの花を咲かせるための分業ではなく、個々の花が咲き誇る共働――そこに我々の目指すべき「新しき生活」があると思われる。

 確かに皆で一つの大きな花を咲かせるという喜びはある。私はそれを無下に否定するつもりはない。ただ、その喜びが滅私奉公的なものに流れていくのなら、そこには「新しき生活」はないと思う。むしろ個々の花が咲き誇る光景こそ、一つの大きな花に優る美を生み出すものと信じたい。

 何れにせよ、「新生会」の活動は個々の人間の主体的情熱が中心となる。言い換えれば、それぞれの「生の充実」に対する主体的情熱なくして「新生会」の活動は成り立たないということだ。その意味において、「新しき村の精神」並びに「新生会」の趣旨に共鳴する人々の積極的な参加を呼びかけたい。それは資金面での協力もさること乍ら、むしろ「新しき村」という場を通じて「如何に自己を活かすか」ということの表明に他ならない。各自の主体的情熱が掛け合わされて成長していく魂の饗宴――そこに祝祭的共働を目指す「新生会」の本質があると私は思っている。